一頁 残滓



「……ん、委員長か。最近調子が悪そうだが、大丈夫か?」


 午前中の授業が終わった昼休み。

 授業の準備のため、担当教科の教師に会いに職員室まで来ていた僕は、背後から声をかけられた。

 振り向けば、鋭い目つきの女性――僕のクラスの担任の若風先生が立っていた。


「……ええ、特に問題はありませんが」


「そうか? この前の怪我からお前、初日の印象より元気無いように見えてな」


 前の眼鏡から変わったせいかな。

 そう冗談を言って、先生はどこか心配そうな視線を僕の右肩へ送る。

 まぁ、それも当然だ。今はもう殆ど治っているけれど、つい最近まで半脱臼状態で動かす事すら億劫な状態だったのだ。心配されるのも仕方ない。


「階段から転げ落ちたんだろ。辛かったら言え。出来る事は配慮してやるから」


「……ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、もう殆ど治ってますので」


 右手首に装着しているリストバンドを抑え、穏やかに笑う。

 嘘では無い。先日まで三角巾で吊られていた右肩は快方に向かい、完治まで後僅か。

 医者からは、激しい運動をしなければ問題無いとお墨付きを貰っていた。


 ……ちなみに、怪我の原因に関しても嘘は吐いていない。

 ただ先生が怪談を階段と間違え(るように話し)、勘違いを(意図的に)正していないだけである。


「確かに大きく動かせば痛みは感じますが、そこまで動かす事は稀ですしね。このリストバンドだって、傷跡を隠す目的の物なんですよ」


「なら良いんだがな」


 その言葉に先生は眉を緩め、笑みを見せる。

 そして二言三言会話を続けている内――ふと、彼女の視線が下がった。


「……ん? 右手、何か垂れてるぞ」


 制服に隠れた右手首。

 リストバンドの下に巻いた包帯から黒い粘液が滲み出し、手の甲に垂れ落ちていた。

 強い粘性を有したそれは、泥のようにゆっくりと僕の肌を流れ、どろり、どろりと湿った音を響かせている。


「血……じゃあ無いな。どうしたんだ、それ」


「…………」


 訝しげに問いかける先生に、僕は返せる言葉を持っていない。

 これが何かなんて、こっちが知りたい事柄なんだ。


「ああ、別に問題ないですよ、だってこれ――」


 しかし、僕はにっこりと笑顔を取り繕う。

 優等生の仮面を被り、嘘も真実も当たり障りも無い言葉を吐き捨てる。


「――ちょっとだけ、インクが零れただけですから」


 ……その時の僕は、ちゃんと笑えていたのだろうか。

 自信は、無かった。





 あれから、およそ一週間の時が過ぎていた。

 咲き誇る花の奥から若葉の新芽が顔を出し、少しずつ季節は動く。

 僕の右肩やその他の怪我も概ね完治。多少の『後遺症』は残ったが、何とか普通の日常を……いや、以前より上等な日々を送れている。


 あんな事があったのに、自分でも図太い精神だとは思う。

 でも山原という負の要素が抜け落ちた日々は穏やかなもので、僕に唯一残された救いでもあった。


「…………」


 男子トイレの個室。

 妙な匂いの漂う密室の中で、僕はリストバンドを外し、その下の包帯を取る。

 不快感を伴う異音と共に顕になった右手首は、誰かの掌の形に黒く溶け爛れていた。


 僕の体に残る、一番醜い傷跡だ。

 罪の十字架と言うには醜く、聖痕と言うには穢れ過ぎている。

 病院でもさじを投げられたこの痕は、一週間経っても元に戻る兆候を見せていない。


「……呪い、か」


 溜息を吐き、トイレットペーパーで手首を拭う。

 どうもこの粘液、常に手首から溢れ続けているらしく、定期的な処理が必要となっている。

 痛みも痒みも無いのは助かったと言えなくもないが、地味に面倒だ。


(……随分と、慣れちゃったもんだ)


