第16話 夜泣き婆
その夏、初めて蜩の声を聞いた日でした。
その声に誘われて琵琶を爪弾いておりますと、人の気配を感じて顔を上げましたら、
「夜泣き婆と呼ばれております」
老いた声が小さく言って、次のような話を語りました。
夜泣きというのは、赤子の専売と相場は決まっておりますが、わたしは物心がついてからも夜泣きが止みませんでした。
と言って、火のついたような激しい泣きようではなく、辛いことがあってめそめそと泣く、そんな泣きようでございます。
十歳ぐらいになっても、夜になって寝床につくと、なぜだかわかりませんが、泣いてしまっておりました。
傍に寝ておりました二親が、どうした、何が怖い、悲しいか、としきりになだめましても、わたしにもこうだというわけもわからず、どうにも言えぬもどかしさ感じていましたから、それが親どもにわかろうはずはありません。
それでも、大きくなったら、一人前になったら、夜泣きもなくなるだろうと親は何となく思っていたようでした。ところが、娘になってもこれが収まりません。娘盛りに月でも眺めながら涙を流せば、どこぞの物語のお姫様かとも言われましょうが、生憎、それほど器量もよくはありませんし、眠る段になってさめざめと泣き始めるのですから、二親もすっかり呆れてわたしの泣く声など気にせず眠るようになりました。
嫁ぎましてからも、夜泣きが止むとはありませんでした。
はじめは、それも花嫁の恥じらいと受け止められはしましたけれど、毎夜のことではやはり不審に思われ、呆れられ、あげくに子どももできなかったこともあって離縁となりました。
二親が亡くなりましても、家を継いだ弟がわたしを厭うことなく養ってくれていましたけれど、これに縁付いて妹となった女がわたしを嫌って…… いえ、夜泣きをするからではなく、そもそも小姑が疎ましいだけだったのでしょう。
それから弟が急逝してまだ若い甥が跡を継ぎましてからは、わたしの身を置くところはなくなりました。
今、思い返せば、幼いころは二親が亡くなって一人になることを懼れては泣き、些細なことで傷ついては泣き、嫁いだ先では何事もうまくいかないのではないかと勝手に思いこんでは泣き、離縁となってからは、この先も己の居所を失うのではないかと思うては泣き、畢竟、みずから不仕合わせを念じていたもののように思われます。
かように醜く年を取ってもはや帰る家もなく、ただただこちらを目指してようやく辿り着きましたけれど、昨夜も、疎まれるのではないかと案じて泣いておりました……
醜いかどうかは私にわかりませんが、その声には、蜩に劣らぬほどの憂いが滲んでいたように感じました。
その夜から、きぬの暮らしておりますあばら屋に預けましたら、やはり夜泣きをするそうで、翌日からきぬが琴を教えるようになってしばらくすると、夜泣きは止んだそうでした。
夜泣き婆は、夜泣きをせずに迎えた朝に、きぬに礼を述べて霧のように消えてしまったそうです。
さて、今宵は何を弾じましょうか。
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