ウチだけが知っている
「んん……」
トイレの臭いが酷いのも手伝って気持ちが悪い。頭が重い。
……前にミーくんがやってくれたみたいに、指を突っ込んで吐いてしまおうか?
……無理だ。怖い。それに、もし吐けたとしても、そのあとヘタリ込んでしまったら困る。
「何やってんだろ……ウチ」
鏡に映った、冴えない不景気な表情の女に向けてぽつりと言う。
「帰っちゃおうかな……」
うん。どうせ私がいなくなっても誰も気づかないだろうし、何だかそれもアリな気がしてきた。
「……あ」
私は腕時計を見て思わず声を漏らす。
既に二十二時を少し過ぎた頃。ミーくんの終電までもう何分もない。
「ミー……くん」
ぽつりと呟いてみた。
口に馴染んできた言葉。そのはずだったのに……今は違和感を感じる。
ウチに……来るつもりなのかな? 先に帰っちゃったら困るかな?
先程の光景を思い出す。
女子に囲まれ、まるでキャバクラで接待を受ける重役のようだった彼の姿を。
「…………」
いいや。帰ろう。子供じゃないんだし、何とかするだろう。
もしかしたら、他の誰かの所に泊まるかもしれない……あの壁ドン女子の所にでも。
そう思って私がトイレのドアを開けると、そこには先程の茶髪のオタク男子くんがいた。
「あ、えと……?」
ごめんなさい、と言おうと思ったところで『いや待て』と踏み止まった。
ここ男子トイレ女子トイレ別だし。この人はトイレの順番待ちをしてたワケではないのでは?
「え、と都さん……」
彼の目を見た瞬間――うわ、と思った。嫌な予感がしたのだ。
「よかったら……二人で、抜け出さない?」
「…………」
……正直、勘弁して欲しい。
「あの……私、ちょっと体調悪くなっちゃったんで、そろそろお
「え、大丈夫? 送っていこうか?」
「い、いえいえいえ! 大丈夫ですから」
あなたを警戒してるんですぅ……!
「でも……こんな時間に女の子一人だなんて危ないよ? 送ってく」
ええい、冗談ではない……! 察せ! 気づいてくださいっ! 覚醒せよニュータ●プ! あぁもうホラぁ! また胸見た!
「だ、大丈夫です……! ウチ、すっごい近いんで」
そう言いながら私は彼の脇を通り抜け、自分の荷物を取りに席に戻る。
「え、そうなんだ?」
「……っ」
余計なこと言ったかな……と私は口を噤む。
「なら尚更だよ。都さん送って俺、戻ってくるからさ」
結局黙ったのは裏目だったようで、追いついてきた彼が、ここぞとばかりにグイグイくる。
「あの、本当に大丈夫だから……ありがとう」
本当に親切心だったらキツく断ったら失礼だろうか……? 傷つけてしまう? そう思うとどうも
「あ……じゃあさ、連絡先、教えてよ。それで帰りながらチャットでもして、家に着いた時に知らせてくれれば安心だからさ」
……ふむ。
連絡先を教えてしまうことには、多少の抵抗はあるものの、意外と悪くない妥協案な気がしてきた。と言うか、もうめんどくさくなってきたからそれでもいいか。
「あー……うん。じゃあ……分かりました」
そう言って私がスマホを取り出したその時だった。
ダアンッッ!!
