31回目 そうして夏の日は終わりを迎える
「ああああああああああ!」
自分の叫び声と同時に目が覚めた。
「きゃっ!」
勢いよく身体を起こしたために、明日香がバランスを崩してベッドに転がる。
「あ、あぁ……」
また今日が始まっても、自分の中に残る感覚は消えてはいなかった。
恐る恐る自分の手を見ても、当たり前だが血なんてついていない。しかし、あの時は確実に自分の手には自分以外の血がついていた。
人を刺した感触が、手に残っていた。
「……伊織?」
絶望に歪んでいく俺に、明日香が心配そうに声をかける。
だが、俺にその声は届かない。
何も視界に入ってこない。
あの時の光景だけが、脳内をぐるぐると回る。
未だに目の前にその光景があるんじゃないかとさえ思った。
そんなことないのに。
そんなわけないのに。
自分がやったことが、脳内を覆いつくして離れない。
俺は何をした?
何をしてしまった?
どうすればいい?
どうしたらいい?
違う。
違うんだ。
俺は――。
「やってしまいましたね」
「っ!」
その声は、真っ赤に、真っ黒に渦巻いた脳内に鋭く突き刺さってきた。
不気味なくらいに俺の耳へと一直線に飛び込んできた。
俺はゆっくりと、恐る恐る、徐にアイの方を見る。
アイはニッコリと、ただただ無表情に、口角を上げて、しかし真っ直ぐな口元で、すべてを見透かし、そして何も見ていないかのように、俺を見つめていた。
「俺は……何も、やってない」
「やりましたよ? 確かにその手で」
自分の手を見る。しかしどこにも血なんてついていない。
「やってない……」
「やりましたよ」
「やってない」
「やりましたって。アナタは人を――」
「やってない!」
俺は両手で頭を抱え、ぐしゃぐしゃに髪の毛を掻きむしる。
「今の俺はやってない! やってないんだ!」
こびりついた映像を壊すように、大声で叫んだ。
「今のアナタとあの時のアナタ、何が違うんです?」
「うるさい! 黙れ! 俺はやってないんだ!」
アイの言葉を拒絶するように、大声で叫んだ。
「ワタシは見てましたよ?」
「っ!」
何度振り払おうとも、決して消えない景色が、俺の心に入り込んでくる。
「伊織? どうしたの!?」
明日香は戸惑っていた。
目の前には頭を抱え、目を見開き、過呼吸になっている人間がいるのだ。
俺の肩を抱いて揺らすが、俺は全く反応を示さない。
何度も「やってない……」と小声でつぶやくばかりだ。
「人殺し、ですね」
「黙れえええええええええええええええ!」
「っ! ……いお、り?」
叫ぶ俺に、明日香は怖がって離れていく。
「事実じゃないですか」
「違う……違う……」
「何が違うんですか。今のアナタも、あの時のアナタも――」
「黙れ!」
俺は立ち上がってアイの首元を掴んだ。
「楽しいか? 俺が叫ぶのを見て楽しいか? 俺が苦しむ姿が面白いか? 俺が絶望する姿を見れて満足か!?」
「そういうわけではありませんよ」
俺がどれだけ力を入れても、どれだけ詰め寄っても、アイは眉一つ動かさず、微動だにしなかった。
「嘘つけ。楽しんでるんだろ? 面白がってるんだろ?」
「言いがかりはやめてください」
「じゃあなぜ止めなかった!?」
「止める理由がありませんから」
「理由が無かったら止めないのか?」
「理由があったら殺していいんですか?」
「っ!」
俺は何も言えなかった。
「私は事実を、実際に起きた出来事を、ありのままに、そのままに言っているだけですよ」
アイの言葉が嘘だという根拠はどこにもない。
もちろん、これがアイの本心だという証拠もどこにもない。
しかし、間違ったことは何一つ言っていない。
それだけは確かだった。
それは今の俺の頭でも理解できた。
だからこそ、俺は俺でいられなかった。
「……もういいだろ?」
アイの首元から手を離し、俺は力なく膝から崩れ落ちた。
「もう十分楽しんだだろ?」
「だから違うと――」
「殺してくれ」
たった一言。
時間にして数秒。
刹那とも永遠とも感じられる、静寂。
「できません」
だが、目の前の存在はそれを受け入れない。
存在してるかどうかもわからない者が、それを否定する。
「殺してくれ……」
しかし、否定を受け入れなければならない理由も、また存在しない。
限界だった。
何度も死んで。
何度も同じ日を繰り返して。
何度違うことを試そうとも。
「諦めるのですか?」
俺に明日は来ない。
「諦めるも何も、何をしたって死ぬんだぞ? やりたいことをやったって死ぬんだぞ? 何度も、何度も死んで。死んで死んで死んで……その先に何がある? ……死ぬだけだ! 自分が満足したと思っても死ぬだけなんだ! これになんの意味がある! 繰り返すことになんの意味があるんだ! 結局死ぬだけなのに、何度も死んで……これじゃまるで地獄じゃないか? これが地獄じゃなかったら何が地獄だ! 情け? 要らねぇよ。そんなもん要らねぇから、俺を、俺を殺して――!」
「伊織!」
明日香が俺を後ろから抱きしめた。
