七の宝〜明の巻

「姉さん、先行くよ」

幽巳ゆみは朝食の食器を台所に運ぶと、慌ただしく玄関に向かった。

「幽巳ちゃん、今日は早いのね」

「朝練の準備があるんだ」

「主将ともなると大変ね」

「いつも片付け出来なくてゴメンね」

「いいわよ。いってらっしゃい」

姉の霊那れなが笑いながら洗い物を始める。

いつもの早朝の、いつもの会話だ。

安らぎと優しさにあふれた日常。


だが……今は無い……


台所のコップを握り締め、幽巳は物思いにふけった。

霊那と幽巳は双子の姉妹だった。

母を早くに亡くし父親は遠方へ単身赴任しているため、家事の大半を霊那が受け持っている。

私は部活やってないから……

そう言って霊那は笑うが、母親のいない妹が辛い思いをしないよう気を配っているのは分かっていた。

温和で優しく、そして涙もろい自慢の姉だ。


あの日――


幽巳が部活を終え帰宅すると霊那の姿は無かった。

いつもは夕餉ゆうげ支度したくをして待ってくれているはず。

自分と同じ天津あまつ女学院に通っているため、下校に時間がかかっているとも思えない。

幽巳の内に微かな不安がぎった。

何故かは分からない。

双子ならではの虫の知らせだったのかもしれない。

耐えがたい不安に駆られた幽巳は、家を飛び出しあたりを探し回った。


通学路の途中にある公園まで来た時、ブランコに座る人影が見えた。

霊那だ――

周りに人気ひとけは無く、一人うつむいて座っている。

「姉さん!」

慌てて駆け寄り声を掛ける。

「こんなとこで何してるの?姉さん」

二度目の呼びかけで姉が顔を上げた。

その表情を見た幽巳は思わず息を呑んだ。

蒼白そうはくな顔に生気は無く、うつろな目は全く焦点が合っていなかった。

「一体どうしたの?何があったの?姉さん!」

何度声をかけても反応が無い。

肩に手をかけ揺するが、人形のように揺れるだけだ。

どうしよう……

胸が詰まり涙が出そうになるが、頭を振り何とか落ち着こうとする。

どこか、身体の具合が悪いのかも……

呼吸を整えるとどうにか思考が働き出した。

こんな時は……

そうだ、救急車!

