第五話


 次の日、起きたら父親は居なかった。だが外からの情報で、どうやら別館の駐車場に腰掛けて、ちょうど油断した我々が家から出入すれば見つけられるほどの距離で偵察をしているらしかった。それから二日間引きこもって、由愛が一つ問題を出した。

「食料どうするんお母さん」

「今はまだ大丈夫やけど、インスタント系が切れたらやばいな」

 僕が買ってきましょかと勘太郎が言って、でも危なくないと由愛が言うと、お父さん僕のこと知りませんから大丈夫でしょと健気に言った。

 せやけどこの金色鶏冠見たらお父さん息子らの連れけ、言うて走ってきそうやけどなと私が言った。皆が軽く笑って、勘太郎は帽子を子供部屋からとってきて、これやったらモヒカンも目立ちませんと言った。

 それから勘太郎のおかげもあって、食料問題は解決した。だがまた四日経って一週間以上が過ぎ、いよいよ家に引き籠り続けるのが苦になってきた。普段から家にいる事の多い私は全然余裕かと思っていたが、いざ外出禁止という環境になってしまってからは、酷く外の世界が恋しくなった。リビングのカーテンも締め切ったままであった。偶に由愛が隙間から覗いて、父親がいるか観察していたら玲夢ちゃんも楽しそうに下からのカーテンを除いて、それを見た母親が怒る時もあった。

 翼からも私の所に電話があった。今は何人かの家やネットカフェを転々としているらしかった。仕事もちゃんと行っているので、最悪お金には困らないと言っていた。とにかく家のことは頼むと言って、また何かあったらすぐに連絡をくれと電話を切った。

 いつの間にか佑介兄ちゃんは、夜職をクビになっていた。当たり前のことだが、先が見えないまま休み続けることは、些か不可能で、ましてや病気の類でもない。佑介兄ちゃんは一度だけ外に出て、折よく逃げ延びることが出来れば、暫く家には帰って来れないかもしれないけれど、何とか仕事にさえ行けば、お金も入ってくるのでそうしようとしたが、母親に止められた。

 見つかったら佑介が何されるか分かったもんじゃない。まずこの家を開けるように佑介に暴力振るうにきまってる。私がそんなの見せられたら家の鍵を開けるしかないから、どうか今だけは我慢して欲しい。職のことは本当に申し訳ないけれど、玲夢ちゃんも由愛もいるからどうか。と言って佑介兄ちゃんも渋々とこれを承諾した。

「佑介兄ちゃん大丈夫なん?」

「大丈夫。大丈夫。三ノ宮でよくしてもらってる先輩がおるから、またその人に職回してもらうわ。別にとんずらしたわけでもちゃうしな」

「それもそうか」

「ミー君も夜来るか?」

「いやええわ」

「はよ働け」

「佑介兄ちゃんも一緒やろ?」

「喧しい。あ、よっしゃ。なあミー君これ見て、これ、やばない?」

 佑介兄ちゃんは話題を変えるように、私と一緒にやっているアプリゲームの凄さを自慢してきた。私は前々から佑介兄ちゃんの何かをさり気なく隠そうとするこの仕草が嫌いではなかった。


 ふと、目を覚ました。まだ昼の三時過ぎで、和室には私と玲夢ちゃんだけが寝ていた。リビングからの声もなかった。ちらと玲夢ちゃんの方を見て、いつものように指吸いをして安らかに眠っていた。私も同じように指吸いをしてみようと思い、親指を口に銜えようとして身体がそれをやめさせた。だから諦めて天井を暫く見続けることにした。はたしてお父さんはどうやって眠っているのだろうか。この軟禁生活は、いつまで続くのだろうか。そんなことを考えている時であった。ベランダの方から何か物音が聞こえてきた。

 私は気になって、カーテンを覗き見るように開いて、目に映ったものに驚いた。指が柵の下辺りに引っ掛かっていたのだ。咄嗟にそれが父親の太い指だ! と了解して一応鍵が掛けてあることを確認し、居ても立っても居られずリビングに向かった。

 リビングには母親と由愛がだらしなく雑魚寝していた。由愛は最近太ったが、元々中学生らしからぬ母親譲りの豊満な肉体を有していた。その肉体が母親と娘を通してまだ幼き玲夢ちゃんの未来を見たような気がして、少し嫌になった。

