第37話 一縷の望み

 アレクの顔色は死人を見間違うほど青白く、ぐったりとして額には汗がにじむ。こんなアレクをケルトが見たら発狂していたに違いない。


 今夜もまた。


 その言葉がアレクの心に重くのしかかる。


 二度と夜なんてこなければいい。しばらくの間離れていたバロンの欲望は渇望がうわ乗せされて、いままでで一番酷いものだった。次はなにをされるのだろう。考えれば考えるほど恐ろしい。


 だけどアレクが一番耐えられなかったのはバロンに凌辱された体の痛みではなく、マーリナスとの誓いを守れなかったことだった。


 自分以外の人間とそんなことをするなといってくれたのに。


 知られたら嫌われるだろうな。誰とでもそんなことをする穢らわしい人間だと嫌悪され、もう二度とあの優しい笑顔を向けてくれることはないだろう。そしてきっと、こんな自分に口づけをしてくれることも二度とない……


 想像するだけで胸が苦しく涙が零れ落ちそうだった。


 だけどアレクは思い出した。こんなことは、ずっと繰り返してきたことなのだと。


 マーリナスと過ごした優しい時間の中で、忘れていた愚かな自分をあざ笑うしかない。


 自分は男娼のように生きて、何人もの人間とこうして交わってきた穢れた人間なのだ。


 自分をひとりの人間として扱ってくれたマーリナスの優しさに甘えて幸福感を味わい、愚かにもこのまま、ほんのりと心に募る甘い想いを胸に秘めて、ずっと一緒に生活できたらいいなと夢までみていた。


 だけどこれが本来の自分の生き方で、こんな穢れた自分が幸せを手に入れる権利なんて、最初からどこにもなかったんだ――


 力ない笑みを浮かべたアレクにケルトは気づくことができなかった。




 ◇




 その頃。


 アレクの足取りを追って周囲を捜索していた追跡班、トマス・レンジはロナルドと合流を果たしていた。


「一晩中、増援部隊と周囲を探してみたのですが、それらしいものは見つかりませんでした。何人か小者は見つけたのですが、情報にあったバロンの手下やモーリッシュの手下も見当たらず、お手上げ状態です」


 国際手配犯であるモーリッシュ・ドットバーグとその手下については、ロナルドよりもベローズ王国警備隊の方が詳しい。


 追跡班がアレクの足取りを見つけてくれていれば良かったのだが、やはりそう簡単にはいかないようだ。


 だが、いつこの近郊にモーリッシュやバロンが姿を現すかわからない以上、この場を離れるわけにもいかない。


 ロナルドはトマスに現場の指揮を任せ、予定通りバロンの屋敷に集まった探索班と合流することにした。


 だが――


「マーリナス隊長。なぜあなたがここにいるのですか」


 正面の扉は鍵がかけられていたため、ロナルドから教えてもらった使用人の部屋から侵入を果たし、集った探索班の中にマーリナスの姿をとらえたロナルドは目を丸くする。


「上の指揮はギル殿に任せてきたから、問題ない」


「しかし……」


「ただ上で黙って待っているのは性に合わなくてな」


 探索班に指示を出しながら、さらりといってのけたマーリナスにロナルドは深々とため息をつく。おおかた、アレクのことが心配でいてもたってもいられなかったのだろう。


「追跡班はまだ所在地を特定できていません。やはりここの探索にかけるしかなさそうですね」


「ああ」


 屋敷内を動き回る探索班に目を向けながら、マーリナスは思考をめぐらす。


 前回突入をかけたときも、財産押収のため屋敷内はくまなく探索したはずだ。そのときは隠し通路など見つからなかったが、ロナルドの手腕を認めているマーリナスは一縷の望みをかけていた。


 どこかに見落としがあるのだ。

 

 そう信じて動くしかない。その小さな希望がマーリナスの平常心を保っていたのだから。


「そういえば……前回突入したとき、地下牢はほとんど手をつけなかったのではありませんか」


 ふと顔を上げたロナルドにマーリナスは瞬時に思考をめぐらせると、大股で地下牢へ向かって歩みを進めた。


「行くぞ」


「はい」


 冷静になって考えてみれば、なぜあのときバロンは地下牢に逃げたのか。逃げたいのなら窓を割って外に飛び出すこともできたはずだ。


 行き場のない地下牢に逃げこむなど、自分から袋の鼠になったようなもの。愚策以外のなにものでもない。


 だがもしあそこに、他の逃げ道があったとしたら――

 

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