と、バカでかい音がした。
慌てて音のした方を見ると、全員の視線の先にはミーくんがいた。
どうやらミーくんがジョッキを、テーブルに乱暴に……まるで叩きつけるかのように置いた……のだと、思われる。
「ふう……ご馳走様でした!!」
彼はその場にいた全員が呆気に取られていることなどどこ吹く風といった様子で大きな声を上げ、
「ありがとう、ご馳走してくれて。こんなにいっぱい食べられたのは久し振りだ。感謝する」
未だに呆然としてる幹事くんに礼を言ったミーくんが立ち上がり、ズンズンとこちらに迫ってきて――
「帰るぞ」
――私の手を取って、無理矢理に歩き出した。
「ミャっ……み、ミーくん?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何だキミ。まだ連絡先――」
「ハッキリ言わないこいつも悪いけどさ、お前も察せよ。自分がしたいことを押し付けるな。明らかに相手が困ってることにすら気づけないのか」
「――え」
引き止めようとする彼の言葉を遮って、ミーくんがピシャリと言い放つ。
「そうだろ。ミャー子」
「え、あ……」
間近で真っ直ぐこちらを見つめてくるミーくんの視線に、私は少し逡巡したが、
「……はい。ごめんなさい」
促され、ようやくハッキリと拒絶と謝罪の言葉を口に出せた。
「あ……うん」
その言葉を聞いて話は終わりだと思ったのか、ミーくんが私の手首を掴んだまま、ズンズン歩き出した。
「ちょ、ミーく、ミーくん! 痛いっスよ!」
私の抗議の声を、完全にスルーしたミーくんに急かされるように靴を履き、そのまま店の外に出る。
外に出て、冷たい風が頬を撫でたことに気づくが早いか――
「嫌ならハッキリ断れよ! このバカ女っ!!」
――私の腕を引き寄せ、今まで見たこともない怒った顔と声で、ミーくんが怒鳴った。
「ご……ご……ごめんなさいぃ……!」
何が何やらワケが分からなかった。分からなかったが、何故かボロボロと涙が出た。あと鼻水も出た。
「いくら友達が欲しいったって、あんな……! 言いたいこと全部我慢してますなんてやり方が、長続きするワケないだろ! そんなことも分からないのかお前は!!」
「う、うううぇえええ……!!」
さらにミーくんが怒鳴る。私はもう、涙の止め方が分からなくて子供の様に嗚咽を漏らした。
「しかもまたお前酒飲んだだろう! それで前に痛い目に遭ったのに学習できないのか!」
「だ、だって……だって……!」
「だってじゃない!」
「み、ミーくんだっていつも、こういうのくだらないってカッコつけてるくせに! 楽しんでたじゃないっスか!!」
「いつ僕がカッコつけた!? 全然楽しくなかったぞ。いや料理は美味かったし、奢りだから正直ありがたかったが」
「嘘っス!! 隣の女子からあーんされて食べてたっス!」
精一杯振り解こうと腕を引き寄せるけど、ビクともしない。ミーくんが男の子で、自分が女なんだと思い知らされた気がした。
「え? ああ……そうだっけ? 全然見てなかった」
「食べてたっス! お、女の子の……他の女の子の使った箸からっ!!」
私は一体、何を言っているのだろう。一体……何を非難しているのだろう?
彼が、誰の箸で、何を食べようと、私にそれを咎める権利なんかないのに。
「……ごめん」
それなのにミーくんは謝ってくれた。
「……っ」
この時の私の気持ちを、言葉にするのは難しい。
私はその『ごめん』が何を意味するのか、無意識で分かってしまって、気恥ずかしさと……何だろう? さっきまで独りよがりだと諦めていたというか、勝手に失望していた気持ちが、救われたような、報われたような……そんな、全てを許せてしまえそうな、暴れる気持ちに飲み込まれないように必死に抗っていた。
違う……! 今の『ごめん』は『自分は満喫していたのに、偉そうなこと言ってごめん』て意味だ……!
そんな都合のいい意味じゃない……! 私の思い込みだ……!
「嘘っ! そんなワケないっス! じゃあどこ見てたって言うっスか!!」
私は否定しても胸の中から消えてくれない期待を、必死に抑え込むように彼を責めた。
「ずっと、ミャー子を見てた」
「ミャっ……!?」
「ミャー子を見ながら……ずっとイライラしてた。正直、ほとんど料理の味なんか分かんなかったんだぞ」
「……なんで……ウチを見てたっスか?」
「そんなの、心配だからに決まってるだろ」
「……なんで……ウチが心配なんスか?」
「……なんでだろ? 分からん」
「…………」
ミーくん……たらしだ。天然の。
しかし『おいおいおい。たらしだわこいつ』などと茶化す気にはとてもなれなかった。そんな余裕、あるワケがない。
もう視界は涙でグショグショだし、鼻水垂れちゃってるし、おまけに……本当に理由がさっぱり分からないけれど……自分でも意味分かんないくらい、心臓がバクバクうるさかった。
「ごめん……なさい」
「……? なんでミャー子が謝るの?」
ズルい。ズルいズルいズルい。ミーくんはズルい……!
