第8話 中二病
「
そう大きな声で名前を呼ばれ、目を開ける。そうだ、今は日本史の授業中だった。
私は返事もせず、先生を見た。
「なんだその目は! 今当てたところを答えろっ!」
そんなに怒鳴る必要があるのだろうか。私以外にも授業を聴いていない人なんてたくさんいるのに。周りを見渡しても、寝ている人も何人かいる。
仕方ない、とすっと目線を降ろし、教科書に目をやる。
しかし答えろと言われても聞いていなかったのだからどうしようもない。時間的にそこまで進んでいないだろうから、今開いているページなのだろうが、数学のようにわかりやすく問があるわけでもないので、何をどんな風に当てられたかさえわからない。
「……」
沈黙。それしか持ち合わせていなかった。
「素直に聞いていませんでしたと言えばいい!」
言ったら言ったで、怒鳴ったくせに。
そのまま何も言わずに黙っていると、それが気に食わなかったのだろう。教壇に立つ白いスーツで眼鏡の教師は続けた。名前は……覚えてない。眼鏡でいい。
「ふんっいいご身分だな。主席入学か何か知らんが、こんな授業聴く必要がないってことか? お前は自分が高みにでもいるつもりか?」
たかが居眠りでそこまで言われることなのだろうか。
いや、まあいい。慣れている。いつもこうだ。所詮人は皆こうなのだ。何かを罵り見下すことでしか優越感を得られない。所詮それを口に出すか出さないかである。汚い。醜い。
しかし私はそれを受け入れなければならない。そう言われても仕方の無い人間だから。
そんな人間すら綺麗と思えるほどの、汚さ。醜さ。
眼鏡はさらに続ける。どうやら今までのいろいろの不満を徹底的に私にぶつけるつもりらしい。それはもはやいち眼鏡――もとい、いち教師が生徒に行う行為ではなかったが、私ならいいと思ったのだろう。私もそう思う。
その罵倒は途中途中で日本語がおかしかったが、気持ちが高ぶって空回りしているのだろう。次第に聞き慣れてきて、耳にすら入らなくなった。
「――ふん。所詮、蛙の子は蛙か」
しかし、眼鏡教師のそんな言葉に意識を引き戻される。
蛙の子は蛙――何も、言い返せない。それが正しいから。何度も聞いてきた言葉。別に今更何も感じはしない。そう。鳶は鷹を生みはしない。蛙の子は蛙で、鳶の子は鳶。腐っても鯛。なら私は新鮮でも汚染魚ってとこかな。上手くはないけれど。ていうか語呂が悪すぎる。それじゃあ、蛙や魚に失礼だ。
私はそれよりも、もっと汚い。醜い。
「先生。それはハラスメントですよね?」
と、不意に眼鏡ではない第三者の声が聞こえた。顔を少し上げて、声のした方を見る。
それは教室の中心に座っている背の高い黒い髪をした男子生徒の声。確か今朝堤防でも見かけた男子だ。名前は、えーっと――
「なんだと、蒼海?」
蒼海? そんな名前だったっけ。なんて思っていると、彼の前に座る男子生徒が体をびくりとさせ、おどおどと周囲を見始めた。小さい声で「俺?」と確認している。確か蒼海というのはその彼のことだったはず。
だったらあの仏頂面の大きな彼は……そう。そうだ思い出した。皇子代黎だ。仰々しい名前だな、と思ったことがある。人のことは言えないけれど。彼はいつも数人の友達と賑やかに楽しそうに過ごしている。
本当に、楽しそうに。
あれが普通の高校生活と言うものだろうか。私には到底理解できない感覚だ。そんな状況を少しは羨ましくも思ったりしていたが、うるさい人たちだなあ、それが主な印象。
しかし、何故?
