エピソード6.5 いざ出雲へ
安芸国(あき・のくに。今の広島県西部)に滞在中の狭野尊(さの・のみこと。以下、サノ)一行は、各地に稲作技術教育や灌漑工事をおこなっていた。
そんな中、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと。以下、イツセ)の陣所という地を紹介させてもらった。
広島市安芸区瀬野の生石子神社(ういしごじんじゃ)である。
この地で、彼は何をしていたのか?「記紀」も伝承も、何も語っていないが、単独行動をしていたことは間違いない。その目的は何だったのであろうか。
そこで、この物語では、大胆な推理をしてみた。
長兄イツセは、出雲(いずも)の勢力と政治的な交渉をおこなっていたのではないだろうか。と言うのも、広島県北部(芸北地方)に残る伝承に、出雲に協力を要請し、物資を運んでいたというものがあるのである。
それが広島県庄原市(しょうばらし)の高町(たかまち)にある今宮神社(いまみやじんじゃ)の伝承である。
前回、紹介させてもらった「神武天皇聖蹟誌」に、こう書かれている。
<貴重なる関係文書なきため詳細不明なるも、古老の言によれば、広島にご滞在中、当地方まで御巡遊ある中に、出雲方面との関係を生じ、当地にその間、数度御足を止められ御視察あり、物資を出雲方面より御取り寄せ遊ばさる。>
この文言を見てみると、“出雲方面との関係を生じ”というのが、出雲との接触ないし交渉をおこなったということで、“物資を出雲方面より御取り寄せ”ということは、出雲が協力を承諾したと受け取れる。
まあ、古老の話によるということなので、本当に語り継がれていたのか、この老人の妄想なのかは判然としないところだが、もしもこれが事実であるなら、それ以外の県北部の伝承も、出雲と関わり合いがあるのではないか。そういった視点で見ていきたいと思う。
まず、広島市安佐北区(あさきたく)の亀山にある船山神社(ふなやまじんじゃ)を紹介したい。
この地にも、サノの上陸伝承があるが、海から遠く離れた船山に停泊すると考えるなら、それは川を遡ったとしか考えられない。
すぐ傍には、帆待川(ほまちがわ)という川も流れている。
また、東へ600メートルほどいったところには、太田川(おおたがわ)の支流である根の谷川(ねのたにがわ)が流れている。
この「根の谷川」を遡っていくと、広島県安芸高田市(あきたかたし)に辿り着く。
この街の八千代町上根(やちよちょうかみね)は、かつて「根村(ねむら)」と呼ばれ、素戔嗚尊(すさのお・のみこと)が住む「根の国」と伝えられてきた土地である。
素戔嗚尊(すさのお・のみこと)とは、出雲にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した伝説で有名な神様である。基本的に、この伝説は出雲の宍道湖(しんじこ)に注ぐ斐伊川(ひいがわ)の上流とされている。
しかし、「日本書紀」の別の説において、安芸国(あき・のくに)の可愛川(えのかわ)上流という記載があり、編纂当時から否定できない説の一つとして存在するのである。
先述の上根から北へ5キロほど山中に踏み入れば、可愛川上流に行きつく。
ちなみに、可愛川は、やがて日本海に注ぐ「江(ごう)の川」となる。
この可愛川沿いに位置する同市吉田町川本に、埃ノ宮神社(えのみやじんじゃ)がある。
この神社こそ、「日本書紀」に書かれた埃宮(え・のみや)であるという由緒を持つ神社なのである。
これらのことを考えると、先述の船山の伝承は可愛川上流を目指す途上で立ち寄った地ではないだろうか。そして、長兄イツセは、交渉の前段階として、会議の場を設定するため、出雲に赴いていたのではないだろうか。
ここで、マロ眉の天種子命(あまのたね・のみこと)と小柄な剣根(つるぎね)がツッコミを入れてきた。
天種子(あまのたね)「作者は、イツセ様の陣所を、どうしても出雲(いずも)につなげたいみたいやな。」
剣根(つるぎね)「そうですな。本当は、お腹をくだされて、下痢気味だったゆえ、現地に留まっただけなんじゃが・・・。」
天種子(あまのたね)「ちょっ、ツルギネ! それは言ったらあきまへん。ロマンが、ロマンがっ・・・。」
剣根(つるぎね)「あっ!? 今のなし! 今のはカットしてくだされぇ!」
ノーカットで進めたいと思う。
また、広島県北部は、当時、出雲の勢力圏にあった可能性がある。その証左として、同神社から南へ2キロほど行ったところに、稲山墳丘墓(いなやま・ふんきゅうぼ)がある。
