全ての宝〜明の巻
こいつらは、何なんだ……
俺はここで何をしているんだ……
身体の深奥で何かが
目の前に赤い
「意識を保つのよ、時空!……本能に支配されてはダメっ!」
仄の叫ぶ声が空気を震わせる。
「八握剣は【
「だから……なんだ……」
仄の方を睨みながら、時空が呟く。
次第に、息づかいが荒くなってくる。
「今までのあなたは、強い自制心でそれを抑えてきた。だから、あなたは剣を使いこなせてたの……でも、【闇の神器】と化した八握剣は、その自制心を壊してしまう。あなたを欲望のままに動く、ただの怪物に変えてしまうわ。このままだと、あなたは……」
仄の最後の言葉は、もう耳に入っていなかった。
すでに理性の大半を失った時空には、ただの雑音にしか聴こえていない。
体内で蠢動する何かが、遠い記憶の断片を呼び起こした。
あの時……
剣道場で初めて黒装束と闘った時の感覚は、今でも鮮明に残っている。
人を
いやそれどころか、身震いするような爽快感さえ覚えた。
もっと倒したい……
もっと強くなりたい……
もっと力を得たい……
力を開放する事が、面白くてたまらなかった。
「だから……何だと言うんだ……」
再び時空が呟く。
仄の放つ一言一言が、神経を逆撫でた。
「あなたも分かっている筈よ。自分が、その力に呑み込まれつつある事が……」
「お前の言う事など信じられるか!」
吐き捨てるように、怒鳴りつける時空。
「お前に何が分かる!」
額から汗が流れる。
全身が総毛立ち、訳の分からぬ感情が奥底から湧き上がってくる。
理性を失いつつある事は、自分でも分かっていた。
分かってはいるが……制御できない。
武道で会得した強靭な精神力をもってしても、
自分に語り掛けている者、周囲で見つめる者の姿は、フィルターが掛かったように識別できずにいた。
その顔も、名前も、自分との関係も……
何も思い出せない。
一体こいつらは……誰だ?
思考力が悲鳴をあげていた。
思い出そうとしても、すぐに何かが邪魔をする。
異常なまでの警戒心だけが、ひたすら増幅していった。
そいつらは敵だ――
ふいに、何処からか声が聴こえた。
反射的に見回すが、
そいつらは敵だ――
お前を
気付くと声は、耳では無く頭の中で響いていた。
そいつらは敵だ――
お前の八握剣を奪おうとしているのだ――
その一言で、残っていた理性の欠片が砕け散った。
八握剣を……奪う……
俺の剣を……奪うだと!?
全身に怒りが
次の瞬間、凄まじい力の奔流が体中を駆け巡った。
それは、初めて八握剣を手にした時と同じ感覚……
いや、それ以上のものだった。
鮮烈で、力強く……
陶酔するような快感が、心身を満たす。
手に違和感を覚え目を向けると、信じ難い光景が映った。
八握剣が、黒いドロドロとしたゲル状の物質に変形し始めていた。
そしてアメーバのようにうねりながら、手首から肘にかけてを包み込んでいく。
それはむしろ、【喰われる】と言った方がいいかもしれない。
自分の体が、ジワジワと侵食されていくのが分かった。
「…………!!」
時空の体に戦慄が走る。
体が金縛りにあったように、身動きできなかった。
口を開けても、全く声が出せない。
俺にまかせろ――
また、頭の中で声がする。
湿った手袋をはめたような感触が、掌から伝わってきた。
俺が力を与えてやる──
敵は全て排除すべし──
排除……排除……排除……
「……敵は……全て……排除……」
感情が欠如した声で、時空が呟く。
生気の無い目には、もはや何も映っていなかった。
「うぅぅぅ……」
時空の口から、獣のような呻き声が漏れる。
口角が吊り上がり、不気味な笑みを形作った。
「時空っ!?」
「時空さん!?」
その変貌に気付いた少女たちから声が上がる。
「……排除ぉぉぉぉぉっ!!」
突然の叫び声と共に、時空の体から青い炎が
ブワァァァァァーっ!!
炎は生き物のようにうねりながら、仄や尊目がけ襲い掛かった。
「危ないっ!」
全員がその場から退避し、同時に継承者の姿へと変容した。
「
「鳴動拳!」
すかさず尊と幽巳が、光の幕と
だが炎は、いとも簡単にそれを打ち破った。
「きゃぁぁぁっ!」
凄まじい衝撃で、少女たちが宙を舞う。
ある者は壁に叩きつけられ、ある者は地面を転がった。
ブワァァァァァーっ!!
