第四話


 その日の私はまだ昼過ぎだというのに、由愛の悲鳴に近い叫びで目を覚ました。お母さん、お母さん。起きて、ヤバい、ヤバい、帰ってきたって。え、由愛、なに。だから帰ってきたんやって。さっきカナちゃんから連絡あって今からこっちに向かってるらしい。え、え、あいつ。うん、パパ。由愛、鍵、閉めた? 閉めてない。はよう閉めてきて。うん。

 そして一時間と少し経った頃だった、由愛の彼氏である中学一年生の勘太郎が金色に輝くモヒカンを揺らして家に駆け込んできた。

「多分帰ってきましたよ。お父さん」

「どの辺おった?」

「竹藪坂のとこで歩いてました。原付きで追い抜いた時に、もしかしたらって思ってこっそり隠し撮りしてさっき由愛に送りました。これです」

「ほらこれ絶対パパやろ、お母さん」

「……勘太郎、鍵閉めた?」

「はい、閉めました」

「チェーンも?」

「チェーン?」

「由愛、見てきて」

「掛かってなかったから掛けたで」

「とりあえず皆、なるべく静かにここにおって。あの人ほんま何するか分かったもんじゃないから。あと子供部屋の窓の鍵とベランダの鍵も閉めて。和室の方も。ぜんぶな」

 リビングに集まったのは、私、玲夢ちゃん、母親、由愛、勘太郎、佑介兄ちゃんの六人だった。この日は平日の午後で、翼と兼続君は仕事に行っており、また普段遊びにくる輩はおらず、佑介兄ちゃん以外、無職と不登校児しかいなかった。

 母親の顔面は、一目見て分かる程に青白く、物で溢れかえったテーブルの上をただぼんやりと見つめていた。玲夢ちゃんは、まだ状況が掴めず、眠たくて仕方ないのか、私の膝元を枕にうたた寝を繰り返していた。私も目を擦りながら、玲夢ちゃんのパンツからはみ出たお尻をずっと眺めていた。

 二十分が過ぎた頃。二度、チャイム音がなった。私はこの時、初めてこの家にチャイムがあることを知った。把手を強く何度も捻る音が聞こえきて、続けて三度ほど拳で強く扉を叩く音が聞こえた。

『真帆! 真帆! おるんやろ! ワシや! はよ開けてくれ! 真帆! 真帆!』

 野太い声だけが部屋の中に響いてきて、皆の顔に緊張が走った。玲夢ちゃんが小さい声で私に向かって「パパ?」と隠し事をする時のような楽しそうな声で聞いた。私はどう答えていいか分からず、頬を釣り上げるしかなかった。

『真帆! いい加減にせえよ! 開けろや! お前、ワシが帰ってきてんねんぞ! おいゴラァ! 分かってのんか! おい! 真帆! 真帆! 殺すぞ! おい!』

 母親はテーブルにうつ伏せになって震えていた。佑介兄ちゃんが隣で背中をさすっていた。由愛はスマホをいじりながら煙草を吸って「ウケる」と笑っていた。

『おい!』

 ドン! ドン! と先より鈍い音が聞こえてくる。おそらく扉を蹴っているのかもしれなかった。

『なめんとんかワレェ! 殺すぞ! おい、こら、はよ開けぇ! オンドレら、いちびっとんか? ああ? おい! はよ開けろ言うとんねんボケ! 刺してまうどごらっ!』

 ドンドンドン! おい! ドンドンドンドンドンドン! ごらっ! ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン! 真帆ワレェ! ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン! はいはい、そうでっか。ええ度胸しよる…………はよ開けんかい言うてんの聞こえんのかいっ! ええごらっ! 己いつから聾なってん? ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン! はよ開けえぇ!

 それから五十分くらいが経って、ようやく静かになった。

「諦めてどっか行ったんですかね」

 勘太郎が正座をしながら母親のいる方に聞いたが、俯いたままで、横から由愛がニヤニヤと口を出した。

「真帆真帆ってほんまウケる」

 玲夢ちゃんがおしっこもれそうと言ったので、私がついて行くことにした。リビングのドアを開けて閉めて、廊下先にあるトイレに玲夢ちゃんを連れていき、扉を半開きにした。その間、私はこっそり玄関へと向かった。息を殺し、足音を殺して。覗き穴に目を通すとき、心臓が早く鳴っていくのを確かに感じた。

 いた。不貞腐れたように大柄の男が壁に持たれ掛かるように地べたに座っていた。私は直ぐに覗き穴から目を放し、トイレから出てきた玲夢ちゃんを連れてリビングに戻った。

「まだおったで」

「うそ?」

 由愛は何故か嬉しそうだった。

「ほんま。玄関の穴から覗いた時に前で座ってた」

「きっしょ~」

「翼のお母さん」

 母親はゆっくりと顔をあげた。蒼白の顔面は、どこか死人を思わせる不気味な白さだった。

「コーヒー、淹れよか?」

「ありがとう。お願い」

「ミー君、俺のも頼むわ」と佑介兄ちゃんも言った。

「コーヒーいる人?」

「玲夢コーヒー牛乳飲みたい」

「あったかな。見てくる。なかったら牛乳でもいい?」

「うん」

「勘太郎と由愛は?」

「俺は大丈夫っす」

「由愛も」

 私はキッチンに足を運ぶときに気付いてしまった。自分がこの異常事態を少しでも愉快なものとして受けいれていることに。父親が引き起こした刺激によって、普段では生まれないこの家の一体感みたいなものが、私の居場所を強く認識させた。

