第20話

珍しく仕事のない日。

色葉が紗々芽の家に遊びに来ていた。

紗々芽の母親に案内された色葉が自室に来たことに、紗々芽が座っていたクッションから腰を上げようとすると。

「あ!」

 急に色葉が声を上げた。

 思わず中腰のまま止まってしまった紗々芽だ。

「シュシュつけてくれてる!」

 言われてああ、と思う。

 今日の紗々芽は茶色のシャツワンピースに色葉に貰ったシュシュを片側で結んでいる。

 部屋に入ってきた色葉はその姿ににこにこと。

「やっぱり似合ってる。可愛い」

 じっと紗々芽を見つめてきた。

 その言葉が照れくさくて一瞬髪の毛先をいじって、上げかけていた腰を元に戻してクッションに座り直した。

「まあ、座れよ」

「うん」

 白いクッションを指差され座ろうとした色葉が、ふと白い棚の上に飾っている『めぇめぇ』のグッズ達の場所をじっと見やった。

「色葉?」

 不思議そうに問いかけると。

「紗々芽、マニキュア持ってたんだ」

 色葉の目線の先は小さくころんとした容器に入ったアプリコットオレンジのマニキュアがあった。

 華やかだが派手過ぎない女の子らしい色は、いかにも紗々芽好みの色だ。

「ああ、色が可愛かったからつい買っちゃって。塗ったことはないんだけどな」

「塗ったことないの?」

「柄じゃない」

 紗々芽の言葉に、色葉は一瞬考えるそぶりを見せた。

 色葉の爪はアーモンドのような綺麗な形に桜貝のような色だ。

 以前マニキュアを塗っている姿を見たけれど、正直紗々芽は何も塗っていない色葉の爪の方が綺麗だと思っている。

 紗々芽は料理をするので爪は伸ばさないように深爪気味だ。

 とてもマニキュアの映える手ではない。

 しかし。

「せっかくだし塗ろうよ、塗ってあげる」

 色葉がマニキュアの瓶を手に取り、クッションの上ではなく紗々芽の横に腰を下ろした。

「明日は学校休みだからいいでしょ」

 くるくると蓋を開けだした色葉は紗々芽の拒否など受け取る気はないのだろう。

「紗々芽、明日の予定は?」

「ないよ」

「じゃあ事務所に行く用事あるから、一緒に行こう」

 色葉の提案に紗々芽はえぇーと声を上げたが、くいと右手を取られた。

「マニキュア塗った手を繋いでデートしよう」

 楽し気に笑う色葉に紗々芽は。

「デート先は事務所だろ」

 少しむすくれた声で答えると、色葉がマニキュアの蓋を手に取ってふふと笑った。

「事務所終わったあとに甘いものでも食べに行こう」

「それならいいけど」

「決まり、はい塗るよ」

 紗々芽の右手を持ったまま、色葉がアプリコットオレンジの色を乗せ始めた。

 初めて塗るマニキュアは独特な匂いが鼻をつく。

 ぺとりと爪の表面の冷たい感触に。

「くすぐったい」

 わずかに動くと。

「動かないの」

 たしなめられた。

真剣な顔をした色葉の伏し目がちな目元を見やる。

 長くて濃いまつ毛が影を落としていた。

「ねえ紗々芽」

「うん?」

「紗々芽は好きな人いる?」

 突然の言葉に、紗々芽はきょとんとした。

 好きな人なんてそんな恋バナ、色葉との会話で一度も出てきたことなどない。

「なんだいきなり」

「なんとなく」

「いないよ」

 右手の爪先が綺麗な色に染まっていくのを見ながら紗々芽は答えた。

 恋なんて残念ながら紗々芽とはもっとも縁遠かったものだ。

「中学の時は?」

「いない、勉強ばっかり」

「そっか」

 右手が終わり、それをマジマジと紗々芽は見つめた。

 アプリコットオレンジが爪先でキラリと艶めき、何だか照れくさい。

「そーゆーお前はどうなんだ?」

 色葉に問いかけると、今度は左手にマニキュアを塗りながら、んーと色葉が生返事を返した。

「ごまかすの禁止」

「……いるよ」

 思ってもいなかった返事に、紗々芽は大きく目を見開いた。

 色葉はマニキュアを塗るために俯いているので、肩口までの髪の毛がさらりと流れて表情がよく見えない。

「いるんだ……」

「うん、大好き」

 その言葉に、思わず紗々芽は唇を引き結んだ。

