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 海に行きたいと思ってから、もう四日も経った。僕はどうして生きているのだろうか。


 狭い畳の部屋に、食べ残して腐った肉と、僕と、捨て損ねたごみがある。前の住人が置いて行って、でも映らないテレビ(要するに、ごみ)がつやっと反射する。夏日。セミが鳴いているのか、僕が鳴いているのかよくわからない環境騒音。狭い畳の部屋に、早く捨てたいごみと、早く捨てたいごみと、早く捨てたいごみがある。ごみしかない部屋で、ごみの僕が横たわっているとは滑稽だ。ちなみに、なぜこの一等デカい人型のごみが横たわっているのかと言うと、暑くて死にそうだからで違いない。この家にはクーラーがない。前の家でも使っていた歴戦の扇風機は、昨日壊れてしまった。俗に言う過労死である。家電的には、名誉ある殉職かもしれない。


「麦原さん、きたよー。」


 ゴンゴンとドアを殴る音。鳩くんだ。くぐもった声と、足をばたつかせている音も聞こえるので、もう、十中八九鳩くんだ。彼は出迎えを待つときに、足をパタパタ踏み鳴らす癖がある。僕は「開いてるよ!」と声を張った。

 鳩くんと言うのは年下の男の子で、都会から越してきた僕を迫害するこの片田舎で、唯一優しくしてくれる青年だった。近所の文具屋? で働いていて、犬と子供が大好き。そして何より、感覚が田舎だった。ガタガタとドアが開く。建付けが悪いのがこの家の個性だ。


「鳩くん……。マジでインターホンを知らないね、君は。」

「ないよーそんなもん。田舎っすよ、ここ。」

「僕はクラブチッタの横に住んでた男だぞ……。」


 外界の風を連れてそそくさと上がり込んできた鳩くんは、麦わら帽子を被って、ビニール袋を持っていた。たぶんこれは、近所の酒屋の袋だ。僕もたまに使う店だが、あそこの店主は僕を死ぬほど嫌っているので、入店した瞬間に死ぬほど咳をされる。そして、咳交じりに、死ぬほど暴言を吐かれる。別に死ねばいいと思うのだが、生憎僕以外には普通らしいので、殺すわけにもいかないのが現状だった。


「どこそれ。あ、これアイス。食います?」


 僕が酒屋の死にぞこないを思い出している間に、鳩くんは袋からアイスとたばこを取り出していた。食います? に、僕は答える。


「食わない。」

「なんで? 暑そうなのに。じゃあ俺が食う。」

「なんでさ、なんで? って聞いたの。僕がなんて答えるかは聞かないの。」

「なんて答えんの。」


 アイスの封を切りながら、鳩くんは僕の真横に尻をつけた。顔の真横に。彼のこう言う距離感は、どことなく苦手だ。寝返りを打って顔を背けるが、鳩くんは無反応だった。僕がどこに存在していようが、特に構わないと言わんばかりのこの雰囲気。鳩くんっぽくて、なんか田舎臭くて、嫌だ。


「御覧の通り、食欲がない、と……。」

「オッケー。じゃあ俺が食う。」

「クソー!」


 鳩くんの馬鹿野郎! 僕が畳を蹴る音と同時に、鳩くんの笑い声が弾けた。真上から、爽やかで大きな声が降ってくる。被ったままの麦わら帽子が作る影。向日葵を背負っているみたいだ。真夏のような彼を見て、なんだか急に恥ずかしい気持ちになった。理由はわからない。僕は誤魔化したくて、余計に口を開く。


「まあでも、食料には困ってないから……。」

「ほんと、すごい量っすね。こんな取れんだ。」

「取れるって言うか、うん、まあ。」


 鳩くんのアイスはありふれたソーダアイスだった。二つに割れるタイプのやつだ。


「くれんの。」

「はぁ? 食わないんでしょ。」

「だってそれ、割るやつ……。」

「これを一人で食うのがさ、贅沢なのよ。」


 そう言いつつ、鳩くんはアイスを割ってくれているようだった。きゅっ、ぱきんと、いかにも涼しげな音が床に落ちる。僕はもう一度寝返りを打って、鳩くんに向き直る。汚い畳と汗ばむ背中に挟まれたシャツが、くしゃくしゃになる感じがする。鳩くんの下半身は思ったより近くにあって、鼻先がズボンの生地にあたってしまった。


「うわ。」

「なんすか。」

「いや、近いな、尻が。」

「それはさあ、麦原さんが悪くない?」

「なにが。」


 両手に細いアイスをもって、鳩くんは僕を見下ろしている。麦わら帽子のまあるい影が、およそ向日葵が、僕の真上に咲いている。僕は太陽じゃないぞ、あっち向け。


「あ、ヤバイ、アイス溶ける。口。」

「口?」

「開けて。」

「えー。」


 僕がえーと言った分の口の隙間に、鳩くんは容赦なくアイスを突っ込んだ。ほぼ開いてないくらいの細い空間に、筒状のソーダアイスがぶっ刺さる。冷たくて、あまり味がしない。


「寝ながら食うと喉刺さりますよ。棒が。」


 彼がそう言うので、僕は起き上がる。一理あるなと思ったのだ。起き上がるついでに、鳩くんの頭上で咲く向日葵をもぎ取った。


「ありがとー。」


 鳩くんはのんきだった。僕はいいえ、と言って、アイスの先端を噛み砕いた。


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