リンボ、あるいは図書館

 彼は、赤子だった。泣いていた。生まれたからだ。孤独しか許されない世界に。

 彼のそばには、だれかがいた。何者かがいた。記憶にも残らないほどかすかな気配が。

 ちぎれた魂のように泣きわめく彼の傍らに、一枚の白い羽根が、音もなく舞い落ちた。


 彼は、少年だった。ふてくされていた。いくら椅子で叩いても、窓は割れなかった。そんなことは初めからわかっていたことだ。決して出られはしないのだ。書物しか他者のいないこの静寂の牢獄ひとやからは。

 彼は気がつくと、この場所にいた。いつのまにか存在していた。望んだのかどうかもわからずに。そして彼は、ひとりぼっちだった。他人をだれひとり見たことがなかった。

 彼を生んだ者は? いない。見当たらない。どこにもいない。彼は空気から生まれたのだろうか。

 彼を育てた者は? いない。見当たらない。どこにもいない。彼は書物に育てられたのだろうか。

 本。それだけは、この場所にはおびただしく存在した。彼の生涯を囲んでいた。言葉が海のように広がっていた。そして彼は、言葉の海しか見たことがなかった。自分の体液を除けば、水にすら触れたことがなかった。

 体液。彼は涙を流すことはできるし、唾液を分泌することもできるし、血を流すこともできる。しかし尿とは縁がない。排泄を必要としない身体だった。そんな肉体があり得るのだろうか?

 食事。彼はなにも食べず、なにも飲まなかった。飢えを知らず、渇きを覚えなかった。肉食の罪とも、断食の祈りとも無縁だった。すべて最初から絶無だった。そんな身体が生きられるのだろうか?

 しかし、彼は存在していた。肉体とはいいがたい肉体で。身体とはいいがたい身体で。時の刻み目だけは宿しながら。彼はたしかに成長していた。でなければ、どうして赤子が少年になれるというのだろう。けれど、この空間に時が流れているのかは定かではない。この場所には昼夜の概念がなかった。ずっとぼんやりと仄明るいままだ。眠ることのない彼と同じように、眠ることのない空間。あるいは眠ったままの空間。書物は眠っているのだろうか? 目覚めているのだろうか? どちらともいいかねた。

 窓。外への扉はどこにも見当たらないが、窓はいくつも存在していた。しかし、そこから見える景色は、きわめて貧しいものでしかなかった。白い霧。それだけだった。向こう側は、ある。窓の外には、なんらかの空間がある。それだけはわかる。それだけしかわからない。いつも白い霧。霧の向こう側は、見えない。だれかがいるのか? なにかがあるのか? 彼にはわからなかった。すべて不可知の雪白だった。けざやかな白。消毒されたような外界。純白の晦冥かいめいだった。

 鏡。この場所に純粋な鏡はない。ただ、窓は不完全な鏡でもあった。彼の顔がぼんやりと淡く映っている。幼い少年の顔が、不機嫌そうに眉根をしかめている。その顔が美しいものなのか醜いものなのかも、彼にはわからない。他者が存在しないのに、顔の美醜を判断できるだろうか? 彼の顔が唯一の基準であり、無意味な標準だった。

 彼はもういちど、椅子を振りかぶって窓に叩きつけた。鈍い打音。空気の揺らぎ。そして静寂。窓は割れず、牢は破れない。彼は諦めた。どうせ、ここから出られはしないのだろう。最初からわかっていたような気もする。物心つくより前からずっと。彼にこころはいつ芽生えたのか? いつのまにか存在していた。彼そのものも、彼のこころも。

 彼は椅子を床に置き、服の袖で手の汗を拭った。ゆったりとした着心地の白い長衣。その衣服は、本棚に混じる衣装戸棚に、数えきれないほど用意されていた。すべて同じような白い長衣だが、大きさには幅があった。小柄な子どもから大柄な大人まで、探せば必ず相応の服が見つかるとでもいうように。彼のいかなる成長にも対応するとでもいうように。

