花は愛され咲き誇る

やらぎはら響

第1話

 キシキシと足元から鳴る音を聞きながら、甘滝紗々芽は慎重に一歩一歩前へ進んでいた。

 一面の雪景色。

 紺色のセーラー服に白いマフラーを巻いている紗々芽は、平均体温が高いことと兄の好意で車で目的地まで送ってもらったことで、コートは着てこなかった。

 代わりに制服の下の腰にはホッカイロが貼ってあるので、寒いということはない。

 スカートのポケットにも完備済みだ。

 足跡をつけながら息を吐くと、白く視界が染まった。

 幸い今は雪も止んでいるので、紺色の傘は右腕に引っかけている。

 地毛である胸までの焦げ茶色の髪は、すっかり冷えてしまっている。

 一四七センチしかない紗々芽は他の受験生の波に埋もれながら、マフラーに顔をうずめた。

 高校受験という一大イベントに大雪とはついてない。

 手に持った単語帳を必死に見ながら、うつむきがちに歩いていた。

 緊張は最高潮に高まっていて、ギリギリでやっても意味はないと思ってはいるが単語帳から目が離せない。

 この高校は地元では有名な進学校だ。

 第一志望にしたこの学校は、倍率も高くて落ちる可能性が脳裏をよぎる。

 それを懸命に振り払いながら、必死に書かれている英文に目を走らせた。

 努力型の紗々芽は出来る限りのことはやったと思ってはいるが、不安はつきない。

 そもそも中学もまだ卒業していないので、受験とはいえ高校の校庭を歩いているのが不思議でたまらなかった。

 ぺらりと単語帳をめくりながら、この高校には紗々芽しか受験していないことを思い出す。

 周りのクラスメイトたちは受験を控えていても、適度に遊びに行ったりしていたし、彼氏とデートをしている子も見た。

 紗々芽的には信じられない行動だ。

 秋口からはもう受験一色だった。

 もともと真面目な紗々芽は彼氏なんかも出来たことはないし、ほとんど遊びにも行かなかった。

 けれど高校に入ったら好きな人くらいは出来るのだろうかと、まったく想像がつかないことをぼんやり考えたときだった。

「わっ!」

「おっと」

 気がそぞろになっていたせいか、ずるりと足元が雪で滑った。

 ふわんと何だか柔らかいものが後頭部に当たる感触がした。

そして、微かに花のような香り。

いくら待っても冷たい雪に尻餅をつくことはなく、おそるおそる後ろを見やると。

 視界に入ったのは白と黒のセーラー服の胸元。

 その制服に包まれている場所は、はた目から見ても豊満で柔らかそうだ。

(胸でっか!)

