コーヒーブレイク

志央生

コーヒーブレイク

 倉科和人はあたり一面草原が広がる場所に立っていた。いつからそこにいるのか全くわからない。だが、それが別段不思議なことではなかった。すぐ隣に愛すべきカノジョ、秋月翔子がやさしく微笑んでいるからだ。

「きれいな場所ね」

 今日も彼女は白いワンピースに麦わら帽子をかぶり、ささやきかけてくるように言葉を紡ぐ。ワンピースから浮かび上がる体のラインは何度見ても美しく、そのたびに倉科はつばをゴクリと飲み込んでしまう。

「君に見せたくてね」

 洒落た言葉など持ち合わせていない彼は、少しばかり照れながらそう口にした。その姿を見て翔子は静かに口元に手を当てて笑う。そのしぐさが気品漂い、彼にとっては堪らなく感じられる。

 陽に照らされ草原が色を変える。青々しい姿をしていた草が明るく染まり、あたりを金色に変わっていく。その光景を眺めながら、隣にいる彼女に意識を向ける。

「ありがとう。いつも景色のいいところに連れてきてくれて」

「どうってことないさ、君にはきれいなものを見てほしいから」

 少しずつ傾き始めた夕日を翔子と眺めながら談笑にふける。彼女が笑うだけで、どんどんと彼の気持ちは満足感に浸っていく。この時間がずっと続くのであれば他には何もいらないと思えば思うほど別れの時間は迫っていく。

 どれだけ話をしたのだろうか、太陽が地平線に埋もれ代わりに月が顔を出し始めていた。美しかったはずの草原が三度姿を変え、夜の海にでもなったように静かに彼らを包み込んでいた。それが倉科の心に不安を募らせていく。一人でいれば飲み込まれそうな恐怖感。そんな感覚に襲われ、迷うことなく翔子の手を掴んだ。柔らかく、少しだけ押し返してくる肉感が安心感を与えてくる。

「どうしたの」

 彼女は突然手を握られたことに動揺して声をかけてくる。しかし、倉科は何も言わず、ただその存在を確かめる。血が通い温かい熱を持つ一人の女性、秋月翔子は確かにここにいるのだと自分に言い聞かせる。

 やがて完全に陽が沈み、視界が閉ざされる。隣にいるはずの翔子の姿さえ、その目は捉えることはできない。それでも握ったままだった手に、彼女の温かさが伝わってくる。温めた陶器のようなそのぬくもりも、徐々に冷めていくのであった。



 倉科は自分が通う大学近くにある喫茶店の席の一角に座っていた。特別何かが変わった店ではない。外観は年季が入り、看板の文字が掠れ、店内は昔ながらのレトロチックな造りをしている。最近のカフェテリアとは違う、味わい深い店である。

「はぁ、今日も彼女は美しかった」

 余韻に浸りながら、彼は机の上に置かれていたホットコーヒーに手を伸ばす。ホットコーヒーとは言ったものの注文してからずいぶんと時間が経過しおり、唇に触れた瞬間から明らかな温度差があるのが感じ取れた。それを躊躇なく啜り、口の中に味を広げていく。渋い苦みが一気に口いっぱいに染み込んでくると同時に酸味が後から押し寄せてくる。はっきり言ってしまって不味い。味わい深いはずのコーヒーがここまで姿を変えるとは予想外である。

 しかし倉科にとっては当たり前の味になっている。これが現実の苦みであり酸味なのだと。そう、先ほどまでの甘美な出来事はすべて彼の妄想の世界の出来事であり、この味を噛みしめることで締めくくっているのだ。


 彼が秋月翔子に没頭し始めたのは、去年の夏のことであった。何もやる気が起きない体を引きずるように大学近くを歩いていたとき、この喫茶店を見つけ店内に入ることにしたのだ。夏という時期で汗をかいており、休憩にとコーヒーを注文した。そのとき、女性店員の誤りでアイスコーヒーではなくホットコーヒーを出されてしまったことがあった。文句を言おうとしたが、そんな勇気を持ち合わせていなかったためにコーヒーが冷めるまで待つことにしたのだ。