なじられている私を見かねて助けようとしたつもりだろうか。そんな事に何の意味もないのに。私は何とも思っていないし、向こうだってそれで気分が良くなるのだから、この状況に反発する理由など何も無いではないか。
むしろただの迷惑だ。状況を悪化させないで欲しい。これは私の背負うべき罰。これを私は受け入れなければいけないのだ。それが贖罪。だから、邪魔をしないで。それにそんなことをしても教師からの印象が悪くなるだけ。下手をしたら罰則でも喰らう。
……ううん、違うか。これが人だ。偽善者だ。
ただ正義の味方を気取りたいのだろう。人とはそういうものだ。どうせすぐ諦める。
偽善。同情。下心。
私も両親が死んでからいろいろ辛い目にあったが、彼のように私の味方をしようとしてくれた人も何人かいた。
――しようとしてくれた人、は。
その全てが私のことを純粋に救おうとしたのではない。
ある人は偽善で私を救い、自己満足に浸るだけ浸って去っていった。
ある人は同情から私を助け、すぐにその立場の重さを知ると去っていった。
ある人は下心から私を護り、私に気持ちがないことを知ると去っていった。
そう。これが人なのである。何も責めるつもりなんて無い。むしろそれこそが純粋な気持ち、なのかもしれない。私の考えは少し理想的すぎるのかも。人が純粋という言葉を作り出したのだから、その言葉はあくまで人という能力の範囲内でのものだと考えなければいけないのだろう。私の想像する純粋と一般的に定義される純粋は次元が違うのだ。私の想像する純粋は、人としては何も無いに等しい。まさに純心無垢。しかしそんな人間がいるはずがない。だから人がその人としての醜い部分を見せないように見せないようにして、欲望を満たそうとする。その方が純粋で、自然なのかもしれない。人が作り出した言葉に人という枠組みを超越することなどできはしないの だから。
まあ所詮、言葉遊びだけれど。
何にせよ、そんな人間の醜さがどうしようもない事だと、そう理解したから私は今こうして生きていけている。だからこそ全ての関係を絶つ決心がついたのだ。おかげで一人でいることが苦しくはない。蔑まれることが、辛くはない。
「もう一度言ってみろ。
眼鏡の教師はもう一度そう彼を促した。どうやらあの教師は彼を蒼海くんと間違えているらしい。だとして、皇子代黎はなぜそれを否定しないのだろうか。むしろそうやって教師をもてあそんでいるのだろうか。
「それは、こんな場所で、しかも教師が、生徒に向かって言うようなことじゃあないって言っているんですよ」
彼はわかりやすいように言葉を切りながらそう言った。
そこにはあからさまな、威圧が込められている。
「いや、わかってるか。あなたはわかってて言ってる。今、このタイミングで、相手が彼女なら、少しくらい言い過ぎても誰も問題にはしない。そう踏んだ上であなたは彼女に暴言を吐いた」
教室の空気が凍りつくのがわかった。何人かの生徒が、余計なことを、と彼を睨んでいるのが見える。今日日の反抗的な若者にしても少し性質が悪い。いや、かなり悪い。
これがかっこいいとでも思っているのだろうか。
ダサい。
「本気で、言っているのか? だとしたら、口の利き方に気をつけるんだな」
教師の方は、あくまで自分は大人で、相手は子供、大人らしく対応しようと、あふれ出そうになる怒りを抑えつけているようだ。今にも爆発しそうだが。
「先生に口の利き方を教わるとは夢にも思いませんでした。自虐ですか?」
馬鹿だ。そんなことをしてなんになるというのだ。私は感謝などしない。周囲も彼を讃えはしないだろう。全くもって理解のできない行動だ。教師に刃向うことをカッコいいと思うのは、中学生までにしてほしい。
しかし彼は――皇子代黎は引くに引けなくなったという感じには見えない。明らかに自分の意思で、敵を攻撃している。その仏頂面で教師を睨みつけている。
「ふん。そういう馬鹿な発言をしているから、今時の若者は駄目だ駄目だと言われるんだ。私も教師以前に、一人の大人として、日本の将来を案じ得ないな」
子供相手に反撃しようと、教師は平然を装って言う。その時点で負けではないだろうか。