 色葉が誰かに想いを寄せているなんて、今まで考えた事すらなくて胸の内がなんだかもやもやする。

 どんな男の子なのだろうと思う。

 あれだけたくさんの人からの告白を断っていたのは、その人の事を想ってなのだろう。

 今も色葉はその人のことを大好きと言った。

「嫉妬する?」

「まさか!」

 むうと何も言わなくなった紗々芽に、色葉がぽつりと聞いてきたのに対して思わず紗々芽は大きな声を上げていた。

 どうしてこんなに動揺しているのかわからない。

「そう」

 小指の爪が色づいていくのを見ながら、紗々芽はおそるおそる小さく口を開いた。

「その人ってさ」

「はい終わり」

言いかけたところで話を切るように色葉がふっと紗々芽の小指の爪先に息を吹きかけた。

変に遮られてしまった気がする。

「次は足ね」

「足はいいよ」

 秋口になったばかりなのに、紗々芽の足元はすでにもこもこのルームソックスを履いている。

「紗々芽は寒がり?」

「足先だけ冷えるんだよ」

 言うと、断ったにもかかわらず色葉がぐいと紗々芽のふくらはぎを持ち上げてからルームソックスを引き抜いた。

 右足の次は左足。

「こら!」

「あ、本当だ、冷たい」

 白く引き締まった足の先。

 かかとの部分を手の平に乗せた色葉が温めるように、空いている右手で足の甲を撫でる。

 それがくすぐったくて、足先がぴくりと動いた。

 色葉の手のひらから移ってくる体温が、温かくて気持ちよかった。

 じんわりとぬくもっていく足先の気持ちよさと、他人に足なんて触られている羞恥で紗々芽の胸中は大混乱だ。

 ぺとりと手の時と同じように蓋を手にして色葉が足の爪を塗り出す。

 それを見ながら紗々芽はさっき遮られた会話が気になって。

「なあ、さっきの話だけどさ。どんな人?」

「おしえなーい」

「えぇ」

 間髪入れずに断られた。

 思わず不満を口に身じろぐと。

「動かない」

 注意されてしまった。

「気になるの?」

「だって……」

 気になる。

 別に紗々芽は他の女の子のように恋バナをする趣味はない。

 けれど、色葉の好きな人がいるという事実はどうしても胸の内を乱して知りたいと思ってしまった。

 もしかしてみんなこのもやもやを解消したくて恋バナするんだろうかなんて見当違いなことを思ってしまう。

「つぼみ」

「へ?」

 突然の単語に、間抜けな声が出てしまった。

 つぼみとはいったい何の話だろうと思っていると。

「つぼみみたいな人」

 好きな人のことらしい。

 花に例えるならわかるけれど、つぼみなんてどういう意味だろうと疑問に思う。

「なんだそれ」

「いっぱいいい所あるのに自信なくて、でも絶対にみんなが振り返るくらい素敵な人なんだよ」

 色葉の声はなんだかとても甘い。

「でも今は私だけのものなんだ」

「ふうん……」

 まるで砂糖菓子のような声音に、紗々芽は思わずそっけなく返してしまった。

 色葉がそんなに好きだと思うなんて、とても素敵な人間なんだろうと思う。

 それがなんだか羨ましくて、もやもやして、紗々芽は何ともいえない胸の内を無理矢理抑え込んだ。

「嫉妬する?」

「……別に」

 嘘。

 嫉妬した。

(なんか、おもしろくない)

 思わずむすりと唇を尖らせる。

「拗ねないでね」

「拗ねてない」

 女の子が恋バナをしている姿はとても楽しそうだったのに、紗々芽は色葉の恋を知ってもちっとも楽しくなかった。

 世の女の子たちは何が楽しくて恋バナをするのだろうと思う。

「頬ふくれてる」

 くすくすと笑う声。

 見てもいないくせに決めつけるなんてと思いながら。

「ふくれてない」

 不機嫌に返すと、塗り終わったらしい色葉が上目使いに紗々芽を見上げた。

 そしてにやりと不敵に笑う。

「ほら、塗り終わった。機嫌なおして、お姫様」

 言って、ふっと爪に息をふきかける。

 どうしてかもやもやは収まらず、その日はなんだか夜にベッドに入っても色葉の好きな人のことが頭から離れなかった。

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