第20話 両親の記憶

『こりゃあ困ったねぇ、と言ったのだよ』


 スピーカーの向こうからドクター中森の声が響く。

 しかし誠はやや声を荒げて叫んでいた。


「そうじゃねえよっ。娘が父親から離れていくって。優羽はお前の娘なのか!?」


『ん、ああ。その通りだよ。目元などよく似ているだろう』


「に、にてませんしっ。私は中森博士の事なんて実験されていた事しか覚えてませんっ」


 優羽が抗議の声をあげるが、ドクター中森にはその声は響いていないようで平然とした声が戻ってくるだけだった。


『そりゃそうだろうね。幽体兵器として利用するためには、余分な記憶は不要だからね。お前の記憶はほぼすべて消去してある。だからお前は自分が何者かも覚えていないだろう』


「そ……そんな……」


 優羽はうつむいて肩を震わせていた。


「自分の娘を実験に使うなんて、どこまで人でなしなんだよ……っ」


 吐き捨てるように誠はつぶやく。だがドクター中森はその声にも平然とした口調でただ答えを返すだけだった。


『これは異なことを言う。むしろよそ様の娘を使う方が大変ではないかね。行方不明になったとか下手に騒がれても面倒だが、その点自分の娘なら偽装も簡単だ。病気で入院しているといえばそれですむからね。ほら自分の娘を使わない理由なんてないだろう』


「……情ってものがないのか、あんたにはっ」


『何を言うんだい。あるさ。私は娘を愛しているよ。だからこそ娘が願ったものはすべて与えてきたし叶えてきた。だから今回はちょーっとばかり私の願いをきいてもらおうってね。まぁそういう訳ですよ。はははは。別に幽体兵器になったからといって死ぬ訳でもなければ、何が失われる訳でもない。まぁ電気ショックを与えなければならないのは心が痛むが、まぁ実験のためなら多少のことは仕方あるまい』


 ドクター中森はまるでごく当たり前の事のように告げていた。

 優羽の震えはとまっていない。それどころか頭を抱え込むように抑え始める。


『さてと霊体発生装置が壊れてしまったからには、そろそろU-02は霊体のままではいられなくなるだろうからこのあたりが潮時かな。残念ながら今回は私の負けのようだ。君達の希望通りU-02は肉体に戻るだろう。でも負けたままじゃあ悔しいからね。一つだけ仕掛けをさせてもらったよ』


 ドクター中森は特に悔しさなど感じさせない声でつぶやく。


『U-02の記憶の封印は解いておいたよ。だからU-02はこれからすべてを思い出すだろう。でもね。逆に言えばその間に覚えた記憶はすべて無くしてしまっているはずだ。だからU-02は私の事は覚えていても、君達の事はすべて忘れてしまうだろうね。さてその状態で今の関係が続けられかな。楽しみにしているよ』


「……貴様!?」


 誠が叫ぶ。

 その隣で美朱と錯乱坊主が優羽を心配そうに見つめていた。なにやら声をかけているようではあったが、その声は優羽には届いていないのか、ただ頭を抱え込んでいるままだ。


『それでは君達ごきげんよう。君達に主の加護がありますように』


 ぷつと音をたててスピーカーが切れる。

 それと同時に優羽の姿が再びこの場から消えていた。


「優羽!?」


「誠、急ぎなさい。優羽ちゃんはおそらく術がとけた事で霊体が肉体に戻った。だからたぶんいまあんたの部屋にいる。どれくらいで気を取り戻すかわからないけど、どちらにしても放っておく訳にはいかない」


 美朱が慌てた声で告げる。

 奥歯をかみしめながら、それでも誠はきびすを返して家へとかけだしていた。





 急いで自分の部屋に戻り扉をあける。

 その部屋の真ん中に少女はたたずんでいた。


 腰までのびた長い黒髪が、真っ白なワンピースを引き立てている。くりんとした大きな瞳に、整った鼻先。艶やかな紅い唇は、微かな笑みを覗かせている。

 すらりと伸びた細い足。右手には銀色の、左手には金色のブレスレットを身につけており、よりいっそう彼女の可憐さを引き立てている。


 どこか全体的に儚げな色彩を帯びて、触れれば消えてなくなりそうにも思えた。物憂げな瞳は、少女の柔らかな顔立ちをよりいっそうに引き立てている。まるでこの世の物ではないかのように。

