5回目 夏の日は気づいてしまった
7月22日。
俺は妙な圧迫感とかすかな身体の痛み、そして寒気にも似た、暑さとともに出る変な汗の不快感で目を覚ました。
「…………」
目を瞑った明日香の顔がすぐ目の前にあったが、正直その光景は頭に入ってこない。
その顔は、俺が目を覚ますと少しずつ離れていき、そして明日香は目を開けてふふっと笑った。
「おはよ」
「…………」
「伊織?」
「え、あぁ、おはよう」
「どうしたの?」
「いや、ちょっと嫌な夢見てさ」
「どんな?」
「えーっと……」
少し言いづらかったが、あくまでも夢だ。俺は自分が見た夢を明日香に話した。
――自分が死んだ夢を。
「うわー、いやな夢だね」
「気持ちのいい目覚めではないな」
「でも夢なんだし、気にすることないじゃん」
「そうだよな。でも……」
夢にしては、中々リアルだったのだ。
「?」
「いや、なんでもない」
が、それを言っても仕方がないか。
明日香の言う通り、たかが夢だ。気にしたってどうしようもない。
「ほら、早く準備しないと遅刻するぞ」
「伊織ものんびりしていつもぎりぎりになるじゃない」
「あーあー、聞こえなーい」
俺は枕の脇に置いていたスマホを確認した。画面には7時38分と映し出されている。妙に見慣れた数字だな、と思いながらも俺はベッドから降りた。
そのままのんびりとした足取りで窓の方に向かい、目を細くしながらカーテンを開ける。
空に太陽の光を遮るものは何もなく、アスファルトが殺人的な熱を帯びていそうなことは、外に出なくても知っていた。
そして窓一枚の隔たりの中でも聞こえてくるセミの声が、暑さを一層助長している。
一つため息をついて窓から離れ、俺はテレビをつけた。
「……事件の容疑者は、いまだ逃走を続けており……」
しかしテレビをつけたからと言って、しっかり見るわけではない。情報はほとんど右から左だ。いつも少し耳を傾けると言えば、気象予報ぐらいだが、今日は聞く気にはならなかった。どうせ暑いからだ。
俺は冷蔵庫から水を出して飲んだあと、二人分のグラノーラを準備し、牛乳をかける。
「伊織ー、私もー」
「わかってるよ」
顔を整えている明日香は、自分で準備する時間が取れないのだろう。いや、めんどくさいだけか。
朝食を食べたあと、俺たちは一緒に家を出て大学へと向かう。
「あつい……」
「いちいち言わなくてもいいでしょ」
家を出たばかりなのに、もう汗をかきそうだ。
「じゃあ私は先行っとくねー」
「おう」
やっと大学に着いた。
と言っても、歩いて15分程度だが。
明日香はそのまま教室へと向かい、俺はキャンパス内のコンビニに入った。
汗をぬぐい、文明の利器で涼んで、そしていつもと同じ水を買う。
顔なじみとなったレジのおばちゃんと「梅雨が明けたねぇ」なんて他愛もない会話をしてコンビニを出た。
一限の前だというのに人が多いな。
でもたぶん、ほとんどが一、二年生だろうな。
三年生以上になると、一限から来る機会は少ないだろう。
かくいう俺も三年生だが、一限から来るのは週に一度、今日だけだ。
学校に来るのも週に三回だけ。一、二年生の時に単位を稼いだおかげである。
コンビニを出ると、俺は少し遠くを見た。なんとなくだったが、女子学生が鳥のフンに当たるような、そんな気がしたのだ。
「きゃっ」
「…………」
まさか本当に当たるとは。
予想が当たったことに、俺自身も驚いていた。というか奇妙な感覚だった。デジャヴにしては少しおかしい。うまくは言えないが、見たことある気がする、ではなく、今から見る気がする、だったのだ。
フンに当たった女子学生は「さいあく」とつぶやいてその場を離れた。
「……超能力? なわけないか」
俺は不気味さを覚えながらも、それを茶化すように呟いて、一限の教室へと向かった。
「おはよー伊織」
「おう、おはよ」
教室に着くと、いつもと同じ席、明日香の隣に座った。
「伊織くん、おはよう」
「はよっすイオリ」
カバンを置くと、前に座る下渕朱莉ちゃんと、その隣の脇谷祥吾が挨拶してきた。
「おう」
大学にいる時はこの四人でいることが多い。
もちろんすべての授業が同じというわけではないが、同じ学部、学科なので、被る確率は高い。そして大体一番最後に来るのが俺だ。
ちなみに朱莉ちゃんと祥吾には、付き合っていることを隠している。
特別理由があるわけではないが、なんとなく恥ずかしい。それだけだ。
「なぁイオリ、明日ヒマ?」
