九頁 泥と墨



《――中庭にある灯籠、よく悪い事に使われてた。中にタバコとか突っ込まれて、隠されてて……》


《――この壁、昔は蔦がベタベタに張ってたんだ。ああ、それを伝って、二階に登ったバカが居たねぇ……》


《――華宮、思い出すね。学校でも一番の美人さんで、生徒の中じゃ1番仲良しだった。若風と、三木。あいつらとよくつるんでた……》





「何だ、この声……」


 姿の見えない花子さんを探している最中、僕の頭には彼女の声が響き続けていた。

 否、それだけじゃない。声に呼応した情景も、うっすらとだけど脳に浮き上がっている。

 それはまるで、彼女の記憶を――いや、思考を読み取っているような……。


「……思考を、読み取る?」


 呟く内にふと気づき、手に持つめいこさんを見た。

 彼女は、思考を読み取り文章に起こす能力を持っている。それが現状に何らかの作用を齎していても、不思議だとは思わない。

 先程受けた衝撃で、何かの回路みたいなものが繋がったのだろうか。痛みの消えない右眼を抑え、悩み。


《――この窓枠、木目。無いのは走り回る生徒だけで、殆ど前と変わっちゃいない。はは、そういえば声がイカれるほど怒鳴った事も――》


「っ、いや、今は考えるより追わないと」


 次々に流れてくる声に頭を振り、気を取り直して走り出す。

 窓枠という事は、既に校舎内に入っているのだろう。

 幸いというべきか、この学校は生徒数が比較的少なく、校舎の数も少ない。手当たり次第に当たったとしても、大した手間にはならない筈――。


「……そうだよな。今の時間、鍵なんてどこも閉まってるよな! バカか!」


 懐中電灯に照らされる、しっかりと締め切られた校舎を見ながら毒づいた。

 前言撤回。やっぱり手間だ。


《――皆、大好きな子達だったのに。守るべき、子達だったのに……》


 片っ端から鍵の開いてる場所を探している間にも、花子さんの声は止まない。

 そうして垂れ流される言葉と情景を見聞きし続ける内、気付けば彼女の正体について大方の察しがついていた。


「花子さん、生前はここの教師だったのか……?」


 おそらく間違いないだろう。

 そして理由は分からないが、彼女は酷い自己嫌悪に陥っている。それも、絶望と表現出来る程に深く。


(くそ、何処だ。何処かに入れる場所は無いのか?)


