第3話 キノコとエノコログサと幼女
全身を包み込んでいた揺らぎのような感覚が消える。
この下りエレベーターに乗っているような微妙な浮遊感というか、頭の芯が上に引っ張られる感覚というものはどうも慣れないな。空間移動系の魔法を使うとどうしてもついてくる感覚だから慣れないといけないんだろうけれど。
でも、それも少し静かにしていればすぐに薄れて消える。
「……ふぅ……」
ゆっくりと閉ざしていた瞼を開くと、そこは朝焼けの光が穏やかに降り注ぐ森の中だった。
森、といっても、そこまで木々が密集したジャングルのような世界ではない。林と呼ぶには植物が多くて森と呼ぶには若干物足りない、そんな感じの場所だ。
此処は、先程まで僕が滞在していた町から遠く離れた地方の東外れにある小さな森。
僕が、初めて地面を踏んだこの世界の土地でもある。
この森のすぐ外には小さな集落があって、そこの住民たちが食べられる野草や薬草、木の実を採集しに来る場所でもあるらしい。
少し前までは凶悪な魔物の巣窟となっていた場所だが、ジュリアが率いる冒険者パーティの面々が魔物たちを一掃してからは、人を好んで食うような凶暴な魔物は発生していない。生息していてもせいぜいが昆虫や小動物系の魔物くらいで、連中はこちらから手を出さない限りは大人しいものだから平穏そのものだ。
僕が彼女たちに拾われたのも、その時である。
「旅の再出発は始まりの場所から……ってね」
なんてね。そんな理由でわざわざこんな場所まで転移魔法を使って来たわけじゃない。
僕が此処に来たのには、れっきとした理由があるのだ。
「さて……早く寝たいしさっさと済ませよう」
僕は背負っていたナップザックを下ろして、中からあるものを取り出した。
雑貨店に行けば普通に銅貨五枚程度で手に入る綿布を縫い合わせて作った袋だ。
ただし、口の部分に
「確かこの辺に……よし、あった」
袋を片手に、僕は手近なところに生えている木の根元を丹念に調べた。
すずらんのような小さい袋の形をした花をつけた植物が何本か密集して生えているのを見つける。
これは、ニオール草という。平たく言うと薬草の一種で、外傷を癒す効果を持つ霊薬……まぁポーションと説明した方が早いか。あれの材料になる植物だ。
因みにそのまま齧ってもそれなりの薬効はあるらしいけど、壮絶なまでに苦いので個人的には生食はお勧めしない。あれは他に打つ手がなくなった時の最終手段だと思う。
土地が痩せていても水さえあれば育つ強靭な植物なので、探せば荒地のようなところでも見つけることができる。その分市場にも豊富に流通しているため、ひと束購入しても銅貨一枚もしない程度だ。キャベツ一個の方が断然高価である。
これを採りに来た? いやいや、違うよ。
僕が探しているのは別のもの。この花が生えている場所にセットで生えていることが多い植物だ。
「結構大物だなぁ。まぁ有難いけど……よっ、と」
ニオール草の葉に隠れるようにして生えていた鮮やかな色をしたキノコを引っこ抜く。
これは、パロットマッシュルームという名前のキノコだ。緑、赤、オレンジ、黄色のグラデーションというビビッドな色合いが特徴で、形状としては椎茸に近い。
因みに名前の意味は『オウムのキノコ』。オウムみたいに鮮やかな色をしているからそのように名付けられたそうだ。
如何にも毒を持っていそうな色だけど、これでも食用茸の一種で、スープに入れるといい出汁が取れて美味しい。よく乾燥させて粉にするとあっさり系の粉末出汁の代わりとして使える優秀食材なのである。もちろんそのまま焼いただけのやつに塩を軽く振って食べるのもお勧めだ。
これ、食べられると知らない人、実は結構多い。近くの集落の住民たちも、ニオール草や山菜は熱心に採るんだけど、このキノコは放置している。刈られたやつがそのまま捨てられてる、なんてこともよくある。何とも勿体無い話だなって思う。
「調味料の類は全部置いてきちゃったからなぁ……また一から集めないと。一眠りしたら海の方に行ってみるかな」
ジュリアのパーティに加入してからずっと食事当番をしていた僕は、旅先で立ち寄った町の市場なんかで色々な調味料を見繕っては少しずつ買い集めていた。