2013年(平成25年)に見つかった遺跡で、墓の形式が、弥生時代末の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)なのである。
「四隅~」は山陰地方や北陸地方などの日本海側に見られる墓の形式で、出雲の勢力圏ないし文化圏を特徴づけるものではないかとの説もある。
出雲勢力と直接的なつながりがあるかどうかは、今後の調査次第であるが、埃ノ宮神社(えのみやじんじゃ)の一帯が日本海文化圏に組み込まれていたのは間違いない。
それも「日本書紀」の記述によると、埃宮(え・のみや)に到着したのは12月27日となっている。
まだ冬の時期である。
山深い地の雪道を進んでまで、サノ一行が北上している理由は、やはり冒頭で紹介した、庄原市の今宮神社の伝承が原因ではないだろうか。
ちなみに、庄原市は埃ノ宮神社のある安芸高田市よりも北に位置し、出雲にも近い。ここが物資の集積場であった可能性は高い。また、交渉そのものをおこなった場所の可能性もある。交渉を通じて、出雲から鉄や食料などの援助を求めたのかもしれない。もしかすると、人員の要請もしていたかもしれない。
だが、交渉が順調に進むとは限らない。交渉成立まで、いろいろといざこざがあったようである。
ここに興味深い話がある。
広島県庄原市(しょうばらし)の高野町南(たかのちょう・みなみ)という地域に、大宮八幡宮(おおみやはちまんぐう)という神社があるのだが、そこには、サノたちによる鬼退治の話が伝わっている。
鬼城山(きじょうさん?おにしろやま?)という山に、埴土丸(はにつちまる)という鬼神がおり、数多の賊を養い、近隣住民に害を及ぼしていたというのである。
この地域は、一つ山を越えれば、出雲国(いずも・のくに)となる。もしかすると、埴土丸という人物は、出雲系の人物だったのではないだろうか。援助を拒絶した出雲勢が、この地に攻め込んできたことを示唆する物語なのかもしれないのである。
さて、鬼退治の内容にも触れておこう。
サノは、剛風彦(たけかぜひこ)を先陣として鬼を退治したと伝わっている。退治の結果、サノたち天孫一行は、多くの矢、剣、鉾(ほこ)を手に入れたと記載されている。多くの矢、剣、鉾・・・これらの武具は、出雲からの援助を表しているのではないだろうか。
ここで、筋肉モリモリの日臣命(ひのおみ・のみこと)と目のまわりに入れ墨をした大久米命(おおくめ・のみこと)がツッコミを入れてきた。
日臣(ひのおみ)「ちょっと待ってくんない(ください)。剛風彦(たけかぜひこ)って誰ね?初耳やじ。」
大久米(おおくめ)「先陣を任せたって、超重要人物じゃないですか!」
剛風彦については、いろいろ調べてみたが、よく分からなかった。その後の物語にも登場しないので、現地の人間ではないだろうか。地元の案内役のような立場だったのではと考えている。
ちなみに、埴土丸と剛風彦の読み方も分からなかった。あくまで、作者の勝手な推測による読み方である。
日臣(ひのおみ)「直接、本人に聞けばいいっちゃ。真実はどうなんや?」
剛風彦「そ・・・それがしに振られても分かりませぬぞ。もしかすると出雲系の人物だったやもしれませぬしな・・・。」
大久米(おおくめ)「汝(いまし)も出雲系っていうのは、どういうことです?」
剛風彦「鬼退治の話は、出雲が、サノ様に協力するか否か、賛成派と反対派に分かれて争ったことを示唆する物語かもしれませぬ。そう推測した時、それがしと埴土丸殿は、両派閥の代表人物と見ることもできるんじゃないかと・・・。」
埴土丸「いい線いっちょるかもしれんし、いっちょらんかもしれんな。」
剛風彦「あっ!? 埴土丸! よくも抜け抜けと・・・。」
埴土丸「紙面の都合じゃ! お互い、名前の読み方が分からんモン同士、大いに暴れようぞ!」
サノ「名前の読み方って・・・そんなことを気にしちょるんか!」
埴土丸「そ・・・そげなこと? 何を言っちょるっ! 命の次に大事なもんじゃ!」
サノ「仕方なか。紙面の都合っちゃ。剛風彦よ。この鉾(ほこ)で、奴を倒すっちゃ。」
剛風彦「御意! この鉾(ほこ)をくらえぃ!」
埴土丸「グフッ・・・。今回限りの登場にしては、ちゃんと爪痕を残せたんじゃなかろうか・・・ガクッ。」
大宮八幡宮には、退治の時に使った鉾が、神宝として保存されている。
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