 とてもとても、嫌な予感がする。

 焦りのままに校舎の窓を弄ってみるけど、やはり開かない。

 僕は大きく舌打ちを打ち鳴らすと、すぐに別の場所へと向かい、


《――……ソイツはね、この学校の保険医だったんだ》


 まるでスイッチを切り替えるかのように、花子さんの声質が冷たい物へと変化した。

 同時に背後で小さな音が響き、見れば先程弄り回していた窓が口を開けている。


「……開けてくれた……ん、ですか?」


 恐る恐る周囲を伺い問いかけるが、やはり返事は無く。


「…………」


 開かれた窓。その内側から善くない何かが流れ出ている錯覚がしたのは、きっと気のせいじゃない。

 しかし、他の選択肢は無かった。一度深呼吸をし、意を決して窓枠を跨ぐ。


「……暗いな。当たり前だけど」


『あしもとには、気をつける、のでありますよ』


 入りこんだ教室の中は真っ暗で、廊下に出てもそれは同様。

 月明かりは遮られ、唯一消火栓の赤いランプが灯るだけ。少し先の光景すら闇の中に霞んでいた。


《――好青年、ってぇのはあんな風な事を言うんだろうね。何時もきっちりしてて人当たりも良くて、学校内でも人気者だった》


 それにしても、先程から何の話をしているのだろう。

 保険医という男について話しているのは分かるが、その意味が分からない。

 まだ錯乱したままなのだろうかか。疑問に思いつつ、廊下を進む。

 教室、物置、そして本命のトイレ。

 一階の様々な場所を覗いたが、花子さんの姿は見つけられず。そうして、二階への階段に足をかけた。


《――……思い返してみれば、アンタと少し似ていたよ。眼鏡とか、外見も》


「え?」


 いきなり水を向けられ、思わず天井を見上げる。

 独り言かとも思ったけど、眼鏡がどうこう言ってたし、僕だよな。多分。

 さっきの話からすると褒められているような感じだが――何故か、全くその気がしない。


《――でもね。アイツの心の中は、ドス黒く汚れてたんだ。外面だけ取り繕って、裏じゃ保険医って立場を利用して、女の子達相手に好き勝手やってたのさ》


 ……正直、色々と突然過ぎて真意を察せなかったが、意味不明と切って捨てるには言葉に重みがありすぎた。

 僕はただ流されるそれを脳に刻みながら、続いて二階の探索を行う。

 けれどやはり彼女の姿は見つからず、すぐに切り上げ三階に。


「……?」


 階段の踊り場を通り抜ける一瞬、窓から見える校門の前に、青い乗用車が止まっているのがうっすらと見えた。

 誰か職員がやって来たのだろうか。咄嗟に懐中電灯の明かりを絞り、物陰に身を隠す。

 そして暫く様子を窺うものの、光もエンジン音も無く、人の気配も無し。


(……駐車しただけの無関係か、或いはもう校内に入っているのか)


 何にせよ、警戒は強めた方が良いかもしれない。

 喉を鳴らし、静かにその場から離れた。


《――アタシがその事に気付いたのは偶然だった。たまたま保健室に立ち寄った時に、一冊のノートを見つけたんだ。

 少し席を外していたみたいでね、保険医の姿は無かった。それは机の上に書きかけのままで放置されていて……そん中には何人もの女生徒の「記録」が事細かく残されてたよ》


「…………」


 三階に上がった途端、空気が澱んだ錯覚を受けた。

 怒り、嘆き、悔恨。右眼が再び強く疼き始め、敏感に負の感情を察知する。

 そしてそれは――始めの予想通り、トイレの方から漂っているように思えた。


「……やっぱり、結局ここに戻るのか」


 トイレの花子さんという怪談における、根幹的なシチュエーション。

 男子か女子かの違いはあれど、当の怪談で指定されていない以上は無視できる。

 ゆっくりと、廊下を進んでいく。


《――ぞっとした。書かれていた「記録」には、アタシの知ってる名前もあってね。でもそんな事されてるなんて、全然思いもしてなかった》


 詰まる所、酷く屈折した女好きだったって事さ。

 花子さんは、そう言った。


 ……屈折した女好き。

 それがどういった意味を孕むのか理解出来ない訳では無かったけれど、意図的に思考を鈍らせる。胸糞悪い事柄だと容易に予想できたから。

 そしてそれきり、プツリと声が止まった。

 丁度、トイレの扉に触れた所だ。


「……続きは中で……ってか」


 硬い軽口を叩きつつ、指先で扉を押し開く。

 ……こういう場所は、どこも同じらしい。

 トイレ特有のすえた臭いが鼻を突き、今度こそ完全に女子校への幻想が壊された。

 そして、部屋の中央。探し求めた彼女は、タイルの床にしゃがみ込んでいた。


「! 花子さん!」


 女子トイレに入るという行為に、忌避感なんて抱いていられなかった。

 僕は衝動的に彼女の下へと走り出し――。


「っ」


 ぴちょん、と。

 何か、粘性のある雫が落ちるような水音が聞こえた。

 同時に右眼が強く痛み、嫌な予感が足をその場に縫い付ける。


『それで、呆然としてたらアイツが帰って来た。タイミングが悪くノートを持ってる所を見られて、言い争って揉み合って、それで首を締められて……気付けば、ア、アタシは、今のこれ。目だけ残して縛られて、狭い所に押し込められた……!』


 手洗い場の蛇口に目をやったけれど、どこも開いては居なかった。

 白い石造りのその場所は乾いたままで、水の気配は微塵もない。

 ……では、どこから?