間髪入れず、二発目の攻撃がやってきた。
「
仄が奥義を繰り出す。
白い炎と青い炎が激突するが、威力の差は歴然だった。
数倍に膨れ上がった青い炎が、轟音と共に均衡を破る。
「ぐうっ!!」
叩きつけるような音が、あたりに木霊した。
「……こ、これが【闇の神器】の力……」
よろめきながら、最初に立ち上がったのは尊だった。
まわりを見回すと、満身創痍の仲間の姿が目に入った。
暫しそれを眺めた後、少女は意を決したように時空を睨みつけた。
そして深呼吸すると、あらん限りの声を張り上げた。
「時空っ!アンタ、何やってんのよっ!」
その声に、時空が振り向く。
荒い息づかいで、肩が激しく上下している。
「目を覚ましなさい!このまま、やられっぱなしでいいの!?」
普段の彼女からは想像できないほど、激情にかられた声だった。
気づくと、倒れていた仲間も、次々と起き上がり始めている。
「闘うのよ、時空っ!己の中の欲望を断ち切るの!」
自然と体が震える。
もしかして、このまま時空は元に戻らないのでは……
筆舌し難い不安に
「また私に面倒かける気……たまには、自分で何とかなさい!」
懸命に呼びかける少女の目に、涙が溢れた。
「そ、そうよ……時空さんは、負けない……」
誰かが呟いた。
ふらつく少女たちの体にも、熱いものがこみ上げる。
「頑張って、時空さん!」
「負けるな、時空!」
「しっかりして、時空先輩!」
尊に共鳴するかのように、仲間たちからも声援が湧き起こる。
それは、共に闘ってきた戦友……
神器を背負った乙女たちの、命懸けの叫びだった。
四方から放たれた激励の矢が、次々と時空に降り注いだ。
「アンタなら、できるはず……必ず……でき……」
最後に飛ばした尊の
その頬には、幾筋もの光るものがあった。
た……け……る……
時空の顔から、不気味な笑みが消えた。
混濁した意識の中、微かな光が見え始める。
それは砕けたカケラのように、四方に散らばった。
た……け……る……
カケラには、一つ一つに映像が映っていた。
登校時に悪ふざけが過ぎると、俺を叱る姿……
カレーパンを俺の口に突っ込んで、笑い転げる姿……
試合に負けた俺を、黙って見守る姿……
尊と過ごした日々が、走馬灯のように駆け巡った。
いつも口うるさく
いつも無愛想で
いつも頑固で、面倒くさい奴
そして
いつも俺のすぐ
時空の目に、尊の悲痛な顔が映った。
何泣いてんだ
らしくないぞ……まったく
オレは……
俺は……
身体の中で何かが弾けた。
俺は……こんな奴に……負けないっ!
「うおぁぁぁぁ!!」
時空が雄叫びを上げた。
体を覆ったゲル物質を両手で掴むと、引き剥がしにかかる。
先ほどとは全く異なる闘気が、体から
それは紛れもなく、以前の時空が
「ぐうっ……!」
凄まじい激痛が、時空を襲った。
剣が、
俺の言う事を聴け──
逆らうな──
だが、彼女はやめなかった。
柚羽の優しい笑顔が、凜の震える頬が、晶の熱い声が、幽巳の握り締めた
「……あ、あんな……かお……み、みせられたら……」
食いしばった口元に、うっすらと笑みが浮かぶ。
「み、みんな……い、いま……かえる……から……な」
その言葉に呼応し、体内で何かが躍動し始める。
それは次第に強くなり、やがて巨大な光の奔流となって時空の体を包み込んだ。
剣を掴む手が煌々と輝き出す。
ずしりと重たかった両手が、急激に軽くなった。
「うおぁぁぁぁ!!」
再び雄叫びを上げ、時空は最後の力を振り絞った。
ばりばりと壁板を剥がすような音が、あたりに響き渡る。
ヒギャァァァァァーー!!!
再び悲鳴のような音が、大気を激しく震わせた。
ゴゴゴゴゴォォォーー!!!
倉庫内に激震が走る。
四方の壁に亀裂が入り、床が海面のように波打った。
たまらず、少女たちも膝をつく。
突き上げるような地鳴りが、耳をつんざいた。
そして……
完全な静寂が訪れた……
直下型地震のような揺れは、嘘のように収まった。
時空は、自分の手元に目を向けた。
そこには、元の形に戻った八握剣があった。
「ふうぅ……」
大きく息を吐き出し、時空はその場に座り込んだ。
オレは……勝ったのか?
全身の激痛は消えたが、さすがに精神力の消耗は激しかった。
意識が朦朧とし、強烈な倦怠感と
「時空っ、大丈夫!?」
「ああ、なんか……ねむい……」
ぺしっ!
そう答えた途端、誰かが時空の頭を小突いた。
「……てっ!」
頭を抱え、振り返る時空。
そこには、いつものポーカーフェイスの尊が立っていた。
「まったく……第一声が『ねむい』って何?」
「い、いや……そう言われても……」
あたふたする時空の姿に、その場の全員がプーっと噴き出す。
どの顔にも笑顔が見られた。
「やっぱり時空さんですね」
「いかにも、お前らしいよ」
「それでこそ、先輩っす」
安堵の表情を浮かべながら、皆慰労の言葉を口にする。
「やったわね……時空」
負傷した腕を
「……ああ」
そう言って、時空も満面の笑みを浮かべた。
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