八十八歳
肉体は年老いて。それでも感情は。廃墟ではなかった。
「あそこは、いいと思うんだけど。評判も悪くないし。景色も綺麗で」
「綺麗なものは、見えなかったね」
助手席で、窓から外を見ている。流れる風景。歩く子ども。歩く犬。歩く大人。区別のつかないような表情。日差し。世界の普通。眩しいような。流れていく。
「でも、悪くはなかったんじゃない? どこも同じようなものだと思うよ。いまの家だって、景色が綺麗なわけでもあるまいし」
「見慣れたものは、それだけで綺麗なんだよ」
「あそこだって、すぐに慣れると思うよ、お母さん」
「そうかもね」
雲が、白髪のように、
「状態によって、入れる施設も違ってくるし。お母さんは、頭はしっかりしてるんだから。あそこがベストだと思うんだけど」
「そう」
昭和九年。一九三四年。八十八。電話番号、住所の番地、身内の享年、息子の誕生日、野菜の値段、日記の冊数、今日の日付。流れる風景のように、流れていく数字。しっかりした頭。一応は冬で、春めいた気温。窓の外。助手席から見ている。流れていく。
「嫌なら嫌だと言ってくれればいいから。また考えよう」
「迷惑は、かけたくないからね」
「お母さん、迷惑かけずに生きるなんて、無理だよ。意志を示さない方が、迷惑なこともあるし」
「迷惑はかけたくないんだよ」
「そりゃ無理だよ」
青空が、空虚。夢のなかで見たような空。最近は夢を見ない。眠りの時間がぽっかりと穴。落とし穴の上で、なぜか落ちずに足を動かし続けているような、そんな日々。空虚。身体の重さとは対照的に。
「また、ゆっくり考えよう」
ゆっくりと、時間は過ぎていく。ゆっくりと、景色は流れていく。ゆっくりと、雲はかたちを変えていく。ゆっくりと、世界の普通は薄れていく。それでもこころには、速すぎるくらいに。
「もう春だね」
気分がさやさや、陽気に晴れる。こころに風が吹いている。暖かいというのは、いいことだ。季節が巡るのは、いいことだ。顔のない時間に、思い出がしるしをつけていく。頭がしっかりしなくなっても。在ること、居ること、移り変わること。空がすべてを憶えている。
「まだ冬だよ」
沈黙を消すように、ラジオがつけられた。戦争のニュースが流れていた。八十八年目の春が、もうすぐだった。
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