 手持無沙汰になった彼は店内を見渡し、ふと壁に飾られた風景写真があることに気が付き目を止めた。その写真を眺めていると胸の奥から寂しさがこみ上げ、数時間の前の出来事が脳裏から再生された。

 この喫茶店に入る前に三か月ほど付き合っていたカノジョから別れを告げられたのだ。あまりにも唐突なことで声も出すこともできず、だからと言って引き止めることもせず、ただ無言で頷いて別れを受け入れていた。それは彼自身も心のどこかにカノジョと別れたいと思っていたからだろう。それを察知した相手が倉科の言葉を代弁し、告げてくれたようなものであった。

 それでも倉科は自分の胸にできた空虚な部分を誰かに癒してほしかったのだ。壁に飾られた風景写真はその気持ちをさらに拍車をかけた。そこで頭の中で姿のない女性を思い浮かべた。自分の理想像だけを詰め込んだ人物を想像する。

 容姿端麗で感受性が豊かであり、いつも彼に笑顔を向けてくれるカノジョ。最初はそれを元にイメージし、一人の女性を作り上げた。それから幾度となく翔子との逢瀬を繰り返した。会うたびにより彼女は人間味を帯び、倉科の空虚だった心を埋めていき、さらにのめりこんでいくようになった。そうして秋月翔子という架空のカノジョが出来上がったのだ。

 そんなカノジョと一日一度、この喫茶店を訪れては脳内デートを行うことが今では日課になっている。ホットコーヒーを頼み冷めるまで翔子との時間を過ごし、それを終えた後にコーヒーを飲む。これは妄想の余韻から覚めるための方法だ。冷めたホットコーヒーの強烈な味が倉科にここが現実であることを教えてくれるのだ。

 

 コーヒーを飲み干した倉科は席を立ちレジへと伝票を持っていく。慣れた手つきで財布からお金を取出しお釣りがないようにピッタリと払い店を後にする。このひと時が大事な時間なのである。



 この喫茶店に通い始めてから一年以上が過ぎており、もはや常連と言えるほどに倉科は顔なじみになってきていた。店に入ると店主がコーヒーミルを回しており、扉に取り付けられたベルの音に反応してこちらに目を向けて姿を確認し「いらっしゃい」と口にする。軽く頭を下げてから彼は毎度決まった席に座るのだ。そこに注文を取りに女性店員がやってくる。普段であれば何も言わずとも勝手に「ホットコーヒーですね」と女性店員が笑顔で聞いてくるのだが今日に限ってはいくら待っても聞いてこない。

「あ、あの。すいませんがご注文はお決まりでしょうか」

 聞きなれない声に顔を上げるといつもの女性店員ではない女性が立っていた。長そうな黒髪を一本に縛って聞いてくる彼女は初めて見る顔の店員であった。

「ホットコーヒーをお願いします」

 思わずかしこまってしまい、倉科は女性の店員に注文をする。彼女は優しく微笑み「かしこまりました」と言うとカウンターへと去って行った。その後ろ姿を何となく目で追ってしまう。姿が見えなくなると同時に、彼はハッと我に返り壁に飾られた風景写真を眺める。ふと目に入った海の写真に見入っていると、机の上にホットコーヒーを静かに置かれる。

「どうもありがとうございます」

 女性店員にお礼を言うと、「すいません。集中していたところをお邪魔して」と予想外の返答に困惑してしまう。何が、と問うこともできず気にしていないと伝える。彼女の顔は少し嬉しそうな顔をしていたように彼の目には映った。

 再び写真に目を向け意識を集中させる。すると、どんどんと景色が変わっていき、先ほどまで見つめていた海の砂浜が現れたのである。


 倉科の妄想はこれまで自身が体験してきた情報をもとに作られている。記憶の海馬から情報を取り出し、秋月翔子を細部から作り上げる。肌の感触、肉感、容姿、匂い、髪の質、そのすべてを完全に再現する。そして、壁に飾られた風景写真を舞台として頭の中に広げている。