良質な塩や胡椒は海沿いの地域じゃないと手に入らないし、
物資は見かけた時が買い時。この世界で上手な買い物をするための心得だ。覚えておくといいよ。
「……よし。とりあえずこんなものかな」
三十分ほど森を散策して、お目当てのキノコを籠一杯分くらい採ることができた。
これだけあれば、しばらくは在庫が持ちそうだ。
とりあえずスパイスに加工するのは後でやるとして……集めたキノコは、準備しておいた袋の中にまとめて放り込んでおく。
この袋の中は、刺繍した魔道文字の効果で時間の流れが通常のおよそ十分の一にまで抑えられている。加えて中に入れた品物の大きさが四分の一にまで圧縮されるようになっているので、食材を保存するのにうってつけなのだ。
一応、ちゃんとした材料を揃えさえすれば、時間経過なしで容量無限大の鞄、なんてものも作れるんだけど……あれはそこまで広く流通しているような素材じゃないし、今の僕の財力だと一センチの端切れすら手に入るかどうか怪しい代物だ。この袋でも十分役に立ってるし、まとまった資金が手に入ったらその時に改めて考えればいい。
「んっ……と。流石にそろそろ寝なきゃ」
──さて。やるべきことは済ませたし、何処かで休もう。
軽く全身を伸ばして、辺りを軽く見回してみる。
この森は、現在は人にとって脅威となるような魔物は棲んでいないから、迂闊に森の外で野宿するよりは此処にいた方が余程安全だ。
あったとしても、せいぜいハニービーの巣にうっかりぶつかっちゃって刺される、くらいのことなので、死ぬことはまずありえない。
とはいえ、魔物や動物に危険がなくても、偶然森の中を徘徊していた悪人の類に襲われる……という可能性はありうるから、無防備に寝るなんてことはしないけど。
全身が伸ばせる程度の広さが確保できるところを探して、そこに障壁を張って即席の寝床にするつもりだ。
単に寝るための場所を確保するだけのことで銀貨五枚とか使いたくないしね……
「……あ、あの辺は良さそうだな」
少し歩いた先に、背が低い植え込みみたいな木が弧を描く形で生えている場所を発見した。
近くには倒木が転がっていて、低木と合わさって上手いことアルファベットの『D』に似た形を形成している。
倒木と低木の間……あそこなら、丁度外から見て姿が隠れるし、寝床にするにはいいんじゃないかな。
とりあえず場所の状態を確認して、それからあそこで野宿するかどうか決めよう。
いい具合の場所だといいなぁ。そんなことを考えながら、低木の陰を覗き込むと、
「!?──な、なんじゃ?」
──そこには先客がいた。
先端がくるりとカールしていて随分とボリュームがある赤茶の髪の少女が、双眸を閉ざしたまま驚いているという何とも奇妙な表情を浮かべて僕の方へと振り返っている。
いや。少女……と呼ぶには年齢が足りてないな。幼女、の方がニュアンス的には近いかもしれない。
その割に随分と年寄りじみた変なイントネーションの言葉遣いだけど。
「こ、このエノコログサは誰にもやらぬぞ。わちきの飯じゃ。あっちに行ってたもれ」
そう言いながら必死に隠そうとしているのは、両手一杯に握った猫じゃらし。
あのふさふさ部分が一部毟られてなくなっているので、この子が食べたんだろう。飯、とか言ってるし。
……猫じゃらしって、食べられるもんなの?
「──む」
僕が呆気に取られて幼女と猫じゃらしを交互に観察していると、彼女は小さく唸って僕の全身を値踏みするように見つめ始めた。
……見つめる、じゃ語弊があるか。この子、さっきから目を閉じたままだし。瞼を開ける素振りが全然見られない。
でも、何か注目されてる気配というか、雰囲気はするんだよね。何でだろう。
「御主……」
幼女は小首を小鳥のようにこてんと傾げて、言った。
彼女の眉間に貼り付いたオパールみたいな虹色の丸い宝石が、一瞬仄かな光を内側から放ったかのように見えた。
しかし、そんなささやかな不思議は、彼女が口にした次の一言で僕の意識から一瞬で吹っ飛ぶことになる。
「……ひょっとして、英雄殿かの?」
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