第6話 君の名は

「ふぉおおおおお」


 日の光を反射してステンドグラスのように煌めいている海を前にして、彼女は全身をふるふると震わせている。


「これが……海とな。話には聞いておったが、何と大きく、美しいものなのじゃ……! 端が全く見えぬ……!」

「今日は晴れてるからね。風が穏やかだから波も小さくて静かなんだよ。雨が降ったら景色が全然変わるよ」

「おお、確か嵐が来ると人の町なんぞ簡単に潰してしまうほどの猛獣と化すのであったな」

「……いや、流石にそこまで酷いことにはならない……はずだけど……でも、天気が荒れてる時は危ないから海には近付かない方がいいよ」

「そのくらいは知っておる」


 あれから低木の陰で軽く仮眠を取った僕たち二人は、テレポートの魔法で海沿いの町に訪れていた。

 此処は漁業が盛んな土地で、新鮮な海の幸が安く味わえる以外にも、塩や胡椒も内陸の町よりも良いものが手に入るのだ。

 折角海が近い町に来たのだからと海を見に漁港に来たのだが、どうやら彼女は喜んでくれたようだ。良かった。


「して、わざわざ転移の魔法を使ってまで此処に来たのは何故なにゆえなのじゃ? 観光かの?」

「塩と胡椒を買いに来たんだよ」

「塩と胡椒とな。そのような珍しくも何ともないもの、此処でなくとも何処でも手に入るものだと聞いておるがの」

「まあね。でも、塩も胡椒も海沿いの町の方が安いし、種類もたくさんあっていいものが買えるんだよ」

「ほう」


 塩は主に海水を原料にして作っている。山で採れた岩塩、なんてものもあるにはあるけれど、基本的にそっちは嗜好品というか高級品で気軽に食用にできるものじゃない。

 胡椒は、原料となる植物が海沿いの土地にしかないから天然ものも人の手で栽培されるものも全て海洋地域産となる。これも種類はそれなりにあるらしいけど、一般的に広く流通しているのは白胡椒と黒胡椒の二種類だ。この辺は日本と同じだね。

 やはり、野宿飯を作るにしてもスパイスは必須だ。特に塩は料理だけじゃなくて様々な局面で必要となるものなので、良質なものを安く多く仕入れておきたい。

 例のキノコから作るスパイスも、完成させるには塩胡椒は必要だし。


「塩と胡椒を買ったら、折角海の町に来たんだし美味しい魚を食べに行こうか。市場で安くていい魚が売ってたらついでに少し買って行ってもいいね。食材の備蓄も少しは欲しいから」

「おお、魚とな! 魚料理なぞ、口にするのは何年ぶりじゃろうなぁ……楽しみじゃ」


 何年ぶりって。一体君は何歳なんだい。

 外見はどんなに高く見積もっても五歳とか六歳とか、幼稚園児と小学生の間くらいにしか見えないんだけど。


「……君、一体幾つなの?……の前に、そもそも君の名前を訊いてなかったよ、僕」

女子おなごに歳を訊くとはの。まぁ、わちきは若さを気にする時代なぞとうの昔に過ぎてしまった故、構わぬがの」


 どうやらこの子、人間ではないらしい。

 まぁ、額に目がある時点で人間じゃないことはお察しだったけど。


「わちきは今……はて。幾つじゃったかの。もう大分昔に数えるのをやめてしもうた故……ふーむ、確か……『ゲート』が開くのを四度は目にしておるからの、最低でも八百は過ぎておるはずなんじゃが」


 ……この子、なんて呼び方は失礼だったね。

 年上のお姉さんどころかおばあさんだったよ。いや、おばあさんって呼ぶのもなかなかに失礼だけど。


「で……わちきの名じゃったな。わちきは──」


 そこまで言って口を閉ざした彼女は、しばし何かを考えるような表情をして、告げた。


「──名は、あるのじゃが。訳あって明かせぬ。御主の好きなように呼んでくれて構わぬよ」

「……明かせない?」


 随分と長いこと生きてるみたいだし、色々あった人生──人じゃないか。何生って言えばいいんだろう──を送ってきてるんだろうなってことは何となく分かるけど。

 出会った時に猫じゃらしを食べてるのを見て「人里で食糧を買えばいいのに」と言ったら「それができるならそうしてる」と返してきた。そう言うってことは、少なくとも人前に出づらい理由か何かが彼女の中にはある、ということになる。

 種族的なものなのか。それとも過去に口外できない何かをやらかしたのか。

 後者じゃない、と願いたい……けれど。


「僕に名前を知られるのが都合悪かったりする?」

「御主に、と言うよりも、人間に、と言った方が良いかもしれぬな。この地でわちきの名を知る者なぞそうそうおらんじゃろうが、知っておる者は知っておるじゃろう。そういう者らにわちきの名を知られた時、御主にも迷惑をかけることになるやもしれぬて。わちきは、恩人である御主に恩を仇で返すようなことはしとうないのじゃ」