 その世界で翔子はいつものように白いワンピースに麦わら帽子をかぶり、波打ち際に立っていた。彼女の名前を呼ぶと笑顔を浮かべて倉科に手を振ってきた。

「和人君も早くこっちに来て」

 その声が耳の奥で何度も繰り返される。やさしい声音が、彼を包み込むような感覚である。声に引き寄せられるように波打ち際へと向かって歩いていく。その最中、岩の合間に影が見えた。誰のものかわからない謎の影があった。

「どうしたの? 大丈夫」

 翔子の声が、足を止めた彼の耳に届く。もう一度、影があった岩の隙間を見るが今度は何も映らなかった。この世界には秋月翔子と倉科和人の二人以外に人など存在していないはずなのだ。だが、そこに何かの影を見たのだ。それを気にせずにはいられなかった。

「はやく、こっち」

 手招きする翔子の元へと小走りでかけていく。引いては返す波の海水を両手にすくい彼女はやってきた倉科にかける。冷えた水が体に触れ、思わず驚く彼の姿を見て彼女は明るく笑う。その顔を見るだけで彼は幸せな気分に包まれた。倉科も水をかけ返す。すると小さく悲鳴を上げて飛び跳ねた。着ているワンピースの裾がひらりと揺れ、白い肌が覗かれる。

「もう、やったわね」

 子供のようにはしゃぐ翔子は容赦なく水をかけていく。二人ともが負けじと水をかけあう。時間が経つのを忘れて海で遊んだ。

 水平線に太陽が沈んでいく。それを見た倉科は、今日はここまでなのかと思う。この世界は日没とともに覚めてしまう。それは、彼が無意識化で行っている時間制限の表し方だった。世界を構築するために見て取れる情報を常に想像しつづけるのは、脳に多大な負荷をかけるため妄想は長くは続かない。

 だが、倉科にはそれだけで十分だった。そこで育むことができる愛はかけがえのないものだと信じてやまないからだ。

「翔子さん、今日は」

 少し落ち込んだ声で彼女に話しかける。しかし、明るい笑顔を浮かべて言葉を返してきた。

「もう時間なのね。大丈夫よ、すぐに会えるんだから。そんな顔しないで」

 やさしく彼女の手が頬に触れる。暖かな体温が伝わり、彼はそっと自分の頬に触れる手を握って目を閉じる。そして自分に言い聞かせるように言葉を口にする。

「あぁ、すぐに会えるさ」


 目が覚めると同時に倉科は冷めたコーヒーを口の中に流し込んだ。一気に広がる苦みと酸味はいつも以上にまずく感じられる。それと同時に、彼は頭の中に湧いた黒い影を殺そうとしていた。今日の翔子とのデートは一時的に見えた黒い影のことを考えていたためあまり楽しめなかった。いや、楽しんでいたのだが半減してしまったのだ。彼はそのことに大いに機嫌を損ねていた。今まで現れることのなかった倉科の妄想世界に歪みが生じ始めたのはこの日からであった。



 講義を終えた倉科は大学構内を歩きながら、急激に冷え込んだ季節を体験していた。できるだけ寒さを感じないように防寒具を着込み、喫茶店へ行こうと考えて足を速める。その途中、遠目にいつかの女性店員の姿を見たのだ。以前見たときと何も変わっておらず、外見から彼女だと判断できた。なぜ、自分が彼女のことが直ぐに目についたのか理解できなかった。

 しかし、不思議と彼女に視線が惹きつけられた。その姿が学内に消えるまでの間立ちどまり見つめていた。それが終わると、喫茶店に自分が向かっていたことを思い出し再び歩き始めた。


「いらっしゃい」

 来店を知らせるベルが温かい店内に鳴り響く。カウンターでコーヒーミルを引く店主が彼の姿を見てあまり大きくない声で出迎えた。倉科は座りなれた座席に腰掛け、来ていた防寒具をとっていく。そこにお冷とおしぼりを運んできた店主が「注文は」と聞いてきた。手慣れたように「ホットコーヒーを」と注文すると、カウンターへ店主が戻っていく。