自分は楽しんでたくせに。あーんされて食べてたくせに。
『自分がしたいことを押し付けるな』なんて偉そうに言っておきながら、ミーくん自身がそれをしたくせに……!
なのに、なのに……!
……変だ。ウチ。こんな時なのに……。
ミーくんに触れたい。
くっつきたい。
しがみついて泣きたい。
……頭を撫でられたい。
きっとお酒のせいだ。それとミーくんが変なこと言うからだ。
「……ミャー子?」
「ミーく――」
「……イチャイチャするのもいいんだけどさ、ここ店の前。周りの視線も気にした方がいいよ」
「――ミャああっ!?」
び、びびびビックリしたぁ……!
私とミーくんが声のした方を見ると、そこには一人の女の子が立っていた。
「……キミは?」
「
その言葉の通り、その手には私とミーくんの鞄や上着が。実は涙でよく見えてないけど。
「でもクッソつまんねー飲み会だと思ってたけど、最後に面白いものが見れて満足。早く帰って絵にしたいわ」
「……絵?」
私がオウム返しに口にすると、鈴鳴さんがこちらを見た……気がする。
「ただの趣味。今日は力作が描けそう。興味ある?」
「……あ、あります」
「そ。じゃあ今度見せてあげる。じゃねっ」
そう上機嫌に言って、彼女は持っていた荷物をミーくんに渡して去って行ってしまった。
鈴鳴さん……今度描いた絵を見せてくれるって……もしかしたら友達になれるかな?
「ミャー子」
「は、はいっ!?」
「帰ろう。まだ夜は少し冷えるから、ちゃんと上着羽織って」
「は、はい」
「あと、立てる?」
「……立てる?」
何言ってるっスか。立ってるでしょ、と言おうとして気がついた。
いつの間にやら、自分が地面にへたり込んでいることに。
……ええぇ、いつからぁ? 鈴鳴さんが声を掛けてきてミーくんが手を離してから?
道理で彼女の視線が私を見下ろす形なのだと思った。『メチャ背の高い女子だなぁ』とか思ってた私はアホなんじゃないだろうか。
「立てないか。弱いくせに飲み過ぎるからだぞ」
「ちが……」
そんなになるまで飲んでない。腰が抜けただけ。それに今回は立とうと思えば立てる……と私が言おうとしたその時だった。
「ホラ、僕のバッグ持って、さっさとおぶされ」
ミーくんが背中を向けてしゃがんだ。
私が……立てないと思っているのだ。
「ミーくん……」
「ん。また水とドリンクと、味噌汁買って帰らないとな。あと明日の朝食もか。僕の分も一緒に」
……私は、ズルい。
本当は立てるのに、それを説明しようとする口を自分の意思で閉じた。
心のどこかでラッキーだと思ってしまった。
「……はいッス!」
私は今日一番の元気な返事をし、その背中に身体を預けた。
……でも、ミーくんもズルいんだから……コレくらい、いいよね?
「ミーくんはズルいッス……あんな言い方。彼、傷ついたっスよ~」
「そんなことはないだろう。それにああでも言わなきゃ、ミャー子が傷つくことになったんだぞー?」
「それでもっス! 幹事の彼も、あそこにいたみーんな驚いてたっスよぉ?」
「それは……まぁそうかもだけど、ちゃんとお礼は言ったぞ?」
「あんなんじゃ駄目っスよぉ。今度会った時、ちゃんと謝んなきゃ駄目っス!」
「分かったよ……何か、自分でも分からないけど、妙に頭にきたんだよ……」
「なんで……頭にきたっスかぁ?」
「言ったろ……ミャー子が心配だったからだよ」
「……なんでぇ、心配だったっスかぁ?」
「だからぁ、自分でも分からないって言っただろー?」
「駄目っス! ちゃんと言うっスー!」
「あぁもう酔っぱらい!」
……なんて、帰りの道中でも、私は酔いに任せてミーくんに甘えまくって、ジャレつきまくった。
……ミーくんは普段からは考えられないくらいに優しい声で、頬笑みながら駄々をこねる私に付き合ってくれた。
彼だって楽しければ笑うし、冗談にだって付き合ってくれるし、助言や
みんなは知らないだろう。そのことも、こんな優しい声も、こんな人懐っこい笑顔も。
私だけが知っている。
今ここにいるのは、私だけが知ってるミーくんなのだ。
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