『ぐるぐるぐるぐる。ずっと文字が回ってたァ。き、気持ち悪い情欲が、理解したくもない達成感が、延々と延々と頭の中にねじ込まれるんだよ』


 ぴちょん、ぴちょんと水音は続き、やがてその間隔も狭くなる。

 周囲の空気が、焦げ付いたように重く淀む。

 右眼が、脳が一層痛みを訴える。

 耳鳴りが酷く、膝を突いた。胃の奥から寒気が上り、肌の泡立ちが止まらない。


『ああ、気持ち悪い、反吐が出る。思い出しただけでも吐きそうだ……!』


「は……、花子、さん…………?」


 彼女が何を言っているのか、何を伝えようとしているのか。

 答えは既に僕の中で形作られているというのに、それに理解が追い付いていない。

 もどかしさの余り、僕は低い唸り声を上げ――「……ッ」見た。見てしまった。

 ……彼女の朧げな足元に、黒い水たまりが広がっている。


『……なぁ。アタシが押し込まれたその場所、何処だと思うよ』


「……、………………っ」


 理解は及んだ、口も開く。だが、答えない。

 何故ならそれは既に明確となっている事柄であり、現状の前提でもある。

 言葉にする必要すら、無いんだ。


 ――そうして何の反応も返さない僕に、花子さんは滑らかさの欠けた緩慢な動きでこちらを振り返った。


「ひ……――、っう」


 彼女の両眼は、黒い粘液によって濁りきっていた。

 計り知れない程の悪意と嘆きが込められた、汚泥の詰まった深い沼。

 それは先日の丸眼鏡の男と同じく、負の感情でもって僕を貫き、見つめ。


『アンタはアイツに、よく、似ている。それは在り方であり、容姿であり――そして、最後に、もう一つ……ッ!』


 カチリ。何か引き金を引くような音を聞いた瞬間、喉元を衝撃が突き抜けた。


「ぁ――ッガ、は……ッ!?」


 首が外れたかと思った。

 音もなく伸びた彼女の腕が、僕の喉を握り絞めたのだ。

 ミチミチと肉を締め付け、骨を潰す。

 何故、どうして。そんな疑問は今更抱くべくも無い。


 僕をその保険医とやらと似ていると言い、激昂した。

 それはつまり、そういう事なのだ。


「……ぁっ……あ゛ぁ……!」


 痛い、苦しい。

 強い圧迫で首から上に血が昇り、旋毛から血や脳みそが吹き出しそうだ。

 涙と鼻水が流れ落ち、恐怖が心を支配する。

 慌てて彼女の腕に爪を立てようとするけど、それは触れるに至らず空を切る。


 待て、待ってよ、おかしい。このままじゃ僕、死――。


「――…………――……」


 ……それで、良いんじゃないのか。

 度を超えた苦しみと混乱の中、冷静な部分の僕がそう囁いた。

 無論、僕も死にたくない。死にたくない――けれど。


(……で、っも。僕が、やった事、めいこさん、持っていた奴らの、事っ。考えたら、だったらっ、殺されるの、って……?)


 ――きっと、償いになる。そんな考えに至った瞬間、抵抗する気力が抜け落ちた。

 まずい、と思ったけど手遅れだった。

 力が抜け落ち柔くなった首に一層深く指が食い込み、頸動脈が潰され視界が真っ黒に染まった。


「……――……か、びゅ」


 眼球がぐるんと裏返る。

 鼻奥に酷い塩気が込み上げた感覚がして、それを最後に意識が暗転。

 全てが、唐突に終わった。


 暗い、昏い、冥い。

 脳が、心臓が、内臓をかき分け下方へと落ちていく。

 地面に落ちたそれは音を立てて弾け、彼女の垂らした汚泥と混じり合い――。


 ――ぷくり。右の手首が弾ける音が、真っ暗な世界に残響した。

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