 窓に背を向け、彼は彼を取り巻く世界を一望する。いくつもの机、いくつもの椅子、いくつもの書見台、そしておびただしいほどの書架、おびただしいほどの書物、腹立たしいほどの静寂。それが彼の生まれた世界であり、彼の生きる世界であり、彼の知っているただひとつの世界だった。

 図書館。その名称が、この世界にもっともふさわしい呼び方なのだろう。しかし、その言葉は近似値だ。図書館とは、知を求める人間のために開かれた、書物だけが住まう場のはずだ。人がそこで生まれ、成長し、だれに会うこともなく、孤独に幽閉される場ではない。だが、彼はここで生まれ、ここで成長し、ここに囚われている。彼のゆりかごであり、彼の牢獄であり、彼の墓場でもあった。図書館は、彼の全世界だった。彼に与えられたすべてだった。だれひとりいない、静けさに満ちた言葉の安置所が。

 名前。彼に名前はない。名づけてくれる他人はいなかったし、自分でも名づけようとは思わなかった。だが、名前のない彼は、あらゆるものの名前を知っていた。太陽も月も見たことのない彼は、太陽と月という名前を知っていた。朝も夜も経験したことのない彼は、朝と夜という名前を知っていた。そしてその名が指している概念をことごとく理解することができた。太陽と月の輝きも、朝と夜の明暗も。思い出も経験もなしの理解。まるで、あらかじめ刷り込まれていたかのように。本を読むための知は、すでに授けたとでもいうかのように。

 文字。書物には、文字が書かれている。情報を伝える記号。概念、思想、感情、記憶、歴史、物語。あらゆる想念が文字によって綴られている。連続する文字には、言葉に特有の律動が刻まれ、ひとつらなりの音楽が流れていた。それは書き手の呼吸であり、こころの色彩でもあった。だが、この図書館にある本たちは、いかなる文字によって書かれているのだろう。彼には読める。彼には理解できる。だがその文字は、どんな地域にも国家にも紐付けられていない、この図書館だけの文字だった。彼ひとりのための文字であり、彼ひとりのための言葉だった。

 彼は脱兎のごとく駈け出した。机と椅子のあいだを抜けて、階段まで走る。白い長衣をはためかせ、素足のまま、足音さえもかそけく。

 階段。図書館には、階段があった。書架のひしめく広大な空間の片隅に、取って付けられたようにひっそりと佇む、昇り降りのための空間。そこにも、音を吸い取るような静寂はわだかまっていた。空気が震えるのを忘れていた。彼が足を踏み入れないかぎりは。

 彼は階段を急ぎ足で昇った。一段飛ばし、二段飛ばし。軽快な足取りは、少年の若さを告げていた。華やいだ生気が、その足運びを許していた。老いる運命を蹴散らすように。つつましく若年にすがるような。

 九階にたどり着く。それが彼の世界の頂上だった。これよりも上はない。彼の最大限の遠出。報われない登攀とうはん。世界の果ては、あまりにも近かった。

 どの階も同じようなものだった。本棚、本棚、本棚。窓を挟んだ壁は、すべて本で埋めつくされている。梯子も用意されていた。彼のちっぽけな背丈を押し潰すように、言葉が蝟集いしゅうする書棚はそびえていた。この図書館に、本はいくつあるのだろう? 数える時間は十分にあるが、数えたことはなかった。

 彼は上を見上げた。屋根は遠く、なにも語らない。空の片鱗も見せず、ただただ天を閉ざしていた。触れられそうもないし、触れたところで、どうなるものでもない。そこにも窓はある。しかしその天窓も、他の窓と同じように、白い霧を映すだけだった。それは空ではない。太陽も月も星も見えなかった。それは断じて空ではなかった。壁と同じような景色だった。なんらの可能性も含まれていなかった。

 彼は上を見上げるのをやめて、中央の吹き抜け部分から下を見下ろした。九階から一階まで、風の通り路のように貫かれている空間。手すりに胸を乗せて、足をぶらぶらさせながら、彼は彼の世界の底を眺めた。天よりはよほど近くに感じられた。高所から見下ろす景色には、ある種の誘惑が潜んでいる。彼は、まだその誘惑に従ったことはない。しかし、それは常に意識されていた。結局のところ、この世界から逃れるためには、それしか道はないのではないか?

