Hayez
tony.k
黒い名刺
12月17日(月)
12月の寒空の下、塚本はスラックスのポケットに手を突っ込み、1人で煙草を吸っていた。
あらゆる場所の禁煙化が進む中、気が付けば警察署内の喫煙所も封鎖されていた。
追い出された喫煙者たちは、外に寂しく置かれたスタンドタイプの灰皿に今は群がっている。
いっその事、法律で禁止してくれりゃあやめるのに-禁煙できない自分への言い訳でしかなかった。
近頃は一段と寒くなり、吐いているのは煙なのか息なのか、時折分からなかった。
塚本浩一はF県が管轄するH警察署の刑事だった。背は170センチと小柄だが、体術を得意としていた。年齢の割に筋肉質なその身体は、休日のジム通いの成果だった。とは言っても、あと4年で定年退職を控えている。
「 そこにいたんですか、塚本さん 」
煙草を手に持った部下の田中寛が近寄ってきた。42歳にもなるというのに、皺が目立つよれよれのスーツを着用し、痩せ細った身体と凹凸の少ない薄い顔立ちは、刑事としての貫禄を感じられなかった。
「 今日は少しゆっくりあるからな。たまにはこんな日もあっていいだろう 」
「 そうですね 」田中は軽く頷き、煙草に火をつける。
「 そういえば、この所、妙な噂が署で広まってるんですよ、知ってます?」
「 妙な噂?」
「 ええ。なんでも、この街のどこかに、行くと必ず幸せになれる店があるとか。選ばれた者にのみ、店の名刺が届くそうです 」
思わず吹き出し、大量の煙が塚本の口から放出された。
「 なんとも胡散臭い話じゃねぇか。そんなものが本当にあるなら、俺も是非行ってみたいね 」と言って鼻で笑った。
「 俺は諦めてませんけどね、結婚。いつか絶対してみせます 」
田中の切実な発言に、またか、と塚本は呆れた。結婚というワードは田中の口癖だった。
「 でも、どうやって名刺が届くんだろうな 」
「 さあ…家のポストとかですかね?」
灰皿に煙草を押しつけ、火を消した。噂というよりも、都市伝説に近い話だなと思った。
*
午後6時過ぎ、仕事を終えた塚本は繁華街を歩いていた。今日はやけに人が多く、カップルも目立ち賑わっていた。視界に入る店の殆どが、クリスマス仕様で飾られている。
可能なら目を瞑って歩きたい気分だった。塚本はクリスマスが嫌いだった。
12月25日は娘のように可愛がっていた姪である水野愛美の命日だった。
愛美は臨床心理士として大きな病院に勤めていた。容姿端麗で性格は明るく、笑顔の絶えない優しい心の持ち主だった。独身である塚本のことをいつも気にかけてくれていた。
2年前のその日は雨が降っていた。愛美は歩道橋で足を滑らせ転落し、亡くなった。まだ28歳という若さだった。
死因は頭を強く打ったことによる、急性硬膜下血腫との検死結果が出た。
連絡を受け、現場に駆けつけた塚本は、変わり果てた愛美の姿を見るなり嘔吐していた。警察官として採用されてから、36年間で初めてのことだった。
見開いた目で、蒼白した愛美の顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
その日以来、遺体を目にすると、全て愛美の姿と重なって見えた。明らかに仕事に支障をきたしている自覚があり、刑事としての限界を感じていた。部下の田中はそんな塚本に気付いている筈だった。
愛美は、塚本の妹が27歳の時に生まれた子どもだった。出産後、病院へは1度だけ顔を見に行っていた。
赤ん坊という生き物は、こんなにも小さいのかと、抱くのが怖かった。妹はそんな塚本を見て笑っていた。
父親は愛美が5歳の時に癌で亡くなっている。愛する夫を失い、母子家庭としての不安を抱え泣いている妹を見て、自分が2人を守り生きていこうと決めた。
一般的な、父親としての役割を必要とした時は、時間が許す限り足を運んだ。
小学校の運動会にも何度か行っていた。愛美が2年生の年、PTA競技の障害物競走で1位を獲ったことがあった。いい大人が目の色を変え、本気で挑んでいた。
愛美は、目を輝かせ、興奮しながら喜び、1位を称えてくれた。満足感はあったが、次の日に、全身筋肉痛で苦しんでいたのは言うまでもない。
愛美の成人式の日は着物姿の写真が送られてきた。和装がとても良く似合う、大人の女性に成長していた。