 息を吐いて壁に飾られた写真に目を向ける。黄金色の草原、夕焼けの海、風車があるレンガ造りの町、放牧場。どれも通い始めたころからあるものばかりだ。飽きたわけではないが、新しい景色を見てみたいと思うのだ。

そんなとき、この写真は誰が撮ったのだろうかという疑問が浮かんだ。初めてこの店を訪れた夏には二つばかりしか写真は飾られていなかった。

「ホットコーヒーです」

 思考を遮るように店主がコーヒーを丁寧に机の上に置く。そのまま立ち去ろうとする店主を倉科は呼び止めていた。店主は嫌がる顔をせずに振り返り幾重にもできた豊齢線が柔らかな表情を作り上げる。

「あの、ずっと気になっていたんですが。この写真は店主さんがお撮りになっているんですか」

 頭の中に浮かんだ疑問を気が付けば店主にぶつけていた。すると彼は微笑んだままで「いいえ」と答える。

「その写真はバイトの女の子が撮ってきてくれているんです。最近はご無沙汰ですが、良いものを撮るので私が気に入ったものを飾らして貰っているんです」

 そう言うと、店主は軽く頭を下げてカウンターへと下がっていく。再び壁の写真を見つめて妄想に浸る準備を始める。秋月翔子の顔を思い浮かべ、景色を作り上げていくその途中にあの女性店員の姿が頭を霞めたのだった。


 異変は最初からでこの日はひどく正確性に欠けた。カノジョ、秋月翔子は完ぺきに再現することはできたが世界そのものが出来上がらなかった。おかげで不安定な世界で翔子と過ごすことしかできなかった。

 もともと、ここ最近の倉科の妄想世界はどこかかしら正確性に欠けていることが多々あった。そのすべてがほんの些細なことだったが、この日は一番ひどい影響を受けた。一時気は翔子と出会うことを我慢して原因の究明をしようとしたが、彼女に会えなくなることを想像しただけで体中から血の気が引き何も考えられなくなるような気がして、結局毎日は会うことを選択した。

 それほどまでに秋月翔子は倉科にとって心の支えとなっていたのだ。



 カノジョが倉科の脳内に生み出される前に、現実で三人の女性と付き合っていたことがある。しかし、その誰とも長くは続かず三か月ほどで別れることになった。

 一人目のカノジョは顏が好みで付き合い、二人目のカノジョは魅力漂う体型に惑わされ、三人目のカノジョは性格だけを重視した。だが、どれか一つ彼の好みを押さえていても、それ以外の部分で欠点が露見してしまう。結果、早々に分かれる選択肢へと誘われることになるのだ。そして、その先に行き着いた答えが秋月翔子だった。

 倉科が求める理想のみで構成されたカノジョはどの女性よりも絶対的であり崩れることのない存在であった。しかし、それを脅かすように日に日に妄想は精度を落としていく。そのたび思い浮かぶのは別の女性の像ばかり。

 いつか見たあの喫茶店で働く彼女。その姿が頭の片隅に住み着き、知らない間に蜘蛛の巣のように細く糸を張り巡らしているのだ。


 度重なる妄想の失敗に苛立ち、倉科は気分を紛らわすために大学構内を歩いていた。閑散とているのは冬のせいなのか、それとも時間的なものなのか人影がない。そんな中庭でカメラを構えている女性がいるのを彼は見つけて、思わず柱に身を隠した。なぜ、そんな行為をしたのかは分からなかったが、物陰からそっと顔を出して女性の姿を捉える。

 遠目から見えるのは黒く伸びた髪と白いロングコートを羽織っている姿だった。ただ、それだけのことで彼女が喫茶店のあの店員であることが分かった。彼女はただ静かにカメラを覗き込み、何かを待っていた。彼は無意識のうちにその姿を眺めていた。

