2018.9.

重陽の節句




『月がきれいですね』



 夏目漱石が英語教師時代、「I love you」を「月がきれいですねとでも訳したらどうですか」と言った事から由来されている。

 のは、事実かどうか不明で、都市伝説的な逸話らしい。






「茎がきれいですね」


 ああ。

 天に見放され、己にも裏切られた。


 相手の反応が怖くて、己と相手の中間地点に位置する一輪の茎の上に鎮座する大菊に視線を留める。

 満月の代わりになるはずだった、神秘的で高潔な白の大菊。




 月がきれいですね。


 本来はそう言うはずだった。

 だが、一時間前に待ち合わせ場所に着いた途端、不安が襲った。

 今は煌々と輝いていても、いつ曇天に姿をくらまされるか分かったものではない、と。


 やはり、好きだと、きちんと告白できるようになるまで延期するか。


 弱虫な己がむくむくと増大する。

 いつものように。


 そんな刻に視線に入ったのは、僥倖か失態か。


 流石にこれ以上引き延ばすのは、との想いに後押しされて足が運ばれた先は、一軒の花屋。


 買うのならば、べたに薔薇を百本、なんて。

 そんなこっぱずかしいまねができるのならば、とっくの昔にしている。


 弱虫が消えないままに、買ったのは一本の大菊。

 言い訳ができるからだ。

 今日だからこその言い訳。


 いつものように。




 やってしまった。

 勇気を振り絞った結果がこれだ。

 茎がきれいですねって、なんだそりゃ。

 確かに一本筋が通り、艶々していてきれいだけども。


 やはり一時間ぽっちでは、到底時間が足りなかったのだ。

 月だったらまだ、なんとか、裏切られる事はなかっただろう。


 そもそも、菊がきれいですねと言われても、反応に困るだろう。




「あのですね。本日九月九日は重陽の節句と言いまして、邪気を祓い長寿を狙って、菊の花を飾って酒を酌み交わして祝う日なんですよ。この大菊もその為に用意したもの。お互いに長生きしましょうって。このきれいな茎みたいに胸を張って背筋を伸ばして、花のように大輪を咲かせましょうと」


 意気消沈する心に反して、声音の、なんと意気揚々なことか。

 自分、よくやったと褒めて、どうぞと大菊を手渡し、口が閉じぬうちに居酒屋に行こうかと言おうとしたところ。


「十四時間」


 満月を背に、あなたは笑う。

 とても無邪気に。


「菊は短日性で、二十四時間中十四時間が暗闇でないと開花しないそうです」


 大菊を受け取って、あなたは背を向け歩き出す。


 満月はまだ、姿を見せている。


 なのに、




「その暗闇に」




 続く言葉は心の内にだけか、それとも。




 二人以外には、見上げてさえもらえなかった満月だけが知っている。







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