 インスタントコーヒー三杯とコーヒー牛乳一杯を茶テーブルの上に運んだ。私もテーブルに腰掛け、一服することにした。いつもより煙草が美味しかった。

「翼のお母さん、翼と兼続君どうするん」

「どうしよ。佑介仕事大丈夫なん?」

「今オーナーに事情話してる。多分休ませてくれると思う」

「そっか」

「二人には俺から連絡してみるわ。兼続は実家に戻るとして、翼は誰かの家に泊めてもらえるか聞いてみる」

「多分和真とかの家やったら泊めてもらえると思うで」

「なるほど、ほなミー君からも連絡しといて。それからよく家に来るミー君らの連れ周りと後輩たちにも暫くこの家に近づかんように連絡しといて」

「了解」

「由愛もな」

「もうとっくにやってますけど。何か」

 それから日が暮れて、第二波がやってきた。

『なぁ、真帆。そろそろ入れてくれんか。寒くて敵わんわ』

 第二波は、一波とは打って変わり、同情を誘う声が続いた。

『おおい、翼、由愛、玲夢もおるんかあ。おるんやったら鍵開けてくれんかなあ。パパ寒くて死にそうやわ。おおい』

 カン、カンカンカンと軽い音が聞こえてきた。きっと左右にある子供部屋のどちらかのアルミ柵を揺らしているのだろう。

『翼。由愛。玲夢。元気してたか。パパお腹空いたわ。なあ、今日の晩御飯なんや。翼。由愛。玲夢。お母さん元気にしてるか。ああさむ。二月の夜はやっぱり冷えるなあ。ずっと地べた座ってたら底冷えしてえらいお腹痛くなりそうや。ああ寒い、寒いでえ。ほんまに』

 先から執拗に三人の名前を呼び続けるのには、理由があることを私は知っていた。翼の家系はやや入り組んでいる。これも小学校の頃に翼から聞いたことなのだが、翼は一応三男にあたり、その後順に生まれた由愛と玲夢ちゃんの三人は今玄関にいる父親が実の父親らしい。

 だけど長男の亮介兄ちゃんと二男の佑介兄ちゃんは、それぞれ別の父親を持っているらしく、今の父親になってからの二人は、幼き日から何度も半殺しにされたとよく佑介兄ちゃんが言っていた。

 佑介兄ちゃんが仕事以外でお酒を飲むことは滅多にないが、偶に飲む時があって、その頃の話をする時、必ず父親のことを「殺したい」と言っていた。それは生みの父親のことを指しているのか、現父親のことを指しているのか、問いただしたことは今日までない。私もどっちでもいいと思っていたのだろう。

『翼あ。もうとっくに中学卒業してるわな。ちゃんと高校行ってんのか。パパ、高校は行っときなさいってずっと言ってたからやっぱり高校は行ってるんやろな。翼はパパの言うことよく聞く賢い子やったから大丈夫そうやなあ。ああなんや、なんやっけ、あれ、あのバスケ部も入ってんのか。今度パパ試合見に行くからな。由愛ちゃんは小学校卒業してもう中学生なったんか。部活も始まるわな。学校楽しいか。昔テニス倶楽部通てたからテニス部か。なあ。玲夢ちゃんも保育所終わってもう小学生なってるんやろな。まだパパ、玲夢ちゃんのランドセル見てないわ。はよ見してえな。そうや、三人の入学祝いせなあかんなあ。何がええ。なんか欲しいもんあったらいいや。そうや。まず皆で鍋食べよか。まだ寒いから美味いで。きっと。なあ真帆。そろそろ堪忍してくれや。ワシも務所でしっかり反省してきたから出てこれてん。なあ、やり直そう。ちゃんともう一回な。一から皆でやり直そ』

 きっしょきっしょきっしょと由愛は大袈裟に顔を歪めていた。

「ねえねえ。お母さん。もうパパゆるしてあげたら。ずっとお外やったらさむくてかわいそうやん」

 玲夢ちゃんは、母親の太股に寄り縋って言った。母親は静かに涙をこぼして、二度首を振った。

「なんでなん」

「玲夢何言ってんの。あんな奴許したらこの家壊れるに決まってるやん!」

 由愛がすかさず口出して、ほんま無理ぃと両肩を抱いていた。母親は玲夢ちゃんの頭を撫でていた。玲夢ちゃんはずっと分からないように「ねえ、なんでなん。なんでなんよ」を繰り返していた。

 私は私で、もし父親を受け入れたら今の生活よりかはまだまともにこの家が機能するだろうなと感じていた。それと同じくして私の居場所もきっと無くなるだろうなとも感じていた。

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