 透き通るような白い肌は、どこか儚げで触れれば消えてしまうかのようだ。


 しかし少女は浮かんではいなかった。

 少女は誠をみるなり、唐突に声を漏らした。


「ち、痴漢ですかっ!?」


 どこかで訊いた少女の台詞に、思わず誠は咳き込んでいた。


「ぶはっ。げほっげほっ」


「あ。だ、大丈夫ですか。でもほら、痴漢とかしようとするから、そういう目にあうんですよっ。悪い事したらいけませんっ」


 少女はやや眉をつりあげて告げると、指先を一本たてて左右に振るう。


「だ、誰が痴漢だよっ。誰が」


 誠は何とか息を整えながら、目の前の少女に向かって声を荒げる。しかし少女は誠の言う事がわからないとばかりに眉を寄せる。


「あなたですっ!」


 少女――目を覚ました優羽はぴっと指を誠に向けて告げる。


「違うわっ!? と、いうか、優羽、目を覚ましたのか。大丈夫なのか!?」


「あ、はい。とりあえず大丈夫ですけど……。どうして私の名前を知っているんですか? あなたどなたですか? はっ、さては痴漢じゃなくてストーカーなのですねっ。お、おまわりさん、ここでーーーす!!」


「違うわっ!? 誰がストーカーだ、誰が!?」


「あなたですっ!」


 告げる優羽の言葉に誠は優羽が無事に目を覚ました事への安堵と、そして優羽は何も覚えていないのでろう寂寥感に息をもらした。


「はいはい。いちゃいちゃ夫婦漫才はそのへんにしておきなさい」


 不意に美朱が声を挟む。


「夫婦じゃねぇよ!」

「そーですっ。まだ夫婦じゃありま……あれ……なんだろ……これ」


 優羽はいつものくだりをつぶやきかけて、そしてためらうように声を漏らす。


「優羽、覚えているのか?」


「え……いや……。わからないです。でもなんだか……このやりとりは覚えがあるような気がします……」


 優羽は考え込むようにして頭を抱えていた。

 霊体だった頃の記憶は失われているようだった。だけどおそらくは心のどこかに残っている。完全に忘れてしまった訳ではないのかもしれない。

 その事実だけで、誠は救われたような気がしていた。




「と、まぁおおよそこんなところなんだけど、記憶にあるかしら」


 ドクター中森の事は伏せて、幽霊になっていた優羽を元に戻すために誠が奮闘した事を美朱は説明していた。

 しかし美朱の言葉に優羽は首を横に振るう。やはり覚えてはいないようだった。


「私が覚えているのは、お母さんと一緒に教会にお祈りにいったところまでです。その中で突然強い痛みが走ったと思ったら目の前が真っ暗になって、気がついたらここでした」


「そう。なるほどね。優羽ちゃん、でいいのかしら。貴方の事をもう少し教えてちょうだい。そうね、簡単に自己紹介をしてもらえると助かる」


「あ、はい。名前は中森優羽です」


 彼女が名乗った名前に誠は強く胸が痛んだ。

 彼女は中森優羽と名乗った。名字が中森だということは、ドクター中森の娘である事は間違い無いだろう。


「えっと趣味はスライムいじめで、特技はさかだち歩行です」


「まてまてまてっ。なんだその趣味は。スライムいじめってなんだよ」


「え。山とかによくいるスライムを、木の棒とかでつんつんとつついて遊ぶんですよ。ぷるぷるしていやがるので、とっても面白いですよ」


「見た事ねえよ、山でスライム!? どこの異世界だ、ここはっ」


「あれー、そうですか。みたことないですか。まぁ、そうですよね。嘘ですから」


「正直に話せよ!?」


 優羽のあまりのぼけに誠の胸の痛みは一瞬でどこかに飛んで行ってしまっていた。


「冗談はこれくらいにして。趣味は今のように人をからかうことですっ」


「ひでぇ趣味だよ、こいつ」


 誠は悪態をつきながらも、それでも優羽が元気でいてくれる事には胸をなで下ろす。こうしてつっこみを入れていなければ、涙が出そうなくらいに。


「で、特技は本当はなんなんだ」


「え、特技は本当ですよ。さかだち歩行で百メートルくらい余裕です。ほらっ」


 言いながら優羽は部屋の中で逆立ちをしてみせる。

 同時にワンピースのスカートも垂れ下がっていく。


「わーーーー。お前、スカートだろうが。やめろっ。いますぐやめろっっ」


 誠の声がただ部屋の中に響いていた。


「大丈夫ですよー。スパッツはいてますからー」


 逆立ちしながら優羽は逆立ちのまま部屋の中を歩き始める。