「さっきからどうしちゃったの? 怖い夢でも見たの?」
明日香にはアイが見えていない。故に、ただ俺が一人でしゃべって、叫んでいるだけに見えてしまう。
「大丈夫だよ。私がそばにいるから」
普通の人だったら不思議に思うだろう。
幻覚を見ているのだろうか、と。
気が狂っているのだろうか、と。
どちらにせよ、正常ではないことは確かなのだ。
それでも怖がらず、受け入れてくれるかのように、明日香は俺を優しく抱きしめてくれた。
「あす、か……」
自然と涙がこぼれた。
今まで自分が感じたことのないような温かさを、暖かさを感じた。
「何か嫌なことがあったなら、私に言って? 私は伊織の味方だから。たとえどんなことがあっても、私だけは伊織のそばにいるから」
強く、強く抱きしめてくれた。
「明日香……」
そしてその想いを感じるように、俺は明日香の手を握る。
「死ぬことが、アナタの望むことですか?」
違う。
「殺してほしいと、アナタはそう願うのですか?」
違う。
「では、アナタが心の底から望むことはなんですか?」
それは――。
「どう? 元気出た?」
隣を歩く明日香が、覗き込むように俺を見る。
「あぁ」
よかった、と明日香は笑う。
太陽はもう傾いているが、暑さはまだ収まらない。
それでも、どこか心地良かった。
オレンジの光が、明日香の横顔を綺麗に照らしている。
あの後「気分転換にでも行こっか」という明日香の手を取って、カラオケやら映画やら、言ってしまえば、普通のデートをした。
なんでもない一日を過ごした。
しかし。
たとえありきたりなデートでも。
いつもと変わらない一日でも。
明日香が隣にいてくれるだけで、特別に感じた。
それだけだったのだ。
それだけで良かったのだ。
好きな人と一緒に、同じ時間を過ごす。
それはもう十分特別なことではないだろうか。
そして、そんな人とずっと一緒にいたいと思うことは、何も変なことじゃない。
当たり前でもないけれど、特別でもない。
結局人は、そういうことを望むのだろう。
今日を一緒に過ごし。
明日もまた一緒にいたいと。
そういう当たり前を。
「明日香」
「ん? なに?」
「好きだよ」
明日香は最初、少しびっくりしていたけど、すぐに「私も好きだよ」と、にこっと笑った。
俺はその笑顔を一生忘れないだろう。
一生と言ったって、もうほとんどない。
けど。
ほとんどないからこそ、きっと忘れない。
それでいい。
それがいい。
そして――。
――最後の今日が、終わろうとしていた。
「なぁ」
「なんでしょう?」
夜。
俺は家のベランダに出て、月を眺めていた。
明日香はもう寝ている。
「やりたいことが叶わない場合は、どうなるんだ?」
「それはもう仕方がありません」
アイはただ淡々と言葉を発する。
しかし、俺はもうそれに対して、何を思うことはなかった。
「そもそもワタシは、心の底から望むことが『わかる』まで、として言ってませんから」
「……悪魔だな」
「どう思うかはご自由に」
アイはすました顔で立っているだけだった。
「結局、踊らされていただけか」
「勝手に踊ったのはアナタです」
「ひでーなおい」
人の欲望を、覗き込まれたような感じだ。
いい気はしないが、でもなぜか悪い気分でもなかった。
どこかすっきりしている。
「さて、寝るか」
「もう抗わないのですか?」
「それをお前が言うのか?」
「ワタシは何もアナタに死んでほしいわけではないので」
「はいはい」
何度も死んだ。
何度も何度も死んだ。
死んで死んでの繰り返しだった。
それももちろん辛いなんてもんじゃなかったが、自分の望みがわからないことが、何よりもどかしかった。
それがわかっただけでも、繰り返した意味があったのかもしれない。
こんなことでもない限り、意識することもなかっただろうから。
だからって死にたいわけでもないんだけどな。
「まったく、どうしてこうなった」
でも、もはやそれを考えることに意味はないだろう。
死ぬことに意味なんてない。
生きてる時に何をするか、何を思うかに意味があるのだ。
「おやすみ」
俺は隣で眠る明日香に声をかけた。
聞こえていないだろうけど。
もう会話することもないだろうけど。
それでも最後に、君の横顔を目に焼き付けて。
――――叶わぬ明日を望みながら、俺は静かに目を閉じた。
夢のような、はたまた悪夢のような出来事は、もうすぐ終わりを迎える。
長い、長い一日が、ようやく終わる。
「最後に一つ、願いが叶うなら、何を望みますか?」
「それを今聞くのか?」
「今だからこそ、ですよ」
「イヤなヤツだ」
「それがワタシの、仕事ですから」
「ご苦労さん」
そうだなぁ。
いろいろ考えたけど。
いろいろやってきたけど。
最後に一つだけ願うなら。
最後に一つだけ叶うなら。
一緒にいたい。
最後の最後まで。
俺が死ぬその時まで。
――――――君の夢を見よう。
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