 冷静な自分を軽く笑った。

 そして真っ黒な液体を滴らせる紙を便器の中に放り込み、レバーを引いてハイさようなら。

 同じく黒くなった包帯を処理し、新しい包帯を汁気の少なくなった患部に巻きつけリストバンドで封をした。これで放課後までは誤魔化せる。


 最後に全身をくまなく検分し、黒い粘液が垂れていない事を確認。

 手洗い場でよく右手を洗い流し――。


「……っ……」


 ――何気なく目を上げた瞬間、眼前の鏡に『嫌なもの』が映り込んだ。


 咄嗟に右眼を隠すように抑え、『嫌なもの』を見ないように覆い隠す。

 少し乱れた動悸を深呼吸して落ち着かせ、顎に入った力を徐々に抜く。本当、碌でもない『後遺症』だ。


「あー……やだやだ」


 呟いて、手を下ろす。『嫌なもの』が再び視界に映るけど、甘んじて見た。

 今僕に降りかかる全ては、その殆どが僕の責任によるものだ。

 それがどんなに理不尽で不可解で非常識な事でも受け入れなくちゃいけない。


 僕は投げやりに廊下への扉を開き、教室へと向かって歩き出す。

 扉が締まり切る直前、右眼に映ったトイレの中――そこには、半透明の女性が虚空を見つめ浮遊していた。


「……幽霊、ねぇ。バカじゃないの」


 手首の粘液に、霊視能力を得た右眼。

 どうも僕は肉体的にも能力的にも常人の域を逸脱してしまったようなのだ。

 上になのか、下になのかは知らないけれど。



 *



『――ええと、そのう。あなたの体に起きた変調は、あの場に吹き荒れていた霊力が血液を通し、傷口から体内に溶け込んだ弊害だと思われます。たぶん』


 この一週間の間、僕はめいこさんへ身体の異変について何度も問いかけた。


『そも、霊力とは。肉体を宿として巡る霊魂の欠片であり命の源。同じく全身を廻る血液と共に育まれ、ええっと、自らの生と血に誇りを持ち精神を高める事によって力を少しずつ増していき――』


 ……まぁ詳しい解説は省略。

 端的に言えば、僕の右手首と右眼は霊障――つまり呪いを受けた状態にあるとの事らしい。


 呪いとは、霊の放つ怨念によって引き起こされる、様々な身体異常の事を言う。

 それが即ち僕にとっての粘液であり、右眼限定の霊視能力である訳だ。

 思えば、手首を掴まれ振り回されたり、ガラス片で傷ついた眼球に血が流れ込んだりと心当たりがあり過ぎる。当然といえば当然の事象と言えた。


(かと言って、納得できるかどうかは別問題だけど)


 午後の授業中、教師の言葉を聞き流しつつその話を思い出し、手首を抑えた。


 ブヨブヨとした肉とは思えない柔らかい感触に吐き気が昇るが、肝心の患部には何も刺激を感じない。

 それでいて指先の感覚は正常な辺り、どうも神経や血管といった物理的な問題を超越しているらしい。


(くそ、これも元はといえばこいつの……!)


 傍らにあるめいこさんの表紙を腹立ちまぎれに引っ掻いた。

 彼女が決して善い存在では無い事は、先日の一件で痛い程に理解している。

 そうだ。本当ならば、すぐに焼き捨てて然るべきなんだ、こんな物。


(……けど、それじゃあ……)