「お母さん、由愛起きて! なあ起きて!」

 私はこの様な起こし方は、元来嫌いであるが、致し方なく二人の肩を揺すった。

「多分やけどベランダから登って来てる。もしかしたら排水管をよじ登ってきてるんかもしれん」

 この家は集団住宅団地の一階になるのだが、地下が存在していて、ゴミステーションと地下駐車場を備えた場所になっている。立地も緩やかな坂の上にあって、別館は少し低く見えるようになっている。つまり実質的に二階という構造を持つこのベランダから侵入を試みるには、地下から伸びている排水管をよじ登ってくるしかなかった。

 私もそこに排水管があることは、知らないし、意識して見たことはなかったが、もはや現段階でそれ以外の説明をしようがなかった。

「どうしよう。どうしよう」

 母親は頭が真っ白になって機能していなかった。由愛もリビングからベランダを見てお母さんほんまに登って来てるといつにもなく余裕のない声で言った。

 真帆! 真帆!と野太い声がもうそこまで来ていた。私は瞬時に考えられる策を考えた。まず玄関から逃げる。玲夢ちゃんも含め、女が三人もいる状態ではきっと逃げ切れないと思った。それに父親は窓を叩き割って必ず侵入してくる。もし室内にでも侵入すれば必ず居座ってしまう。では警察を呼ぶか。これは一番避けたい。こうなってしまえば必ず昔みたいにいつもの夫婦喧嘩を父親は演じるだろうし、常連の警察官たちもきっと同じように対処してくる可能性が高い。それに。それに。それに、私は実家に強制帰還させられる。それだけは、避けなければいけない。

 じゃあどうする。

 ...

 殺すか。

 不吉な考えが過った。唾を呑んで、床を見つめた。何かの滓とか、髪の毛とか、埃とかがくっきりと見えるようになった。身体が汗ばんできて、妙に重くなっていく。

「突き落せばええ」と廊下から出てきた佑介兄ちゃんがそう言った。

「え」

「さすがに登ってきてる最中に暴力は振るえんやろうし」

 私は軽く頷いて、確かにと理解した。四人はずっと黙って動けないままだった。

 じゃあ、その役を一体誰がやるのだ?

『真帆! 真帆!』

 私は静かに、立ち上がって由愛のいるベランダ付近へと歩き出した。私がやるのは無言の一致だった。それでも私はこの家の者を恨むことはなかった。もう家族だった。

 カーテンを勢いよく開き、眩しい陽が射して、目を窄めた。ぼかした透明の策には、男のシルエットが奇妙な形をしてそこに写っていた。大丈夫。軽く突き落してやるだけだ。落ちたらアスファルトが待っているがこの高さなら何とかなるかもしれない。大丈夫。

 ゆっくりと窓を開けた。久しぶりの外の匂いだった。網戸を引き、裸足でベランダに一歩踏み出した。陽射しを受けたコンクリートは心地よい温もりを持っていた。

「おお、誰やそこにおるん? 誰や?」

 父親の野太い声を聞いて、心臓が強く握り潰されそうになる。私はそれに答えず、とにかく突き落とすことだけに集中しようとしたが、思いの外父親はもう登りきろうとしていて、遂に柵の一番上に指が掛かった。私は呼吸が浅くなっていくのを感じた。久しぶりに外の空気が吸えたはずなのに。今すぐ煙草の煙と埃っぽい空気で満たされた部屋に戻らないと死んでしまうかもしれないと思った。ただ身体はその場から一歩も動けず、よじ登ってくるシルエットを虚しく見つめる目だけがそこにあった。無理だ。無理だ。怖い。

 その時だった。ジリジリジリジリジリジリと喧しく高い音が鳴り響いた。警報器の音だった。石化のように固まった私の身体は、雷に撃たれかのような衝撃で粉々に剥がれ、二歩目がすぐに動き出した。全ては反射的なものであった。その時だけは警報器の音が私の頭から消えたようだった。柵に掛けられた指一点を目掛けて、右拳で一発殴った。

「あいた!」

 その声の後、指は思いの外簡単に解け、シルエットは消えた。

 次の瞬間、警報器の音が一瞬で耳に戻ってきて、私の頭の中で鳴り響いていた。私は怖くて下を見ることが出来なかった。ただその場でずっと固まって、荒ぶる呼吸に震えていた。溝に絡まった髪の毛だけを見ていたら佑介兄ちゃんがそっと後ろから近づいてきて、私の肩を叩き「ごめんな」と耳元で囁いた。

 暫くして警報器が鳴りやみ、いつもの誤報であったのだと悟った。

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