その写真を見た塚本は、愛美のこの先の人生が幸せに満ちたものであるよう願うばかりだった。
愛美には当時、深沢和也という婚約者がいた。背が高く、体格の良い青年だった。大学の同期で、同じ臨床心理士として別の病院に勤めていた。
雨が振る中、執り行われた納骨式で、傘もささずに墓の前で立ち竦む喪服姿の和也を、塚本は今も忘れられなかった。雨で濡れたその顔は、泣いているようにも見えた。
繁華街から地下鉄を乗り継ぎ、駅からは歩いて家へと帰り着いた。塚本は古びた2階建てのアパートの1階に住んでいた。
ポストから新聞と郵便物を取り出し、鍵を開けて部屋に入る。明かりをつけ、帰る途中で買った弁当と郵便物をテーブルに置き、上着を脱いだ。
塚本が住む1DKのアパートは、風呂とトイレはついていたものの、とにかく古かった。
キッチンの床板は歩くたびに軋む音がして、昼間でも部屋全体が薄暗かった。天井には黒い滲みが点々とあり、畳は毛羽立っていた。
食事は弁当か外食がほとんどだった塚本にとって、寝ることができればそれでも不満はなかった。
部屋は小さなタンス1つとテーブル、その横に置かれたごみ箱の他に、テレビがあるだけの殺風景なものだった。畳んだ布団は置きっぱなしだった。
脱いだ上着をハンガーで壁に掛けて座り、弁当を広げ食べ始めた。郵便物を片手に取りチェックする。新聞は食後と決まっていた。
1つ1つ見ていると、広告のチラシと葉書の間に小さな黒い紙が挟まっていることに気付いた。
それは名刺だった。
Hayez-アイエツ-と中央に書かれている。その文字の下には電話番号らしきものが記さていた。
塚本は暫く名刺を見つめたまま、昼間に田中が話していたことをふと思い出した。
「 行くと必ず幸せになれる店があるとか。選ばれた者にのみ、名刺が届くそうです 」
誰の元からかも分からない都市伝説のようなその話を、刑事である塚本は信じていなかった。名刺から目を逸らし、そのままごみ箱へと投げ入れた。
*
12月18日(火)
忙しなく鳴る携帯電話の音で目が覚めた。休みの日はアラームの設定を切っている筈だった。
重たい瞼を無理矢理開けると、カーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいる。手探りで電話を取り、確認すると着信が入っていた。画面には水野瞳と表示されていた。
「 ……はい 」頭の中がぼんやりとしたまま、電話に出る。
「 あ、もしもし、兄さん?ごめんなさい。もしかしてまだ寝てたのかしら 」
電話の向こうの声は寝起きの塚本とは違い、明るくハキハキとしていた。
「 いいよ、気にしなくて。どうかしたのか?」携帯電話を片手に、布団から上半身をゆっくりと起こす。
「 愛美の三回忌のことなんだけど、来られそう?来てくれるなら兄さんの分の法要弁当も頼もうと思って 」
「 今の所大丈夫だよ。今度はちゃんと行くから 」
「 良かった。兄さんが来てくれたら愛美もきっと喜ぶわ 」
一周忌には急な案件で行けなかったため、今回は既に休みを申請していた。
「 もう三回忌だなんてあっという間だったわ。時間が経つのって早いのね 」
「 そうだな 」
そう言うと、あの日の愛美の顔をまた思い出しそうになり、頭を強く振って紛らわした。
あんな顔の愛美を、母親である瞳にはとても見せられなかった。遺族に遺体が引き渡された時の愛美の顔は綺麗に戻っており、酷くほっとしたのを覚えている。
「 詳しいことはまた連絡するわ。身体に障るから、外食ばかりじゃ駄目よ、兄さん。うちはいつでも構わないから、たまには顔をみせてね 」
「 分かったよ、ありがとう 」塚本は目を閉じて少し微笑んだ。
電話を切り、布団から立ち上がろうとした時だった。テーブルの上に違和感があった。ごみ箱に捨てた筈のあの黒い名刺が置かれている。確かに捨てた筈だった。
食後の酒に酔い、記憶がないだけで、自分で拾いあげたのかとも考えた。塚本は名刺を手に取り、暫く見つめた。
右手に名刺、左手に携帯電話-何かが2つを繋ぎ合わせようとしている気がしてならなかった。
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