「大丈夫ですよ。先生が心配しなくたって未来は僕たちが守りますから。どうぞどうぞ、安心して死んでください」
「ちっ……それくらいにしておけ。それ以上は許さんぞ」
ピクリ、と教師のこめかみが動く。ハッキリと、聞こえるように舌打ちをした。
しかしそれでも彼は、皇子代黎は引くつもりはないらしい。
「じゃああなたのさっきの言動は許されるんですか? 自分に甘くて他人に厳しい。駄目な指導者の典型じゃないですか。そんな人間が教師? あなたは教える側じゃない。教わる側の人間でしょう」
「いい加減に、しろよ」
教師の息遣いが荒く一番後ろの私の席まで聞こえてくる。ギリギリと歯軋りをし、必死に怒りを押し留めようとしているのだろう。子供相手にそれではもう負けている。
しかしそんなことも気に留めず、彼は暴言を続ける。トドメを刺すかのように。
「人のせいにする前にまずは自分の授業を生徒が聞きたくなるように努力したらどうですか。はっきり言って先生の授業はつまらないですよ。僕だって今日のこの授業、これっぽっちも記憶に残ってません」
それは偉そうに言うことじゃない。
しかし、それでずっと耐え続けていた教師の怒りが限界を超えた。教卓に教科書をガン、と叩き付ける音が響く。
「貴様ッ! お前は自分が今誰に向かって言っているかわかっているのかッ!」
叫んだ。力いっぱい。おそらく廊下を伝って近くの教室にまで響き渡っただろう。
私はすぐに皇子代黎を見た。こちらからは横顔しか見えないが、彼はその叫びに動じる様子も全くなく、怒り狂う教師から視線を外さなかった。
ただ、睨みつける。
そして少し間があって、彼はおもむろに口を開いた。
「いいから、さっさと謝れよ」
皇子代黎は静かにそう言った。
しかしそれは教師の怒号に萎縮してしまったという感じではない。こんな状況にも関わらず、恐ろしいほど静かな、そして落ち着いた声だった。
ただ、背筋が震えた。
彼の表情すら見えないというのに、本能的に私は彼を恐れた。
この状況で、あんな冷たい声を出せる人間を私は見たことがない。相手は教師、つまり大人で、こちらはたった十六歳の子供だと言うのに、今の状況はまるで正反対に、子供がダダをこねる大人を叱っているかのような、そんな感じがした。彼の普段の賑やかな振る舞いからは決して想像できない。
そんなオーラに気圧されたのだろうか、教師は少し引いたように見えたが、それでも大人のプライドだろう、自分を鼓舞するように再び机を叩き、皇子代黎を指さして何かを言おうとした――が、できなかった。
「先生」
その言葉に遮られたからだ。それは教師でも皇子代黎でもない、また別の人間の声。
その声をかけた女生徒は、皇子代黎の隣の席で前のめりに座りつつ、スマホのカメラを教師に向けていた。
「なんだ君は」
「本日より転校してまいりました虹倉です!」
「それは知っている。どうしてカメラを撮っている。授業中に携帯は禁止だ! 没収する!」
「携帯って古っ。スマホですよスマホ」
「どちらでも同じだ」
「でもいいんですかー? これ録画しててクラウドに保存されるんで、没収されたところで動画は確保してるんですけど」
「だからなんだ」
「動画アップするの楽しみだなー。『痛い白スー教師、か弱き女生徒をいじめ返り討ちに逢う!』バズりそうな予感~」
「なっ……そんなことしていいわけないだろう! 没収だ!」
「あ、私に触ったらセクハラで訴えますんで」
スマホを奪おうとした教師の手が直前で止まる。教師はその面倒さを理解しているのか、逡巡したあとその手を引っ込めた。そして大きくわざとらしく舌打ちをした後、
「くだらん。子供の相手は時間の無駄だ。授業を再開する」
大人としての挟持を取り戻した教師が眼鏡をかけ直しながらそう言って、授業が再開される。どうしようもないくらいまで燃え上がった火が、まるで何もなかったのように一瞬で鎮火された。
消したのは快活な少女。
燃えたのは愚かな眼鏡教師。
燃やしたのは偽善者の少年。
そして火種は――私。
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