7回目 虚数は存在するのか

 最悪な目覚めだった。

 起きた瞬間に自分のお腹を確認しようとした。

 しかし、自分の手はお腹に届かなかった。

 上には明日香が乗っていたからだ。

 生気を失った顔で自分の身体に触れてきた俺に対し、明日香は訝しげな顔をする。

 「大丈夫?」と明日香は聞いてきたが、俺は反応しなかった。

 明日香は体を起こし、俺の肩を揺らした。

「え?」

 ようやく俺は反応を示すことができたが、何が何だかわからなかった。

 明日香の姿を確認したが、見ただけで脳には何の情報も行かず、俺はただ右手でお腹をさするばかりだった。しかし誰がどう見ても、俺のお腹に刺し傷はないし、出血もない。

「お腹痛いの?」

 言葉は耳に入ってきていた。

 しかし、声もまた脳には届いてこない。

「……今日、何日?」

 明日香とは目が合わず、俺は天井を見つめたままだった。

「え? っと、22日だけど……」

 自分の目が大きく開いていくのを感じた。

 そして急に身体を起こす。

 明日香は驚いて少し後ろにバランスを崩したが、見向きもせずに俺は自分のスマホを確認した。その画面にも、7月22日と映し出されている。

「っ!」

 俺はスマホを投げ捨て、急いでベッドから降りてテレビをつけた。

 テレビには朝のニュースが流れているが、どのチャンネルもしっかりと7月22日と表示されている。

「…………また?」

「また?」

 明日香はその言葉の意味が分からなかった。

 いや、普通はわかるはずもない。

 普通はそんな言葉は出てこない。

 ――同じ日を繰り返すことなんてないのだから。


「ようやくお気づきになられましたか?」


 突然の聞きなれない声に、俺は慌てて振り返る。

「っ!? だ、誰だ!?」

 声の主はフッと笑う。

「ワタシの声も聞こえてるみたいですね」

 声の主は、男性とも女性とも区別のつかない声で、肩に届くぐらいの真っ白な髪をしていて顔は中性的。170前後の細見な身体には黒の燕尾服のようなものを身に纏っており、手には白い手袋をつけている。

「はぁ? 誰だお前? どうやって入った?」

 心拍数の上昇とともに、呼吸が激しくなる。

「落ち着いてください。ワタシはアナタに危害は加えません」

 なだめるように、胸の前で両の掌を俺に向ける。

「…………それを信じろと?」

 呑み込めない状況が続く中で、俺はなんとか頭を回転させる。身体中から変な汗が吹き出してきて止まらない。

「伊織?」

 そんな俺を、明日香は怪訝な目で見ていた。

「さっきから、一人でどうしたの?」

「……は?」

 明日香は俺と俺の視線の先を交互に見ていたが、その顔は訝しげだった。

「いや、何言って……」

「ワタシはアナタ以外には見えませんよ」

「…………」

 処理が追い付かない。

 なんだ?

 何が起こってるんだ?

「……夢か? 夢なのか? 夢だよな?」

 俺は状況に耐えきれず、思考を放棄した。

 確かに夢ならば説明はつく。

 そうだ夢だ。

 夢だよ。

「いいや。現実ですよ。アナタは今日を繰り返します――」


「――アナタが心の底から望むことがわかるまで、ね」


 そう言うと、人影はスッと消えていった。

 意味がわからない。

 なんだったんだ。

 アイツは一体誰なんだ。

 何が起きていたんだ――。

 俺は崩れ落ちるようにベッドの脇に座った。

 頭をかかえ、自分の身に起きたことを整理する。

 繰り返す――。

 今日――。

 ――夢?

 ――現実?

「……だい、じょうぶ?」

 普通ではない俺を見て、明日香も恐る恐るという感じに声をかけてくる。

「…………明日香は、アイツが見えなかったんだよな?」

「あいつ、って?」

「……いや、なんでもない」

 明日香が嘘をついているとは思えない。ならばアイツが言っていた通り、アイツは俺にしか見えていないようだ。

「ねぇ、どうしたの?」

 今の自分の身に起きていたことを、明日香に説明しようかとも思ったが、そんな気は起きなかった。

 どうせ信じない。自分自身だってまだ信じていないんだ。これが現実だという確証もなければ、今が夢じゃないという保証もない。

 それに、明日香を心配させたくない。今変なことをしゃべって、明日香に気を遣わせてしまうのは違う。それは嫌だ。

「……大丈夫だ。学校行こうぜ」

 なにより確かめなければならない。

 本当にまた繰り返しているのか。

 今日が何事もなく終わればそれでいいのだ。

 そうであってくれ――。


「じゃあ明日海に行こうぜ!」

 何度目の提案だろう。

 その誘いは聞き飽きた。

 俺からすれば毎日聞かされているようなものだ。

 しかし、一向にその明日は来ない。

「このあと水着買いに行こうよ」

 何度同じ水着を選べばいいのだろう。

 もう言わなくてもわかってくれと思ってしまう。

「どっちの水着がいいかな?」

 何度も聞かないでくれ。

 買う方は決まっているのに。

 答えるだけ無駄な気がしてしまう。

「飲みにでも行こうぜ」


 ――もううんざりだ。


「悪い。俺は帰るわ」

「えー、なんだよイオリ。バイト?」

「あぁ……うん」

「伊織くん……大丈夫? 顔色悪いよ?」

「そうか? 大丈夫大丈夫」

 もう嫌だ。

 結局同じことの繰り返し。

 このままいけば、おそらく死ぬだけ。

 誰がそんなこと受け入れられるだろう。

 違うことをしなければ――。


 俺はみんなと別れたあと、バイト先に連絡を入れた。今日は休みます、と。

 とりあえず家に帰ろう。

 記憶に残っている死に方は、全部外で起こっている。

 家にいれば、助かるはずだ。

 そういう思いが、俺の身体を動かした。

 死にたくない、と。

 逸るその気持ちが。

 また同じことを繰り返す引き金となるのだ。

「くそっ……!」

 走ったことがいけなかったのか。

 周りは確認していた。

 視界が開けたところを進んでいた。

 どうやら信号が青だということは、なんの安心材料にもならないようだ。

 広い道だから助かるわけではないようだ。

 行動が変われば、結果も変わる。

 しかしそれは、死に方が少し変わるだけ。

 その結果までは変えられない。

 死ぬことは決まっているらしい。

 猛スピードで突っ込んでくる乗用車が、俺の身体を捕まえる。

 意識は空に溶け、時を遡っていった。

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