そう思い立ち、急いで鞄から携帯を取り出す。

操作しようとするが手が震えて思うように動かなかった。


「病気じゃないですよ」

唐突に背後で声がした。

驚いて振り向くと、黒いスーツ姿の男が立っていた。

いつの間に現れたのか分からない。

空手有段者である幽巳でも気配が感じ取れなかった。

「誰よ、あんた!?」

幽巳が叫ぶ。

男は驚くほどの痩身そうしんで、頭には黒いボーラーハットをかぶっていた。

帽子からわずかに覗くキツネ目でじっとこちらを睨んでいる。

夕暮れの公園に似つかわしく無いその風体ふうていは、どう見ても不審者としか思えなかった。

「まあ、誰でもいいじゃないですか。そんな事よりあなたのお姉さん、そのままじゃ危ないですよ」

幽巳の問いには答えず、スーツ男は薄ら笑いを浮かべて言った。

「何?どういう事!」

男の言葉に幽巳は動揺を隠せなかった。

「どうやらお姉さんはにかかっているようです」

男は両手を後ろで組んだまま、抑揚の無い声で言った。

「呪い……?あんた……何言ってるの」

幽巳は眉を吊り上げた。

なんだこいつ……頭がおかしいのか……

「そんなものある訳ないでしょ!」

「嘘だと思うなら、お姉さんの胸元を見て下さい」

声を荒げる幽巳に動じる事無く、男は平然と続けた。

平素の彼女なら全く相手にしないところだが、何故かこの時ばかりは無視する事が出来なかった。

尋常では無い姉の姿をの当たりにしたせいかもしれない。

幽巳はしばし悩んだ後、男に注意を払いながら姉の制服のボタンに手をかけた。

馬鹿馬鹿しいとは思いながらも勝手に手が動く。

僅かに開いた襟元えりもとから覗き込んだ。

「……あっ!?」

幽巳の口から驚きの声が漏れた。


喉のすぐ下あたりに灰色のもやのようなものが渦巻いていた。

それは天気予報でよく見る台風の目のような形状をしていた。

凶々まがまがしい気を放ちながらゆっくりと旋回を繰り返している。

目の錯覚かと何度も顔をこするが、渦が消える事は無かった。

「何……これ?」

幽巳はさわろうと手を近付けた。

たちまち指先に感電したような衝撃が走った。

「あちっ!」

慌てて引っ込めるも、腕から肩にかけてかなりの激痛が残った。

肩口を押さえる幽巳の顔が、信じられないといった表情に変わる。

「ほほう、これはこれは……」

呆然ぼうぜんと見つめる幽巳の背後で、先ほどのスーツ男が声を上げた。

「これは呪いではなくですな」

「……あんた……これが何なのか知ってるの?」

困惑から醒め切れぬまま、幽巳が男の言葉に反応する。

「ええ、知ってますとも。私はこういった事を調査している者ですので」

いかにも胡散臭うさんくさい返答だが、今の幽巳には一笑するだけの余裕は無かった。

「お願い、教えて!……教えてください……これは一体何なの?」

幽巳の態度が一変する。

この訳の分からぬ状況を説明してもらえるなら不審者でも何でも構わない。

とにかく姉を助けないと……

男はその場でにやりと笑うと静かに首を振った。


「見たところそれはのようです」

「神器……?」

初めて耳にする言葉に、幽巳はおうむ返しにつぶやくしかなかった。

「神器とは神の意志の込められた宝物ほうもつ。持つものに人外の力を与えてくれる至宝です。お姉さんはを起こしておられる。分かりやすく言えばアレルギー反応のようなものですな。それが胸元の黒い渦となって現出しているのです」

男は両手を広げ、やや芝居がかった口調で説明した。

「でも姉さんはその……神器?とかいうものなんか持っていないし、見たこともないわよ……」

男の説明をまだよく呑み込めていない幽巳が、追及するように詰問する。

「お姉さんの神器が何なのか、どこにあるのかは残念ながら私にも分かりません。しかしその現象が神器の霊障である事は間違いない。お姉さんの身体が、神器との接触を拒んでいるのです」

男は偉ぶるでもなく、興奮するでもなく、ただ淡々と語った。

それが妙な説得力を生んでいた。

「じゃあ姉さんは……一体どうなるの?」

「おそらく」

声を震わす幽巳の顔を眺め、男は一呼吸おいた。

でしょう。霊障の影響で精神がおかされるのです。一種の植物人間の状態です」

幽巳は言葉を失った。


植物人間……

姉さんが……


胸の鼓動が早鐘はやがねのように鳴り響いた。

男の言葉を否定するには、眼前に起こっている現象のインパクトはあまりに強すぎた。

幽巳の判断力は次第に失われつつあった。

「何か……何か助ける方法はないんですか」

幽巳は動揺で真っ青になりながら声を震わせた。

そんな……姉さんが……


「一つだけあります」

抑揚の無い男の声が返ってくる。

幽巳の目がハッとしたように見返す。

「それは何!?どうすればいいの?」

その問いにすぐには答えず、男はゆっくりと近付いて来た。

そして幽巳の前に立つと、そのまま覗き込むような仕草をした。

八握剣やつかのつるぎという神器を使えば、霊障をはらう事が出来ると思います」

男は冷ややかな口調で言った。

「……八握剣?」

震える声で反復する幽巳。

勿論、聴いたことも見たこともない名称だ。

「それは……どこにあるんですか?」

男は暫し沈黙した後、再び口を開いた。

「私の調べたところでは、八握剣を所有している者はこの世でただ一人しかいません」

「……誰ですか、それは」

高鳴る鼓動を抑え幽巳は尋ねた。

「あなたと同じ天津女学院の生徒……神武時空じんむ ときです」


その名を耳にした幽巳は、思わず言葉を詰まらせた。


神武時空──


自分の率いる空手道部と双璧をなす実力を持つ剣道部。

その頂点に座す主将の名だ。

ほとんど会話したことも無いが、彼女の剣豪ぶりはつとに有名だった。

しかし何故、彼女がそんなものを持っていると言うのか……

「あなたが知らないだけで、この世で神器を有する者は幾人も存在しているんですよ」

幽巳の心中を見透かしたかのように、男はすかさず補足した。

「ただ先ほども言いましたように、神器とは非常に貴重なものです。持つ者に絶大な力を与えてくれる宝です。それゆえ頼んだとしても決して渡してはくれないでしょう。もしかしたら……かもしれません」

