第10話 定められた箱舟の中で

「……己の問題は、己自身で解決して然るべき……私は、そう思います」


 唐突な展開に理解が追いつかずにその場で固まっている僕に、彼女はお茶でもどうぞと淹れたてのお茶をフルーツと一緒に差し出しながら、溜め息をついた。


「近年の同胞たちの楽観的な考え方には、ほとほと困り果てております。自らの手に負えないからと他の世界の存在に問題の解決を丸投げにするとは……我々は本来、そういう『問題』を解決してこの世界をより立派に育てていくために存在する存在ものだというのに」


 光に透かすとオーロラを紡いだ繊維のように見える、不思議な色彩の髪。緩いウェーブが掛かったセミロングのそれを風に揺らしながら、彼女は髪と同じ色の双眸を僕へと向けて困ったように首をことんと傾けた。


「困り事が起きたら、二言目には『そうだ異世界から誰か呼ぼう』ですよ? それも決まって、貴方が暮らしておられる世界から、貴方の国の未来を支える希望とも言うべき子供たちを! 幾ら貴方の国の民が我々という存在や世界に対して理解が深く適応力に優れているからといって……神とて何をしても許されるわけではないというのに、何という安易な発想! 無責任さ! 貴方もそうは思いませんか?」

「はあ」


 生返事を返して、目の前に出されたティーカップに手を伸ばす。

 これは……色合いと香りからして、緑茶っぽいな。何でティーカップに淹れたんだろう……普通は湯呑みに淹れない?

 まあ、ティーカップに緑茶っていう構図以前に、まず緑茶が此処にあることの方が驚きだけど。


「己の創造物ひとつ満足に育めずして何が神か! 私は周囲の軟弱者とは違う、私自身のこの手でこの世界に生じた憂いを取り除いてみせると、私はそう決意したのです!」

「そうは言いますけど……それならどうして、僕は此処にいるんでしょうか? 貴女ですよね? 僕を此処に呼び寄せたのって」


 緑茶に口をつける僕の冷静な突っ込みに、彼女は拳を握った力説のポーズのまま固まって、


「……うるる……」


 急に両目を潤ませると、しゅんと肩を落として俯いてしまった。

 いや、僕、責めてないよね? 普通に思ったことをありのまま言っただけだよね?


「……ええ、最初は私も、貴方を此処にお呼びする気はありませんでした。私自身の力で何とかしようと、あれこれ手は尽くしたのです」


 ああ、一応は自分自身で何とかしようとはしたんだね。


「過度に文明が発展しすぎたばかりに世界の命を食い尽くしかけた人間の国を洪水を起こして深海に沈めたり、人間たちの過剰な伐採による砂漠化を阻止するために地震を起こして大陸を分断させたり」


 ちょっと待ってそれ一歩間違うと世界滅亡一直線なやつ。


「……ですが、限度があります。私が多少世界に干渉したところで、改善には至らない問題もあるのです」


 まあ、そうかもしれない。幾ら問題を起こした連中を排除したとしても、後からそういう連中へとなりうる可能性がある、現時点では何の害もない存在がこれから生まれてくることを止めることはできないのだ。

 誕生させなくすること、そのこと自体は彼女にとっては簡単だろう。しかしそれをすれば、この世界には今後誰も生まれてこなくなってしまう。

 何が後に悪となるかなんて、生まれた時点では誰にも分からない。それこそ、その可能性はこの世に存在する全てのものが持っているものなのだから。


「私自身が世界に降り立ちこの力を振るえれば、それが最も簡単かつ労力を必要としない方法であると言えるでしょう。……しかし、私にはそれができない。神の存在を信じることは各々の自由ですが、何らかの問題が起きた時に神の力を当てにされるのは困るのです。……神は特定の何かを救済するためにいる存在ではないことを、より良き世界を作るのは他でもない己らなのだということを心に留めて下さらないと」


 世界そのものが殺されかねない状況に陥った時は天変地異とかそういう形で干渉はするが、特定の種族同士の争いとか食物連鎖の果ての絶滅とか、そういう物事には干渉しないってことか。

 例えばこれから世界中の人間たちが派手な殺し合いを始めて、結果として人類が絶滅したとしても、彼女はそれも自然の摂理の一環として捉えるって意味なのだろう。

 神様は誰の味方でもない、強いて言うなら世界の味方であって、特定の生き物を贔屓はしない……ってところか。

 彼女はきちんと姿勢を正して、改めて僕の顔をまっすぐに見据えて、言った。


「ミナヅキ・アラタさん。私の一方的な都合で貴方を此処へおびしてしまったことをお詫び申し上げます。──改めて、お願い致します。私の代わりにこの世界に降り立ち、世界を健やかに育むお手伝いをして頂けないでしょうか?」


 彼女の代役、というのは語弊があるかもしれない。

 僕が彼女の代理人になることを承諾したとしても、僕自身が神様に昇格するわけではない。

 僕はあくまで異世界から訪れた普通の人間であり、それはどうしても変えられないこと。急に素手で壁を壊せるようになったり魔法が使えるようになったりはしない。

 僕が元々そういう世界で生まれ育った人間で、そういう先天的な才能を持っているわけじゃないから、仕方がないことなのだという。こればかりは神様の力でもどうにもならないことらしい。

 ──でも。僕自身はこれまで通りに普通の平凡な人間のままだけれど、彼女の代役を担うことによって、ある『特別』が僕の身に宿るのだという。


「私と存在が紐付けされた貴方は、私を通じて私が持つ神としての能力ちからの全てが行使できるようになります。その力をどのように生かし、どういう形で世界に手を伸べるか──それは実際に問題を目にした貴方の判断に委ねますが、ひとつだけ……約束して頂きたいのです」


 その話をしていた時の彼女の表情は、それまでに見てきた中で一番真剣で、一種の恐ろしさを感じたことを、僕は二年経った今も忘れられないでいる。



「貴方は本来はこの世界に存在しないはずの人間です。貴方自身が人々の上に立ったり、貴方が持つ力はわたしの力であることを他者に話したり、貴方という存在が神の奇跡そのものだと認知されるような行動は決して取らないで下さい。この世界に住む者たちにとって、わたしは実在するかどうかも分からない偶像であった方が都合が良いのです。くれぐれも、お願い致しますよ──」



 ──もしもこの事実が知れ渡ってしまった場合、皆の記憶から貴方の存在を抹消するために、貴方を元いた場所である炎上する鉄の鳥の元へと還さなければならなくなるから……と告げるその眼差しは、まるで蒼く凍えた空のようだった。

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