 しかし、それは逃げでしか無い。

 彼女は最初から自分の力を述べていただけで、何をしろと命令した訳じゃない。

 むしろ僕には使えないと再三言っていたのだ。


 それなのに怪談を使用するためにあれこれ考え、ルールの隙を突き勝手をしたのは僕の方。

 お前の所為だと指差し、処分するのは絶対に何かが間違っている。


「……あの、どうしたの? 調子とか悪い?」


 するとそんな苛ついた様子を見咎めたのか、隣席の十さんがこちらを覗きこんできた。

 その瞳は僕の肩へと向き、案ずるような色合いを滲ませている。

 僕は即座に仮面を被ると、苛立ちを隠しにこやかな笑みで迎え撃つ。


「いや、何でもないよ。ちょっと眠かっただけだから」


「……ならいいけど、もし具合悪かったらすぐに保健室行った方がいいと思うよ。今朝も無理か何かで倒れた人が居たみたいだから」


 私も、出来る事があれば助けるからね。

 十さんはそう言うと少し照れたようにはにかみ、顔を正面に戻した。

 そこには何一つの後ろ暗さもなく、純粋に友人の助けになろうという気持ちが伝わってくる。


「…………ッ」


 僕の腐った心根とは大違い。強く唇を噛み、鉄錆の味を飲み込んだ。



 *



「……陽、ちょっと長くなったかな」


 放課後を迎え、帰り道。暖かな陽光に目を灼かれながら、僕はぼんやりと思う。

 暴力も無く、罵倒も無く。教師も、クラスの友人も、皆優しくて良い人ばかり。

 今の生活こそ、僕が長い間憧れていた理想の学校生活であった。


 しかし、その代償はとても大きい物だった。

 山原達の事、手首の事、そして――あの日の最後に見てしまったモノ。

 取り返しのつく物は何一つ無く、常に罪の意識が付き纏う。


「…………」


 そうして鬱々と歩いていると、やがて住宅街に繋がる小路が見えて来た。

 今更言うまでもない、異小路の場所へと繋がる道への入口だ。


 迂回したい、とは思うけれど。

 逃げた所で精神が安定する訳も無いし、遠回りした分帰宅時間が遅くなるだけだ。

 僕は罵倒を一つ吐き、憂鬱な足取りで狭い道へと体を捩じ込んだ。



 ――あの日、最後に僕が見たモノ。それはピンク色の絨毯だった。



 狭い小路いっぱいを埋め尽くす程の、ここでは無い何処かから現れた粘液の海。

 最初は、それが何か分からなかった。

 いや、本当は分かっていたけど、理解する事を拒んでいたのかもしれない。


 粘着質な音を立て流れ続ける肉の隙間に、『彼ら』は居た。

 呪いに犯された右目にしか映らない、この世ならざる幽かな存在――人の霊魂。

 行方不明事件の被害者と思しき幾人ものそれが、醜悪な肉に埋まっていたのだ。


「……っぐ……」


 ……辿り着いた件の現場、肉があった場所にその光景を幻視し、思わず嘔吐く。

 彼らは、彼らだった物は、最早人の形を成していなかった。

 肉と同じく、魂さえも一つに練り合わされていた。


 互いの頭が、互いの腹が、手足が。全て一つに混ざり合い、不格好な塊となり。

 捻れ、引きつった肌を突き破り生えている腕の先には性器が生え、あらぬ場所から覗く眼球には口腔があり――そして、それが紡ぐ言葉を、僕は聞いた。


 ――たすけて。その四文字が、今もなお脳にこびりついて離れない。


 ……それから先の事は、記憶に無かった。

 もしかしたら錯乱するまま救急車かパトカーを呼んだかもしれないが、はっきりしない。

 気付いた時には、自宅でお婆ちゃんの位牌を抱きしめて泣いていたのだ。


「…………くそ」


 喉元まで迫り上がる酸っぱい物を飲み下し、口元に手を当てたまま小路を歩く。


 そこに、肉の塊の姿は無い。

 まるで最初から存在していなかったかのように、綺麗さっぱり消え去っている。


 あれは幻覚だったと思いたかった。

 しかし塀やアスファルトには血の跡がくっきりと残っている。紛れも無い現実だったと自覚するには、十分すぎる証拠品だ。


 ――では何故、肉の海は消えたのか。気にはなるが、もう考えたくなかった。


「…………」


 歩き様、ブロック塀を指でなぞる。

 あちこちが欠け、ボロボロになったそこに二つ並んだ『界』の文字。

 僕の後悔を象徴する、大小様々な線の集合体。


「――っ!」


 力一杯蹴り飛ばすが、僕の力じゃ傷一つ付ける事は叶わなかった。



 *



 僕はお婆ちゃんの作る味噌汁が大好きだった。

 隠し味に醤油が入った、何の変哲も無い、なめこの味噌汁。

 一日二回。朝と夕方に必ず食卓に並び、荒んだ日々を送る僕の心に活力と安心感を与えてくれたのだ。


 一応僕もレシピの伝授は受けたけれど、完全には味を再現できていない。

 まぁ、その日は永遠に来ないのだろうな、きっと。


「はぁ……」


 自宅。味噌汁と白米だけの夕餉を終えた僕は、のったりとちゃぶ台に倒れ伏す。

 色々な物が染み込んだ木材の香りが、つんと鼻を突く。


(……自首、しなきゃいけないよな)


 警察に、そして山原の父親に。

 もし彼らへ赤裸々に罪を告白し何らかの罰を与えられれば、きっとこの鬱屈とした感情や罪悪感に一つの終わりが齎される。

 それは正しい選択で、社会倫理的にも最良の選択肢である……と、思うけれども。


「……怪談がどうとか、絶対信じてくれる訳ないよ……」


 事実は小説よりも奇なり……とは言うけれど、余りにも奇をてらい過ぎて説得力が微塵もない。

 少年院ではなく、精神病棟のお世話になる事うけあいであろう。


「…………」


 いや、それは言い訳だ。

 僕はただ、己が非を認めたくないが故に、自首しない理由作りをしているだけなんだ。


 だってそうだろ、悪いのは山原達だ。

 アイツ等が何もしなければ、僕だって何もしなかった。

 お婆ちゃんを汚そうとした奴らの排除が悪とされるなんて、絶対に納得できない。


 そもそも僕は山原の蛮行に長い間耐えてきたんだ。

 それを全部一纏めにすれば、今回の事よりよっぽど――!


「……っぐ!」


 ゴン、と。

 罪悪感がもっと汚い物に変わろうとする気配を感じ、机に頭を叩きつけて思考を打ち切る。

 空のお椀が倒れ、僅かに残った味噌汁の雫が傍らのめいこさんに飛んだ。

 相反する感情が絡み合い、黒いインクとなって僕の心を埋めていく。


「……あ」


 ふと手の甲に違和感を感じ見てみれば、手首の粘液が筋を一つ作っていた。

 どうもネガティブな事を考えていると粘液の溢れる速度が増すようだ。

 僕は思考から逃げるように、慌てて洗面所に走り処理を行い――。


(……、そういえば、昼……)


 ふと学校で見た女幽霊の事を思い出し、右眼で洗面所の鏡を見た。

 ひょっとしたらお婆ちゃんの霊魂でも映らないかと期待したが、呪いを受けた右眼には何も映らない。何時も通り、狭い部屋が映るだけだ。


「……ねぇ、めいこさん。昼頃に男子トイレに居た幽霊だけど……」


『ふわぁああ、しょっぱい、であります。おいしい、であります。ふおおおおー!』


 気になる事が浮かび、めいこさんに問いかけると、彼女は味噌汁の味にむせび泣いていた。

 非常に気持ち悪かったので、無言でパタリと閉じておく。


「……幽霊、ねぇ」


 ――虚ろな視線で虚空を見上げ、ぼんやりと佇む女性。


 まさか、あの人も怪談の核とかじゃないよね?

 沈んだ気持ちの中で浮かんだ碌でもない冗談に、乾いた笑いが小さく漏れた。


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