第19話 ラブコメディ

「あ――」


 医務室を出た先の廊下で、真田龍子さなだ りょうこが待っていた。


 部屋にいたときは確認できなかったけれど、ボトムは七分丈のスパッツという、男性の情念を刺激するかっこうをしている。


 黒地の両側に入った細い白ラインは、内側にクイッと曲がっている。


 内股になっているからだ。


 彼女はパーカーの着つけを手でいじったり、両脚を揺らしたりして、せわしなくもじもじしている。


 ユリ。


 ウツロはその姿に、可憐に咲きほこる純白のユリを想起したのだった。


 ならばさしずめ、あの星川雅ほしかわ みやびは、血に飢えた真っ赤なバラか……


 暖色の白壁にスポーティな少女の姿が映えて、ウツロの鼓動は不規則になる。


 視線が合うことによって胸が締めつけられ、落ち着きがなくなる。


 心臓が沸騰しそうだ……


 その正体がいったい何であるのか、無垢な少年はまた考えてしまった。


「ウツロくん、いいね。似合ってるよ、その服」


「え? そ、そうかな」


 評価されたことにどぎまぎして、ウツロもつられてパーカーの気つけをいじった。


 ちゃんと着こなせているのかが心配だ。


 人の目が気になることなど、これがはじめてかもしれない。


 彼女の目に、いまの自分がどう映っているのかが、思考回路を占有してしまう。


 こんな感じで二人がお互いに見つめ合っているものだから、南柾樹みなみ まさきは昭和のラブコメディでも見せつけられているようで、いい加減うんざりしてきた。


「動けるなら放すぜ」


「わっ」


 突然支えがなくなって、ウツロはよろめいた。


「あっ、ウツロくん!」


 倒れるのではないかと焦った真田龍子が、反射的に体を受け止める。


「あ――」


 今度は文字どおり、目と鼻の先で視線が合い、両者の鼓動は急激に加速した。


 目を反らすことができない。


 体が吹き飛びそうだ。


 時が凍りついたように、二人は見つめ合った。


 そしてこの瞬間が永遠に続けばいいのにという願いを、それぞれの心で共有した。


 南柾樹は辟易へきえきしている。


 まるで場違いじゃねえか。


 ピエロもいいとこだ。


 世界から置き去りにされたような状況が、彼に虚無感をあおってやまなかった。


 ここは黙って消えるのが人情。


 南柾樹はその場を去ることにした。


「柾樹?」


「今日は俺、飯の当番だから。昼の支度しなきゃなー」


 呼び止めた真田龍子に会話の帳尻を合わせる、と――


「いっ――!?」


「ごゆっくり」


 ふり返りざまにウツロの背中をポンと叩いた。


 意趣返しという名の置き土産。


 南柾樹は翻したその手をズボンのポケットに突っ込むと、廊下に敷かれた赤いカーペットの上を、とぼとぼと歩いていった。


 タンクトップからのぞく肩甲骨けんこうこつは、いかにも切ない。


 ウツロはポカンと、老木のような背中を見送った。


「妙な男だ……ねえ、真田さん?」


「えっ? ああ、そうだね……ええと、何だっけ……?」


「……?」


「ああ、そうだ。ウツロくん、このアパートの中を案内するね」


「あ、そうか。そうだね、よろしくお願いします」


「か、肩、貸すよ。まだひとりで歩くのは、た、たいへんでしょ?」


「いや、この程度。隠れ里での鍛錬に比べれば、なんてことはないよ。気をつかってくれてありがとう、真田さん」


「え、そう? すごいね。じゃあ、ゆっくりで大丈夫だから、順番に行ってみよう」


「真田さん?」


「え?」


「顔が赤いよ?」


「えっ――!?」


 ウツロの手が伸びてくる。


 華奢きゃしゃに見えるのに力強いその手が、しなやかな動きをもって。


 意外に大胆なんだな、この子……


「ひゃっ」


 手が額に触れる。


 ひんやりした感触に、思わず奇声を上げてしまった。


「熱はないみたいだね。風邪を引いているのかと心配したよ」


「……ああ、どうも……」


 ウツロは真田龍子に特別な感情を持ってはいたけれど、それが何なのかは自分でもまだわかっていない。


 いっぽう真田龍子は、ウツロの鉛のごとき鈍さについて打ちのめされた。


 やはり認識の不一致とは、おそろしいものである。


 真田龍子はやきもきする気持ちを抑えながら、ウツロをアパートの中心へといざなった。


(『第20話 世界について』へ続く)

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