ぶらりとたれて、さがったままで

meimei

第一話

 声が遠くから聞こえてくる。やがて声は女たちの笑い声となって近くまできた。声に乗って薄っすらと漂ってくるヤニの臭いが鼻に抜けて、今日も私は目を覚ました。上半身を起こした前にある茶箪笥の三段目辺りに、カーテンの隙間から伸びてきたひし形が蜜柑色に染まっていてそこだけ見ると朝日のように思えた。枕元の畳の上にあるデジタル時計は、19:34と表示されている。この時計はいつも二時間二十六分早かった。

 隣で寝ていたはずの玲夢ちゃんは、のそのそとハイハイしながら戸の前まで行って、いつものように少しだけ様子を伺い覗いてから開きかけの戸を引いた。上はパジャマを着ていたが、下は白いパンツだった。パンツの右側だけが捲れて右の小桃が動く度に可愛く揺れていた。だから私もそれに続くことにした。

「あ、お母さん。二人とも起きてきたで」

「おはようさん。二人ともよう寝たね」

「おはよう」

「うん」

 玲夢ちゃんは目を擦りながら母親の脹脛にしがみついた。

「玲夢ちゃん、昨日何時に寝たん?」

「わからへん」

「朝の十時頃やったと思う」と言った由愛は、濁った金色の髪を何度も触りながら細い煙草をスパスパ吸って煙を焚いていた。二人が居座っている四角い茶テーブルは、一昨日に私が整理整頓したはずなのにもうすっかり物の山で溢れている。

 髪の毛が嫌に絡まったブラシ。黒く細いヘアゴムがあちこちに散乱。小さい鏡が二個。派手に肌を露出させた女が車のボンネットに乗った雑誌。教科書とプリントの束。ポテトチップスをパーティ開けした中に丸められたティッシュ三つ。飲み口の所に灰が付いている潰されたビール缶。先週のタウンワーク。誰かの手甲。マイルドセブンとセブンスターの空箱。ターボライター。チキンの骨だけが四本入った白いお皿の底にはオレンジの脂が溜まっている。

「お母さん、玲夢最近ちゃんと学校行ってる?」

「最近はまたお休みしてるけど、来週プールあるから行くって、なあ」

「うん」

「ふうん」

 銀色の個包装や色々な種類の煙草が突き刺さった透明の灰皿山の上から、由愛はまだ長い煙草を揉み消した。くしゃくしゃに折れた細い煙草から、煙が八の字に連なって天井の黄色い壁を叩いている。カチッと音がした後に由愛は、口元を器用にスパスパしながら煙を焚いて、髪の毛を両手で束にしたり戻したりして口からは煙を漏らしていた。

「それでさ由愛、この間、ドラマに出とったやん。あの子、ほら、次男役の。顔小さくて可愛い子」

 母親は玲夢ちゃんの頭を撫でながら片方の手で煙草をスパスパ吸って、由愛と会話を続けた。

 私はお腹が空いたので、キッチンへと行き冷蔵庫からあさってきた魚肉ソーセージを玲夢ちゃんに渡した。玲夢ちゃんは母親の隣の椅子にちょこなんと腰掛け、足を空中でぶらぶらさせながら煙と共にモグモグと一点を見つめて食べていた。

 私はキッチン棚の中にあるコーンフレークを少なめに皿へ盛って、牛乳を多めに入れてリビングのローテーブルへ持って行った。ローソファに腰掛け、流れっぱなしのテレビニュースを見た。右上に表示された『覚醒剤は何故やめられないのか⁉』というテロップ一点を見続けながら、牛乳ばかりをプラスチック匙で何度も掬って飲んでいた。ちょうど九月の暮れる頃だった。



「よし! つぎはあっちまでいってみろ! お馬」

「はい」

「ちがう。ひっひぃんは?」

「すいません」

「ちがう。ちゃんと! ひっひぃんは?」

「ひっ、ひっひぃん!」

「よし! いけお馬!」

 私は四つん這いになってその上に玲夢ちゃんが乗ってキャッキャッしている。玲夢ちゃんは軽い方だと思うが、フローリングに押さえつけられた膝と手首が痛い。

「玲夢! もうその辺にしとき」

「えぇえ」

「ミー君、疲れてるやろ」

 玲夢ちゃんは私の頭を小さな拳で二回殴った。

「玲夢! 翼お兄ちゃんの言うこと聞けんのか?」

「きけるけど……だって」

「ほな、お馬終わり。あっちの部屋にヨッシーとかおるやろ。そいつらと遊んでき」

「はあい」

「ミー君こっちで一緒に飲もうや」

 玲夢ちゃんは、私にあっかんべーをしてリビングを抜けて、玄関に繋がる廊下へと姿を消した。リビングはゴールデンタイムのバラエティー番組が流れるだけのしんとしたものになった。現場帰りの翼は頭にタオルを巻いて、泥だらけの土方服のままスマホをいじっている。茶テーブルの上には、ビールのロング缶とくんさきいかが置かれていた。

「ミー君も一本飲みや」

「ありがとう」

 私は爪が長くなかったので、机にあったボールペンの先をプルタブの隙間に無理やり突っ込んでプシュッと抜けた音を立てたのを確認してから、小指で幅を確認して、親指で完全に持ち上げた。軽くビールを口に含み、アルミホイルみたいな味を確認してからゆっくりと飲み込んだ。それを翼は、時々スマホから私に視線を移して見ていたのを感じていた。

「もう二ヶ月くらいか」

「せやな。九月始めくらいからか。結構世話なってもうてるな。悪い」

「何を今更そんなこと言ってんねん。小学校の時からの付き合いやねんからそんなん気にせんでええやろ」

「せやけど。働いてないしな、俺」

「その分、掃除とか玲夢の世話してくれてるっておかんが言っとったし、買い物とか手伝ってくれてるんやろ。ほな今はそれでもええですやん……働きたくなったら働いたらええ。なんやったら親方紹介したろか」

「いや鳶はええわ」

 ケッと翼は笑ってビールをぐびぐびと飲んだ。

「そんなガリガリに勤まるかい。ま、夜系やったら佑介兄ちゃんに聞けばええし。ちょうど二人ともガリガリやし。ええやんガリガリコンビが三宮でキャッチ」

 和室の扉が音を立てて開いた。タンクトップ姿の佑介兄ちゃんが長い髪に寝癖を立てながらスマホいじって出てきた。細腕からはいつも青い血管と墨汁で染みこませた何かわけのわからない模様が見えた。

「誰がガリガリコンビや」

「おっ、タイミングばっちしやな」

「佑介兄ちゃんおはよう」

「ミー君、今から仕事一緒に行くか。なんぼでも紹介したんで」

「いや夜はええわ」

「ふん」

 佑介兄ちゃんは、廊下を抜けて行った。廊下先からやたらと楽しそうな声が聞こえてくる。

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