 彼は危険な決意に傾く前に、手すりから降りて、階段へと歩き出した。とぼとぼとした足取りは、先ほどとは異なり、精彩を欠いていた。彼の肉体に疲労はなくとも、彼の精神は気落ちしていた。

 階段をゆっくりと降りながら、彼は相変わらず同じ疑問に取り憑かれる。彼にこころがあるかぎり、いつまでも消えないであろう疑問。

 自分は、何のために生まれたのだろう。何のために存在しているのだろう。だれもいない世界に、ただひとり無為に時を過ごして……。

 答えはない。語り合える相手もいない。ひとりで悩み、ひとりで考えるだけだ。まだ少年にすぎない彼は、すでに晩年のような徒労感に包まれていた。

 ぼくは、永遠にだれとも会えないのだろうか?

 そんな憂鬱に苛まれていた彼の足が、ふと止まった。階段の踊り場に、なにかが落ちている。見覚えのない、それでいてどこか懐かしさを覚えるようななにかが。さっき昇ってきたときは、そんなものはなかったはずだ。

 彼はそれを拾った。一枚の、白い羽根だった。翼から抜け落ちたばかりのような、空の記憶を宿しているような、美しく軽やかな白い羽根。

 彼は手にとったそれを、呆けたように眺めた。動くものなどない彼の世界に、初めて現れた予兆。他者の気配。

 ふと我に返り、辺りを見まわした。もちろんだれもいない。なにもいない。永遠のような静寂だけ。彼の見知っている沈黙だけ。だが、それならば、この羽根は?

 彼は階段を急いで駈け降りた。八階、七階、六階と、各階を鼠のように走りまわった。閉じ込められた実験鼠のような悲壮な探索行。床に積みあげられた本の山が、慌ただしい彼と衝突していくつか崩れた。

 探索は失敗に終わった。彼は依然として、自分しかいない世界に突き当たるだけだった。孤独はあまりにも完成されていた。でも、それならば、この羽根は?

 一階まで戻ってきて、結局なにも見つけられなかった彼は、記憶にすがるように、手近な棚から本を取り出してめくった。たしか、その本にあったはずだ。

 お目当ての記述はすぐに見つかった。

「脊椎動物の一綱。哺乳類と同様に温血。爬虫類と同様に卵生。嘴を持ち、身体は羽毛に包まれている。前肢が翼となり、空を飛ぶものが多い」

 翼を持つ生物。鳥。一度たりとも目にしたことのない、飛翔する生物。羽根を持つもの。

 寂しさすら消え入る静かな図書館に、音も立てず、鳥が訪れたとでもいうのであろうか。

 幽霊の足跡でも見るように、彼は手にした白い羽根を飽かず眺めた。


 彼は、成人だった。抜け殻のようだった。空虚な面持ちのまま座ってぼんやりと、指先で白い羽根をいじくっていた。机には本が開かれている。白紙だった。なにも書かれていない、白無垢のまっさらな本が、この図書館にはときどき見つかる。その一冊を目の前に開いて、彼は羽根を触りつづけていた。

 その羽根を見つけたのが、どれほど前のことだったか、彼は思い出そうとしてみた。わからなかった。この図書館にこよみはない。季節もない。時計もない。平らで無表情な壁面のように、空漠とした現在だけが流れた。日々は呆れるほど手がかりがなかった。

 しかし、彼の成長した肉体は、時の経過を物静かに語っていた。痩せぎすで繊弱な、丈の高い身体。少年とはもう言い難い顔つき。とはいえ、纏っている服は相変わらず白い長衣、許される行為は相変わらず読書だけ。読み終えた本は増えたが、経験と呼べるような歳月を重ねたわけでもない。なにかが変わったとも思えなかった。