 後頭部にあったのは間違いなくこれだろう。

 紗々芽は目線の先にある胸を見て、思わず内心で声を上げた。

 絶壁の自分の胸を見慣れているせいか、思わずまじまじと見てしまう。

「大丈夫?」

 降ってきた声は、甘く高い鈴のような声だった。

 そこでようやく、紗々芽の視線より上に顔があることに気付き。

「悪い!」

 慌てて一歩後ずさり見上げると、思わず紗々芽は目を丸くした。

「いいよ、平気だから」

 そこには長身の美人がいた。

 多分一七十センチは超えているだろう姿に目線がぐんと上がる。

 肩口で切られている黒髪がよく似合っており、くっきり二重の目は大きい。

 唇もぽってりしていて、猫のような吊り目の紗々芽とは全然違う甘い顔立ちだ。

 思わずぽかんと見とれてしまうと。

「単語帳に夢中だから」

 くすりと口元が小さく笑う。

 淡く笑んだだけなのに、花がほころぶような雰囲気だ。

「ぶつかって悪い」

 ハッと我にかえり、兄譲りの少し乱雑な口調で紗々芽は慌てて頭を下げた。

 パサリと冷えた髪が頬に当たって冷たく感じる。

 けれど、顔を上げて気になったのが。

「お前……寒くないの」

 白と黒のセーラー服だけで、コートもマフラーも、まして傘すらないその寒々しい姿だった。

 手袋などしていない華奢な手も、寒さで真っ赤になっていた。

「コートやマフラーは鬱陶しくて、好きじゃないの」

 鈴が転がるような声で言ったあと。

「くしゅん」

 小さく少女がくしゃみをした。

 可愛らしいくしゃみに思わず笑ってしまう。

 「手、真っ赤じゃないか。大事な日なのに風邪引くぞ。それにそんなんじゃ、ろくにペンも持てない」

 少女の手を取り、ポケットに突っ込んでいたホッカイロを押し付ける。

 手に取った少女の手は氷のようで、紗々芽はわずかに眉を寄せた。

 それに少女はぽかんと目を丸くすると。

「大事な日?」

 不思議そうに尋ねてきた。

 それに紗々芽も不思議そうに返す。

「受験当日なんて大事だろ。この後三年間が決まるんだから」

「私はめんどくさいだけだけどな」

 少女が渡されたホッカイロを両手で包んで肩をすくめる。

 それに紗々芽は衝撃を受けた。

 行きたい高校に行けるかどうかの瀬戸際を面倒くさいで済ますなんて、ある意味大物だと思う。

「第一志望じゃないのか?」

 それならまだ納得もいく。

 しかし。

「第一志望だよ。徒歩圏内だとここしかないから」

 その言葉に紗々芽はぽかんと口を開けた。

 そんな理由でこの進学校を受験するなんてと思ったが、少女の制服を見て気づく。

 彼女が着ている制服は、この辺ではかなり偏差値の低い中学校のものだ。

 大丈夫だろうか。

 人の心配をしている場合ではないが、入試で話した相手が受験に落ちるんじゃないかと縁起でもないことを考えてしまう。

「ほら、これも」

 そう言って思わず紗々芽は自分が巻いていた白いマフラーを、少々雑に少女の細首に巻いた。

 目をぱちくりとまばたかせながらとまどっている少女に。

「頑張れよ」

 思わず激励してしまった。

 何をやってるんだと思いながらも、ひらりと少女にひとつ手を振って紗々芽は試験会場の校舎へ再び歩き出した。

「私ライバルだよ」

 紗々芽の背中にかけられた声に、肩越しに振り返れば少女がおかしさを隠せないと言うようにくすくすと笑っている。

「同級生になれるといいな」

 紗々芽は笑いかけて、またチラチラと降ってきた雪から逃げるように校舎の昇降口へと向かって行った。

 丸一日かけての試験は、滞りなく終わった。

 努力型の紗々芽は、自分が納得できるまでみっちり勉強して挑んだ。

朝は不安だったけれど、問題が難しくは感じたが勉強したおかげが、手ごたえはまずまずだ。

帰るために昇降口を出て校門へと向かう。

今日は悪路なこともあり、行き同様に帰りも兄が迎えに来てくれる手筈だ。

雪はまだまだ降り積もっていて溶ける気配はなく、上から粉雪が降っている。

灰色の空は雲が重たそうで、もしかしたら明日もこの天気かもしれない。

朝と同じように足元に注意しながらも、速足で歩いていると。

「見つけた!」

 急に後ろから肩を掴まれた。

 驚いて振り向くと、そこには朝にマフラーを上げた美人さん。

「ああ、今朝の」

「これ、返すよ。ありがとう」

 差し出されたのは綺麗に畳まれた、紗々芽の白いマフラーだ。

 それを受け取らずに少女を見れば、鼻が赤くなっている。

 美人さんがちょっとだけ台無しだ。

「いいよ、あげる。これからまた降るだろうし」

「でも」

「あたしは兄貴が迎えに来てくれるから」

 そう言って離れると。

「ちょっ」

 焦ったような声が後ろでしたが、門のところに見覚えのある兄の車を見つけると、紗々芽は気にせず速足でそちらを目指す。

 キシキシと歩く紗々芽の足元から音が鳴った。

「ねえ!」

 大きな声で呼びかけられたことに、門を出ようとしたところで振り向くと。

 少女が大切そうにマフラーを首に巻いた。

「同級生になれるといいね!」

 きょとんと目を丸くしたあと。

「はは、そうだな」

 笑って紗々芽は朝と同じようにひらりと手を振って別れた。


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