「そういう問題じゃねぇんだよっ」


 誠は顔を真っ赤にしながら優羽から視線をそらすので精一杯だった。





「それで私の家庭は父は医学博士で病院を経営しています。母は専業主婦なのですけど、えっと言いづらいのですけど、実は新興宗教にはまってしまってまして。父はそれを疎ましく思っていたみたいです。私は小さい頃から普通に教会とかに連れて行かれていましたので、あまり違和感はなかったのですけど、大きくなってからは普通の宗教じゃない事はわかってました。それでも一緒に教会にお祈りにいくと母が喜んでくれたので、よく行ってました。けど父は私が一緒にいく事も嫌がっていたみたいでした」


 家族の事をきかせて欲しいという美朱の言葉に、優羽は少しずつ話し出していた。

 優羽にとってみれば初対面と感じるであろう誠や美朱に対して、こんな事まで話してくれるというのは今までの話の中で誠達を信用してくれたのかもしれない。


 あるいは優羽の心の中に今までの記憶がどこかに残っていて、それが影響していたのかもしれない。そうであってくれたらいいと誠は心の中で思う。


「ここは柏葉との事ですけど、私が住んでいるのは隣の船塚なんです。ただ父の経営する病院はここ柏葉にありますから、この辺の事は多少は知っています」


 船塚はここからはそれなりに離れた場所にある。車があればそこまで遠くはないが、歩いてくるには辛い、そんな距離だ。


「父と母は私が物心つく頃にはうまくいっていなかったみたいで、家庭ではあまり会話をしているところをみた事がありません。父は忙しかったので、あまり家には戻りませんでしたから、私はどちらかといえば母と一緒に過ごす事が多かったです」


 優羽は少しうつむきながらも話を続けていた。

 しかし顔をあげると、少しだけ笑顔を向ける。


「でも父の病院にいくと、いつも父は楽しそうに迎えてくれて、お母さんには内緒だよって、いいながらも必ずお菓子や食べ物をくれて。私はそんな父と一緒にいるのが好きでした」


 優羽の言葉に誠はふたたび胸が締め付けられるように痛む。

 優羽の言う病院は例の聖エルモ病院で間違い無いだろう。自分が経営する病院だからこそあれだけの事が出来ていたのだ。


 しかし聖エルモ病院はキリスト教系の宗教法人が経営している事になっている。その宗教法人はおそらくは優羽の母がはまっているという新興宗教なのだろう。聖エルモ病院はかつては柏葉総合病院という名前だったが、ある時から聖エルモ病院と名前を変えていた。


 その頃は病院に興味はなかったので気にしてはいなかったが、今の話をきけばドクター中森とその妻との間で何らかのやりとりがあったであろう事は推測できる。

 そしてドクター中森にとってはそれは本意ではなかったのだろう。そこから家族の間の軋轢が激しくなっていたのかもしれない。


 だからといって娘を実験対象にしよう等という事が許されるはずもなかったが。


 それから誠はもうひとつ気がついた事があった。

 かつて優羽は聖エルモ病院の名前をきいて「食べ物の名前みたい」とつぶやいていた。もちろんいま聴いても食べ物の名前には思えない。

 だけど優羽の中にはいつも父がくれたお菓子の記憶がかすかながら残っていたのだろう。

 だから食べ物のようだと感じたのかもしれない。


 この事はすべて誠の推測に過ぎない。

 けれどおそらくは外れていない事は誠は今までの記憶から感じ取っていた。

 優羽が教会について何か思う事があったのも、だけど何か違和感のようなものを覚えていたことも、優羽の母が入信していたキリスト教系の新興宗教のためだろう。話をきくからにはおそらくやや怪しげな新興宗教であるため、本来の教会の形とは異なっていたのかもしれない。そのためにかすかな違いを感じていたのだろう。


「お父さんが好きだったんだね」


「はい。好きです。母と仲違いした今も、私は父も母も嫌いになんてなれませんから」


 優羽の言葉にこれから告げなければならない事実にただ息を吐き出す事しかできなかった。


「……優羽、きいてくれ。信じられないかもしれないが、このことは言わない訳にはいかない」


 説明をしていなかったドクター中森について、誠は語り始めた。

 実の父のしでかした悪魔のような計画について。

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