 いや、ひとつだけ、新たに始めたことはあった。こころをなだめるための新たな遊び。とはいえそれも、永遠の静寂に罅を入れようとする、無意味な戯れにすぎなかった。望みも期待もとうにすり減っていた。

 それでも遊びは必要だった。こころが死ぬのをごまかすために。なにもない生存を更新するために。日々の祈りにも似た彼の遊び。

 彼は椅子から立ち上がり、机に羽根を残して、階段へと向かった。二階、三階、四階と、迷いのない速度で上階へと昇っていく。その足取りには、どこか怒りを感じさせるものがあった。自分が生きていることへのやるせない怒り。とどめようのない呪い。

 最上階である九階にたどり着いた。彼は中央の吹き抜け部分まで歩き、手すりに手をかけて、ためらうことなく、足場のない空中へと身を投げた。

 真っ逆さまに、彼は落ちていく。八階、七階、六階、五階……。彼を取り囲む書架が視界をよぎっていく。不思議の国に迷いこむ少女の物語が、頭に思い浮かんだ。兎を追って穴に落ちた少女は、のんびりと落下しながら食器棚や地図や絵、それに本棚を目にして何事かを呟く。彼に見えるのは本棚だけだが、何事も呟かずただ無言だった。少女の物語が記された本も、視界をよぎる本棚のどこかにあるはずだ。

 ぐしゃりと、彼は頭を下にして一階の地に叩きつけられた。物語とは違い、彼の墜落は迅速だった。頭の鉢が砕け、血と脳漿がこぼれ、あちこちの骨が歪んだ。

 だが、彼の意識は途切れない。少女の物語をなおも思い出していた。あの物語に、鳥はいたっけ? いたような気がするな。猫はよく憶えているけれど……。

 彼は眠ったことがない。気を失ったこともない。そして、死んだこともなかった。

 痛みはあった。それはたしかにあった。言葉にできないような、身悶えするような、鋭く容赦ない苛烈な痛み。だが彼の冷めきった意識は、痛みを切り離す術を心得ていた。まともな肉体なら死んでいる損傷すら、どこか他人事だった。だが痛みはあった。たしかにあった。それは彼の数少ない、生きる実感のよすがだった。

 白い長衣を赤く染めた彼は、白い羽根と白紙の本を置いた机まで這いずり、すがりつくようにして、苦労しながらなんとか椅子に座った。ぽたぽたと、頭から血はしたたり続けている。

 彼は羽根を手に取り、羽軸の尖端を自分の血に浸した。そして、かりかりと引っかくように、白紙の本に言葉を書きつけた。血で刻んだひとつらなりの文字。それは詩だった。

 彼は気が向くと自殺した。詩が思い浮かぶと自殺した。死を拒まれた投身自殺、詩を綴るための投身自殺。永遠の孤独に見出だした、彼のなけなしの遊び。

 もちろん、結果は虚しいものだ。彼はしばらくのあいだ、自分の書いた詩を眺める。記憶に焼きつけるように、痛みを噛みしめるように。やがて忘れるに決まっている、想いを封じ込めた言葉を。

 その赤い文字が、彼の眼前でだんだんと薄れていく。言葉は溶けるように淡くなって、雪のような白にひとたまりもなく呑まれていく。そして、なにも書かれていないまっさらな白紙へと戻ってしまった。彼の血も彼の詩も、初めから存在しなかったように。

 その頃にはもう、彼の傷はふさがっていた。骨も治った。床や机にしたたった血も消えて、赤く染まった長衣は元通りに白かった。

 残らない痕跡。夢のような、彼の死の試み。儚い痛み。ただ虚しかった。

 詩が消えると、彼はまた最上階まで昇り、勢いよく飛び降りた。みじめな墜落、みじめな詩作。鳥のように翔ることなどできない。それでも彼は、なにかを求めるように、何度も身を投げた。