男はそう言って肩をすくめた。

彼女の強さの秘密は神器によるもの……

技能を磨くため鍛錬に励む自分たちと違い、彼女はそんなものから力を得ているというのか。

果たしてそれが本当の実力と言えるのか。

もはや男の言葉そのものを疑う余裕は、今の幽巳には無かった。

一度芽生えた疑念は、止めどなく心中で増殖していく。


「では……一体どうすればいいの」

焦燥感の滲んだ幽巳の顔色を見て男の目が光る。

「彼女から……

その言葉に幽巳は絶句した。

奪う……!

そんな非人道的な事が出来るはずが無い。

幽巳は否定するように何度も首を横に振った。

「……ううっ」

その時、背後で霊那のうめき声がした。

振り返ると胸元を鷲掴みにし、苦悶くもんの表情を浮かべている。

「姉さん!?」

急いで駆け寄る幽巳の手の中で、姉の身体は痙攣を繰り返した。

「しっかりして!姉さん」

「霊障がひどくなってきましたね。もうあまり時間が無いようです」

男の解説が鋭利な刃物のように幽巳の胸に突き刺さる。


「……本当に……」

姉の身体を支えながら、幽巳がうなるように口を開く。

「本当に……八握剣があれば姉さんは助かるのね?」

背後で男のうなずく気配がした。

幽巳は静かに立ち上がると、男の方を振り向いた。

その表情は決意に満ち、両眼には闘志がみなぎっていた。

「私が……

幽巳のその言葉に男の口角こうかくが大きく吊り上がった。


「よく決心されました。その決意に敬意を表し、いい事をお教えしましょう」

幽巳はいぶかしげに首を傾げる。

「私の調べたところでは、神器を有しているのはお姉さんだけではありません。。それがあれば八握剣と対等の力を得られるはずです」

その言葉に幽巳の顔に驚きが広がる。

「私も持っている!?……でも体調は何ともないわよ」

「あなたの場合は、見たところうまく順応出来ているようです。ゆえに拒絶反応が無いのです」

「でも、そんなもの一体どこに……」

その時ふいに両手首に違和感が走った。

手首には布製のリストバンドを常時巻いている。

慌てて袖を捲り上げた幽巳の目がそれに釘付けになった。

黒いリストバンドの表面に何やら模様が浮き出ている。

それはまるでまんじの文字を裏返したような……


そう……


!?


「ほう。そんなところにありましたか。あなたの意思に反応したようです。ちなみにそれは蜂比礼はちひれという名の神器です」

男の感心したような声が耳に入る。


──蜂比礼──


幽巳はその名を呟くと、まじまじと文様を眺めた。


毎朝通学前に装着し、帰宅するまで外すことはないリストバンド。

練習中も試合以外は付けたままだ。

汗が掌にまらないようにするのが目的だが理由は他にもある。

それは姉の霊那が幽巳の誕生日プレゼントで贈ってくれたものだった。

以降、姉への感謝の意を込め常時身につけていた。

それがまさか神器だったとは……


「……これ、どうやって使うの?」

幽巳は再び男の方に視線を向けると両腕を差し出した。

その問いに男の顔が嬉しそうに大きくゆがむ。

「神器は持つ者の精神力で発動します。ただ一心に集中するのです。武道で鍛えたあなたなら、何度か練習すればすぐ使いこなせますよ」

幽巳はリストバンドを目の高さまで持ち上げると、男の言うように集中した。

精神統一は慣れているので、さほど苦では無い。

何も考えずただひたすらバンドの文様を見つめた。

意識が吸い込まれるような感覚におちいったかと思うと、そのうち何か熱いものが体内に流れ込んできた。

それは頭から足の先まで行き渡り、まるで血液のように体内を循環し始めた。


そして次の瞬間──


突然リストバンドから黒い霧のようなものが噴き出した。

霧は巨大な渦を巻きながら幽巳の身体を押し包んだ。

やがて動きの緩慢になった霧は、再びバンドの中へと吸い込まれるように消えていった。


後に残ったのは立ち尽くす人影が一つ……


全身を黒い甲冑かっちゅうおおわわれたその者の胸元には、鮮やかなが浮かんでいた。

たった一度の挑戦で、幽巳は覚醒を成し遂げたのだった。

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