「……海でも行こうってか?」
「え、なんでわかったん?」
「当たってんのかよ……」
自分でもちょっと引いてしまったよ。今日はよく予想が当たるなぁ。
「伊織くんが来る前に、みんなで海に行こうって話してたんだよね」
「で、イオリは明日いける?」
「明日はバイトないからいけるぜ」
「よし、じゃあ決まりだな!」
「うっみ、うっみ」と祥吾はウキウキしている。海ってのは夏ならではのイベントだ。テンションが上がる気持ちもよくわかる。さすがにそこまで露骨には出さんけど。
「ねぇ伊織」
「ん?」
明日香がこそっと話しかけてきた。
「今日大学が終わったあと空いてる?」
「水着でも買いに行こうよ、って?」
「え? うん、そうだけど、なんでわかったの?」
「……いや、なんとなく」
ここまでくるとさすがに気味が悪い。今朝の夢といい、鳥のフンといい海といい、なぜこうも予想が当たるんだ。まるで自分が知っているみたいじゃないか。
しかし、俺のそんな戸惑いなど露知らず、明日香は「さすが伊織!」とでも言いたげで、どこか嬉しそうだ。
「じゃ、決まりってことで」
「あ、だったら……」
「ん?」
「いや、なんでもない。おっけ」
「なによ~」
「なんでもないって」
俺たちのことを、朱莉ちゃんが肩越しにチラッと見ていたことに、明日香は気づいていなかった。
「伊織くん、どっちがいいと思う?」
「どっちでも、いいんじゃないか?」
「えー、どっちか選んでよぉ」
白色のものと、薄いピンクのビキニを目の前に掲げられ、俺は言葉に詰まった。正直どっちでもいい。明らかにこっちの方が似合う、とかだったら選択は可能だが、どちらも似合うんじゃないか、となってくると選びづらい。ただ、なんとなく、本当になんとなくだが。
「朱莉ならピンクの方が似合うんじゃない?」
俺もピンクを選ぼうと思っていた。
「そうかなぁ。伊織くんはどう思う?」
「……俺もピンクの方がいいと思うよ?」
「そう? じゃあピンクにしよ~」
やれやれ……。
「ごめんね、大学出る時に朱莉に捕まってさ」
「気にすんな。そんな気はしてた」
さっき、朱莉ちゃんたちも来るかもしれない、と伝えようか迷って、結局明日香には言わなかったのだが、案の定朱莉ちゃんたちも来てしまっている。
「一体今日はなんなんだ……」
「何が?」
「いや、なんでもない」
「なぁなぁアスカちゃん、どっちの水着がいいと思う?」
「青」
「俺はアスカちゃんに聞いてんの!」
「どうせお前は青を選ぶ」
「なんでわかるんだよ」
「なんとなくだ」
「はぁ?」
ちょっとヤケだった。
ここまで当たるんだったら、もういっそのこと当てにいってみよう、と。
「私も青の方が似合うと思うよ?」
「そう? 俺はこっちのオレンジの方が好きだったんだけど」
「素直に青にしとけ」
「オレンジも捨てがたいんだよ」
結局「うーん」と一人で悩む祥吾。明日香に聞いた意味は何だったんだよ。
「これじゃ伊織に選んでもらうのは難しいかなぁ」
「…………」
残念そうにする明日香を横目に、俺は一体のマネキンに近づいた。
「伊織?」
「こういうの結構好きかもなぁ……」
俺はマネキンが着ている、濃い水色で下にパレオが巻いてあるビキニを見ながら、さも独り言であるかのように、慣れたセリフを呟いた。
「さぁて、俺はアレにしようかな」
そしてすぐにその場を離れ、男性の水着売り場に向かう。
俺がその場を離れたあと、明日香は少し跳ねるようにマネキンの方へと歩いていった。
「このあとどうする? 軽く飲みにでも行く?」
それぞれの水着や浮き輪などを買い終わり、時刻は17時を過ぎたころ。夏と言っても少し日が傾き、オレンジが混ざった空になっている。
「いいね! 行こうよ!」
祥吾の提案に朱莉ちゃんは間髪を入れずに乗ってくる。
「わるい、俺今からバイトだわ」
「えー」
しかし俺が来ないとなった瞬間に、明らかにテンションが下がる朱莉ちゃん。露骨すぎませんかねぇ。あとなんか見たことあるぞその顔。
「まじかぁ、しゃーないな。アスカちゃんはどうする?」
私は……、と明日香は俺の方をチラッと見た。好きにしなさいな。っていうかどうせ行くんだろ。
「……行こっかな」
ほれみろ。まぁどうせ家に帰っても、俺がバイトでいないのならば、暇だろうしな。時間潰しには丁度いいんじゃないか?。
「じゃあ三人でいくか。イオリもまた行こうぜ!」
「おう」
軽く手を振って、俺はその場を後にした。