 数えきれない自殺の後、彼は血まみれで横たわったまま、遠い天井を眺めていた。一階から見る天の蓋は、絶望的なまでに無機質だった。この図書館に、空はない。

 彼は鳥のことを想った。階段で見つけた白い羽根。幼い頃に垣間見た他者の影。すべて幻だったのだろうか。ここには結局、だれもいない。人も鳥も、なにもいない。ただ言葉だけが。だれかの遺した想いだけが。でも、本を書いた人間のなかに、だれとも出会わなかった人間はいるのだろうか。書物が孤独のいとだとしても、彼はそれ以上に孤独なのではないか。

 彼はまたも疑問を浮かべた。いつでもつきまとうただひとつの疑問。この意味のわからない不条理な空間にただひとり生きつづける彼の切実なる疑問。

 ぼくは、永遠にだれとも会えないのだろうか?

 そんな憂鬱に苛まれていた彼の視線が、ふとなにかをとらえた。遠い天窓。白い霧しか映さないはずの窓。その窓を、なにかの影がよぎった。

 彼は身を起こした。息をのむようにして、天窓を注視しつづけた。白い。ただ白い。なにもいない。いまのは、なにかの錯覚だろうか?

 ふたたび、なにかの影がよぎった。今度はしっかりと見た。間違いなかった。たしかに何者かがいた。天窓の向こう、見えない空を、翼を持ったなにかが……。

 彼は急いで机まで這いずり、羽根を手にして、血がしたたる内に一気呵成に言葉を書きつけた。空を飛ぶものについての詩だった。彼がいま見たもの。彼の焦がれる向こう側の存在。

 だが、彼の詩はほどなく消える。彼の血は失われてしまう。彼はそれがたまらなく嫌だった。泣きたくなるほど哀しかった。この言葉も、この想いも、いずれ忘れてしまうのだろうか? 初めから存在しなかったように。

 彼は詩を書きつけたその紙を本から破りとり、丁寧に折り始めた。血に汚れた手で、震えながら、慈しむように。

 その遊びもまた、書物から学んだ遊びだった。紙を折り、形を変えて、なにかを創る、子どもじみた遊戯。彼がまだ少年のみぎり、本を破ってよく遊んだものだ。

 彼は天窓をあおいだ。どれだけ待っても、影はもう見えなかった。だが、彼はたしかに見たのだ。彼ではない他者であるなにかの存在を。

 彼は視線を机に戻した。血はもう消えていた。傷はふさがり、痛みは去った。彼の魂を込めた詩も。だが、その残響はまだそこにとどまっていた。

 自分の墓標でも見るように、白紙で折った鳥を彼は飽かず眺めた。


 彼は、老人だった。腐木ふぼくのようだった。窓際に立って、じっと、そこに映る自分の顔を眺めていた。樹木の年輪のように皺が刻まれ、目蓋まぶたは眠たげに垂れ下がり、頭髪はすっかり白くなっていた。時の重圧が彼をひしいでいた。

「今われらは鏡をもて見るごとく見るところおぼろなり。れど、かの時には顔をあはせて相見あひみん」

 彼は記憶に言葉を求めた。脳裏に言葉があぶり出しのように浮かんだ。本をめくらずとも、それは常に彼の内側にあった。彼のこころは言葉を欲した。言葉は彼に無尽蔵に与えられた。雨のように惜しみなく。あられのようにかしましく。そして、言葉以外のなにものも、図書館は与えてくれなかった。彼の世界には言葉しかなかった。太初はじめことばあり、そして永遠に言葉だけがあった。彼だけが言葉から疎外されていた。胡乱うろんな他者のように、取るに足りない異物として。

 彼は窓から離れ、自分を取り囲む書物の海を見まわした。彼が泳ぎつづけた言葉の大海。泳いだ? 溺れつづけているだけなのかもしれない。無限に引き延ばされた溺死。いまもなお。

