怪男子
変わり身
二百七十三年前
死体が、あった。
闇の中、周囲を石壁で囲まれた部屋。
昼夜も分からず、目を凝らさなければ足先すらも見通せない程に、暗く、深い場所。
そんな暗く雑多な部屋の中央に、彼女は横たわっていた。
年の頃は十代の中頃。
整った顔立ちに色素の薄い長髪を垂らした、一糸纏わぬ少女の死体。
散らばる書物を押しのけ、強引に設置された祭壇上。身体に沿って置かれている蝋燭の炎に炙られている彼女は、言いようの無い儚げな存在感を放っていた。
「――――…………」
一つ。その傍らに傅く影がある。
それは横たわる少女に許しを請うかのように、小さな呻き声を上げていた。
――老人。
蝋燭に照らされるのは、小柄な身体に白衣を羽織った。年老いた男の姿だ。
禿げ上がった頭頂部に、深い憎しみと悔恨に染まった皺だらけの顔。
しわがれた両手の小指は根本から断たれており、真新しいその断面から絶え間無く流れる濁った血液が、白衣に赤黒い染みを作り出していた。
しかし老人は、痛みを感じる素振りも見せてはいない。
祭壇の上に横たわる少女に愛おしそうに手を這わせ、両手から流れ出る血液と、見開かれた左目から零れ落ちる涙を肌の上に擦り込んでいた。
股に、腹に、乳房に。
顔と同じく皺だらけの掌で持って、白雪のような肌を穢していく――。
「……、…………ッ!」
異常としか言いようの無い光景。
少女の周りに置かれている蝋燭が揺らめき、老人の顔を走る皺に生まれる影もまた、揺れる。
刹那にも満たないその一瞬。老人の表情が、慙愧に満ちたものへと変わった。
「――ッ……!」
老人の行為が、唐突に止まる。
祭壇の少女は老人の体液に塗れ、ぬらりと妖しい光沢を放つ。
施された血化粧はまるで肌の赤みのようで、見る者に倒錯的な性欲を掻き立たせる事だろう。
「……ぉお……! ぉぉぉぉぉ……」
老人は呻き声を噛み潰しつつ白衣を探り、ゆっくりとある器物を引き抜いた。
それは少しくすんだ鈍い鉄。人体を切り開く為の鋭利な刃――メスだ。
これから始まるのは、正しく外道と呼ばれる所業。
倫理、道徳、尊厳。
人間が人間として正しく在るために必要な暗黙の了解。その外側。
最早後戻りの出来ない領域に、老人は辿り着いていた。
「フー、フー……ッ」
震える。
過度の緊張と興奮により息が上がり、目尻から溢れる涙がその量を増していく。
彼の姿からは、これから自身が行う「作業」への好奇など欠片も伺えない。ただ、何らかの強迫観念のような物に駆られている事のみが察せられた。
……もし、一つ歯車が外れていれば。
少しだけ何かが違えていれば、彼は狂わずに居られたのかもしれない。
しかし、結果はこの様だ。
何が間違っていたのか、正しき道はどこにあったのか。
答えの全ては二度と戻らない過去へと棄てられ、もはや拾われる事も無い。
「…………――――!!」
狂気が、高らかに渦巻く。
老人は全身を震わせながら、自らの体液を撒き散らしメスを振り上げた。
少女は目を閉じたまま身動ぎ一つせず、穏やかな顔で。
食い縛られた老人の口元からは声にならない絶叫が迸り――。
――『怪異法録』
老人の足下に転がっていたその書物が、赤黒い飛沫で染まった。
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