 知っただけで仇になってしまう名前……か。

 それこそ未だ捕らえられていない指名手配中の大罪人、くらいしか浮かばないんだけど。

 生憎、僕はこの世界の有名な罪人の名前なんて知らないし……そもそも、彼女がそういうとんでもない罪を犯すような存在にも見えないんだけどな。


「まぁ、どうしても知りたいのであれば、教えること自体は構わぬよ。人前でその名で呼ばぬでくれるのであれば。知恵深き者は知識欲に富む、これは世の理じゃて」


 僕が彼女の本名を知った瞬間に彼女を攻撃し出す、という可能性は全く疑ってもいない様子だ。

 それだけ信頼してくれているのか……それとも、彼女は僕のことを本当の英雄だと思ってるみたいだから、英雄相手に隠し通すのは難しいと最初から諦めているからなのか。

 ──そう。僕はその気になれば、一方的に彼女の情報を知ることができる。『万物を見通す目オームネス・ディクショナリス』という鑑定魔法が使えるからだ。

 この魔法は、品物や魔物を鑑定する以外にも、人に施せば対象者に関する全ての情報を視ることができる。本名や種族、年齢の他に、患っている病や負っている怪我があればその存在、肉体に秘められた魔力の量などの才能に関して。他者から呪いをかけられたりしていれば、それも知ることができる。

 一般的に広く知られ用いられている『アプレイス』という鑑定魔法は、品物や魔物を鑑定する分には効果は全く同じだが、人間を鑑定しても本名までは分からない。あくまで『人間』という種族名が出てくるだけなので、鑑定精度は万物を見通す目オームネス・ディクショナリスには劣るのだ。

 まあ、怪我や病気の存在は分かるし才能を調べることもできるから、普通に冒険者生活をする分には全然問題ないんだけどね。

 因みに僕は通常の鑑定魔法であるアプレイスの方も使うことができる。正直、万物を見通す目オームネス・ディクショナリスがあるから使い道がない魔法なんだけど……覚えている分には損はないから、その辺は気にしないようにしている。


「どうする? わちきの名、知りたいかの?」

「うーん……」


 知りたいか、と言われれば、知りたい。

 でも、人前で出すことが憚られる情報は、こういう第三者の往来がある町中で軽々しく口に出して良いものじゃないことくらいは流石の僕にも分かる。

 ……こういう場合は……


「……一応教えてはほしいけど、人に聞かれるのは困るんだよね? それなら、僕が貴女のことを鑑定して名前を視るから、貴女を鑑定する許可を貰えるかな」

「ふむ? 鑑定魔法は個人の名までは視られぬと記憶しておるがの」

「あ、普通の鑑定方法とは違うから、個人の名前も分かるんだよ」

「ほう」


 その方法には興味がある、と言って、彼女は僕が鑑定魔法を使うことを許してくれた。


「ありがとう」


 僕は彼女に礼を言って、そのまま港に背を向け歩き出す。

 僕に手を引かれながら後に続く形で歩く彼女は、小首を傾げた。


「わちきを鑑定するのではないのか?」

「うん。鑑定はするけど、此処は漁師さんたちが大勢行き来してるから。僕が使う鑑定方法も普通の人がやってる方法とは違うし、あまり大勢の前で大っぴらに見せたくないんだよ。だから、御飯食べに行った時にでもこっそりやろうかなって」


 料理屋の席は、庶民向けの店だと席同士の仕切りもないし他人から丸見えではあるんだけど、客は自分の料理や連れとの話に気を取られてて周囲の様子なんて余程のことがない限り気にしていないものだから。そういう場所でなら、小声でこっそりやる分には不自然じゃないし誰にも知られないと思うんだ。

 成程のう、と頷いて、彼女はそれ以上のことは追及してこなかった。


「まあ良かろ。それよりも新鮮な魚じゃ。楽しみじゃのう」

「そうだね。僕も楽しみだよ」


 本当に食べることが一番の楽しみって感じだね、この人は。

 今まで暗闇の世界で生きてて娯楽らしい娯楽なんてものにも触れてこなかったんだろうし、そうなるのも仕方がないことなのかな。

 ……それにしても、八百年、か。

 そんなに長い年月を光を全然知らずに過ごすなんて、僕には無理だな。多分気が狂う。

 せめて一緒にいる間だけでも、この世界に存在する楽しいことは食事だけじゃないんだってことを直に経験させてあげたいと思う。

 勿論、美味しい料理も色々と味わわせてあげるつもりだ。

 美味しい食事を毎日腹一杯に味わえることが生きていく上での幸せのひとつなんだって、僕はそう考えているからね。

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