 泡のように、さまざまな想いが浮かんでは消える。彼はもう詩を書かない。書きとめようとは思わない。どうせ瞬く間に消えてしまう想いを、だれにも届かない叫びを、自らの血で刻みつけようと、無意味な悪あがきにのたうちまわったこともあった。そしてもちろん、なにも残らなかった。

 いまはもう、詩は書かない。遠い昔、自分が死に物狂いでなにを書こうとしたのかも、忘れてしまった。ただ、砂浜に残るわだちのような感情の痕跡が、時たま彼のこころに触れて、幽かな音楽が広がり、そして消えた。未生みしょうのように深い静寂。それもいずれは消える。記憶も、記憶への震えも、なにもかも。

 彼は老いた。すっかり老いた。だれとも出会わず、なにも起こらず、どこにも行けず、いちども眠らず、ただただ老いた。年老いた。それでいてなおも彼は、生まれたばかりのような、存在することへの違和感に捉えられた。空疎な自己に煩わされた。身体の重みに意識が釣り合わなかった。

「われ隠れたるところにてつくられ地の底所そこべにてたへにつづりあはされしときわが骨なんぢにかくるることなかりき。わがむくろいまだまたからざるになんぢのみめははやくよりこれをみ日日ひにひにかたちづくられしわが百体ひゃくたいひとつだにあらざりし時にことごとくなんぢのふみにしるされたり」

 彼が生まれたとき、彼がかたちづくられたとき、彼を見守るものはいたのか? 彼の存在は認知されたのか? だれとも出会えないこの生涯の、その出発点において。彼はだれかの本に記されたのか? ばくたる夢のようなその記憶に。この図書館に存在する無数の本は、その一片にさえ満たないのか? 言葉はすなよりも多く、すなのようにこぼれていく。だれにもそれはとらえられないのか?

 彼は階段を昇った。彼の足取りは重かった。眠りも食事も必要としない身体。だが、いつの頃からか、疲労は彼を蝕むようになった。憑かれたように疲れて、疲れに憑かれたままだった。眠りを経験しない彼は、それを癒やす術を持たなかった。琥珀に閉じ込められた虫が、もしも目覚めたままだとしたら、ひとやのような彼の意識にも似るのかもしれない。だが、彼は慣れた。永遠のような疲労にも慣れた。慣れることしか許されなかった。望まずとも存在しつづけるかぎりは。

 幼い頃の彼が軽快に走り抜けた階段を、老残の彼は見る影もなくゆっくりと昇る。それはあたかも、彼の読書がたどった変遷を物語るようでもあった。若年のみぎり、彼は急き込むように、不在の食事の代わりのように、むさぼるように書物を漁った。落ち着きのない回遊魚のように、新たな言葉に触れつづけた。そうしなければ、空虚に呑まれてしまうとでもいうかのように。

 いまの彼は、知らない言葉をあくせくとは求めない。全知の夢を追ったりもしない。悠久の時間さえあれば、図書館の本をすべて読み尽くすことも可能だと思っていた。だが、そんな行為に意味はない。生存と同じくらいに意味はない。むしろ彼は、何度も繰り返し読んだ本に立ち止まり、慣れ親しんだ言葉をひたすらに注視することで、いままで知らなかった言葉の表情に驚いたり、底流に潜んでいる音楽に気がついたりというような、歩みの遅い読書を好むようになっていた。本の数は有限だが、言葉の味わいは無限だと悟ったのだ。そして老いの実感は、本についてだけではなく、自分の生についても、明らかな事実を告げていた。彼の孤独は無限かもしれないが、彼の人生は有限だという厳然たる事実を。

 彼は最上階である九階にたどり着いた。手近な書棚から、馴染みの本を手に取り、愛おしむように慎重にめくった。その本は、すべての階に、すべての本棚にあった。言葉に多少の異同はあったが、大まかな輪郭は変わらない。詩を書いていた頃の彼は、その本を意地でも読まなかった。なぜかはわからない。図書館に遍在するその本が、世界の象徴でもあるかのように、孤独の淵源でもあるかのように、彼は執拗しゅうねく忌み嫌った。だが、それも長くは続かなかった。本への憎悪は、本への愛ほどには、こころに根づくことはなかった。少なくとも彼にとっては。彼は愛に負けたのだ。なにも愛さずに生きるのは辛い。ひとりきりの彼は、言葉につまずき、言葉に魅入られ、言葉を愛してしまった。たとえ言葉が彼を愛してくれなくとも。