「きた」

 空を見つめていたカメラがシャッターを切る音がした。倉科はカメラが向いていた方向を見るが何かがあるわけではなかった。しかし彼女は満足げな顔をしながら「良いのが撮れた」とうれしそうな声を上げている。その声を聴いて、心臓が高く跳ね上がった。カメラから視線を外すと彼女は倉科の存在にすぐに気が付いた。

「あの、どうかしましたか」

 自分に投げかけられた言葉に返すことなく、倉科は黙ったまま構内へと姿を消していく。

 彼の心は今までにないほどの高まりを見せていた。遠巻きから眺めたその姿が目に焼き付いてしまい、振り払おうことができない。彼女の声音も自分のことを見てきた両目も、どれもが虚妄していた何よりも鮮やかで、彼の中に巣くう陰りが姿を持ち始める。今まで霞がさす色をしていた存在が、確かな色付け姿を得た。そのことに彼は焦っているのだ。

 講義などそっちのけで喫茶店へと急ぐ。乱暴に扉を開けて、足早に椅子へと腰かける。

「お冷とおしぼりです」

 ただならぬ雰囲気を読み取り、恐る恐る店員が提供してくる。倉科は「ホットコーヒーを」と頼み、腹の底から息を吐く。早く脈打つ心臓を落ち着かせ彼は壁の写真に目を向ける。すると、周りの景色は変わり、写真に写っていた風景画あたりを包み込んだ。


「今日は早いのね」

 いつもと同じように秋月翔子は出迎えた。彼が真に愛しているカノジョは今日も笑顔で、やさしく話しかけてくる。

「早く会いたくてね」

 目の前にいる翔子を見つめたまま言葉を返す。何も変なところはない、麦わら帽子に白いワンピース、そのすべてが想像した通り。ここには彼がほしいものしかない。だから、秋月翔子は何があっても消えることはない、そう自分に言い聞かせる。

「どうかしたの、怖い顔して」

 そう彼女は口にした。倉科自身も自分が今笑っていないことは分かっているが、怖い顔などしていないつもりだ。

「何でもないさ。ただ君がちゃんとここにいてくれるなら」

 取り繕うように言葉を絞り出す。そんな彼の姿を見て彼女はやんわりと微笑み、口を開いて言葉を紡ぐ。

「大丈夫よ、何も怖くないわ」

 翔子の手が頬を撫でる。以前もこうして彼女に触れることは何度となくあった。そのたびにぬくもりが肌を介して感じていた。人肌の温度は、不安な気持ちを和らげてくれる。そのことを倉科は知っていた。だから彼女に頬を撫でられたとき、彼は今自分が感じている不安な気持ちを拭い去ってくれるものだと信じていた。

「どうかしたの」

 呆然としている彼に声をかける。しかし、倉科は何も言葉を返すことない。ただ、彼女の顔を見つめているだけなのだ。いまだ状況を飲み込めず、先ほどの手の感覚を思い返す。温かいはずの熱はそこになく、冷え切った人形のような感触があった。

 その事実が飲み込めたとき、倉科は喫茶店の椅子に座っていた。


 机の上にはいつの間にか置かれたホットコーヒーがある。体中を急激な疲れに襲われ、背もたれに体を預ける。深く吸い込んだ息を大きく吐く。ため息に近いような息は空気の中に紛れていく。

 余計な思考をやめ、壁に飾られた写真を呆然と見つめる。今まで何度も眺めたはずの写真が新鮮さを帯び、倉科の目に映る。ふとしたときに頭の中に大学構内で見かけた彼女の顔が浮かび上がる。そのたびに目の前に彼女の像が出来上がっていこうとする。

いまだ余韻から抜け出せない曖昧な意識を戻すため、コーヒーカップに手を伸ばし口元に当てると。

「あっ、あの」

 突然のことに肩を震わせ、話しかけられたほうを見ると彼女が立っていた。走ってきたのか少し乱れた着衣と息の弾む音が聞こえる。息を整えようと深呼吸を行い、いざ言葉を紡ごうと大きく口を開こうとする。

 彼の口には少量だけコーヒーが含まれていた。しかし、冷め切っていないコーヒーはぬるく曖昧な味が口中に広がるだけだった。

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