しかし、少し進んだところで足を止める。
「伊織?」
俺の様子を不思議に思った明日香が声をかけてきた。
そして俺は徐に振り返る。
「イオリ?」
「伊織くん?」
三人は少し訝しげに俺を見る。そんな顔で見られても困るんだが。
「……いや、なんでもない。ただのデジャヴだわ」
「なんだよ。急に頭でもいかれたのかと思ったぜ」
「言い過ぎだろ」
「デジャヴって何?」
「あれ、なんかこれ前にも見たな? って感じのことだよ」
デジャヴがわからない朱莉ちゃんに教えてあげる明日香。しかし、朱莉ちゃんはなぜか少し文句ありげな顔をしていた。その顔もなんか見たことある。
「じゃあバイト行くわ」
「おう」
「伊織くんがんばれ~」
俺はまた軽く手を振って歩き出した。
「…………」
おかしい。
さすがに今日一日で予想が当たりすぎている。
ただ、それがなぜなのかなんてわかるはずもなく、気持ちの悪いしこりを抱えながら、俺はバイトへと向かった。
「お疲れ様でーす」
時刻は22時過ぎ。
俺はバイト先の塾を出た。
当然の如く空は暗く、夜だと言うのに蒸し暑い。
暗い帰路につきながら、俺はポケットからスマホを取り出す。通知を確認してみると、明日香から連絡が来ていた。
「お酒買ってきて? なんかあったのか?」
飲みに行ったはずなのに、まだお酒が飲みたいというのは、少し疑問が残る。明日香は特別お酒に弱いわけでもないが、そこまで飲む方でもない。
何があったか少し気にはなるが、帰って聞けば済むことだ。とりあえず了解と返信しておこう。もとより、俺はまだご飯を食べていない。コンビニには寄る予定だったから丁度いい。
中に入ると、同い年ぐらいだろうか? アルバイトであろう男性がやる気なさげにいらっしゃいませと言ってきた。入店音が鳴ったので言った、言わば条件反射のようなものだろう。
ただ、なぜかその様子が少し引っかかった。まぁだからと言って、特別アクションを起こすわけではないけどな。
でも、さっきのバイト前と同じように、頭の片隅に張り付いてきた。だからと言ってどうすることもできない。デジャヴなんて大体思い出せないものだ。
お酒のコーナーに行き、明日香の好きなチューハイを数本、籠に入れる。
「俺も気分転換に飲むか」
自分用にビール一本とチューハイを籠に入れ、軽くおつまみと弁当も入れてレジに向かう。
先ほどの店員が、可もなく不可もなく、元気でもないし元気がないわけでもない、なんとも平坦に言葉を紡ぎ、聞き覚えのある声で会計をする。
少し大きめのレジ袋を携え、俺は店を出た。
あっつい。外と店内との気温差で、身体が今にもバテてしまいそうだ。
コンビニに寄ったと言っても、帰路がそこまで変わるわけじゃない。むしろコンビニに寄ることがほとんどだ。
歩き慣れた道である。
しかし、今日はその歩き慣れた道が不気味に見えた。
今日の出来事を踏まえ、一度足を止める。
この先で起きそうなことに心当たりがあった。
それは今日の夢。
妙にリアルな夢。
自分が死んだその夢は、この先の横断歩道でトラックに轢かれていた。
「まさか、な?」
本当に轢かれるとは思いたくないが、今日を振り返ると可能性がゼロではない。というかむしろ高い。
「違う道にするか……」
そして違う道にして少し経ったころ、最初に行こうとしていた道の横断歩道の方向から、クラクションが聞こえてきた。
「…………」
考えたくはないが、もし本当に夢の通りならば、自分は死んでいたのではないだろうか。
俺は身体中から脂汗が出ているのがわかった。
気持ち悪い汗。
気持ち悪い記憶。
でも。
「もう、大丈夫だろ」
もし夢の通りだったとするならば、死は回避しているはずだ。
「そうだ、そうだよ……」
速くなる鼓動を落ち着かせようと、俺は自分に言い聞かせる。大丈夫だ、と。
今歩いている道だって、大通りを外れた決して広くはない道だ。
こんなところにトラックなんて来ない。
「大丈夫、大丈夫……」
そして十字路に差し掛かった瞬間だった。
ドン!
横からの強い衝撃が身体を打った。
俺は自分の身体が浮いているのがわかった。
激痛なはずなのに。
確かに痛みは感じているはずなのに。
意識が遠のいていっているはずなのに。
視界は真っ暗になっていくのに。
自分を轢いたバイクだけは。
その目に鮮明に映った。
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