「空の鳥を見よ、かず、刈らず、倉に収めず、しかるになんぢらの天の父は、これを養ひたまふ。汝らはこれよりもはるかすぐるる者ならずや」

 記された言葉を眼で追いながら、記憶に刻まれた言葉を呼び覚ます。その二重唱は、ときに美しく、ときに不調和で、ときに優しかった。書かれた言葉は、すべて記憶の模倣にも思えた。読んだはずのない言葉を読むときでさえ、自分はこの言葉を知っている、この言葉は自分の中にすでにあったと、そんな既視感をたびたび覚えた。日の下には新しき者あらざるなり、いかなる日の下にあるかわからないこの図書館においても、それは真理であるように思えた。

 彼は本を閉じ、書棚に戻した。鳥。彼がいちども見たことのない空を飛ぶ、彼がいちども見たことのない生きもの。彼の夢。彼の他者。だが、彼はたしかにその影を見たのだ。たしかにその痕跡に触れたのだ。彼でも言葉でもないなにかに。

 彼は書架の海をかきわけて、目的の棚へと赴いた。九階まで昇るのは久しぶりだった。彼の世界の頂上。天にもっとも近いその場所に、彼は彼にとっての聖遺物を安置していた。彼のはかない福音の残像。彼のつたない青春の虚像。紙の鳥と、白い羽根。

 まがいものの鳥は、ほどなくして見つかった。だが、そのそばに羽根はなかった。彼はそれらをつがいのように寄り添わせて安置したはずなのに、白い羽根は忽然と消えていた。彼が白紙で折った鳥だけが、無様な姿で佇んでいた。

「…………」

 彼は紙の鳥を手に取った。詩を失って、羽根からも見捨てられて、その鳥はもう、惨めな玩具にすぎなかった。なんらの輝きも宿していなかった。彼の夢は、いつのまにかついえていた。

 彼は鳥を殺すことにした。折られた紙を、過去に葬るように、繊細な手つきで元に戻した。皺のついただけの、ただの白紙。血で書きなぐった詩など、跡形もない。そこに刻んだ言葉も想いも、もう忘れてしまった。

 彼はその白紙をまた折り始めた。今度は鳥ではない。鳥を模倣した文明の利器。人を運び、人を殺す、空を飛ぶ機械。いちども見たことのない飛行機を模して、彼はまたしてもまがいものをこしらえ上げた。

 中央の吹き抜け部分まで歩き、手すりから身を乗り出して、彼はかつての詩であり鳥であり夢であったはずのなにかを、彼の手から解き放った。風にたゆたうように、終着を引き延ばすように、紙の飛行機がゆっくりと墜ちていく。やがて、林立する書棚の陰に隠れ、見えなくなった。

 彼はその場を離れ、階段を降り始めた。足取りは重く、表情は物憂く。彼にはもう、なんらの希望もなかった。彼は老いた。すっかり老いた。そしてこころに相変わらず浮かぶのは、いまや答えが出たように思える、ただひとつの疑問。彼に終生つきまとった疑問。

 ぼくは、永遠にだれとも会えないのだろうか?

 そんな憂鬱に苛まれていた彼の生に、定められた時が来た。


 彼は、死人だった。眠っていた。終わったからだ。永遠のような辺獄リンボの孤独が。

 彼のそばには、だれかがいた。何者かがいた。眠りにも触れられないほどかすかな優しさが。

 泣き終えた魂のように黙す彼の傍らに、おびただしいほどの白い羽根が、弔花ちょうかのように添えられていた。天使が上り下りするという梯子にも似た、その階段に横たわる死体の傍らに。

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