ぼくたちの夜

 夜は明るかった。暗闇が優しく輝いていた。視界の引き算が終わり、見えるべきものが見え始める。眠れなくなって、もう二十一日目だった。夜。濡れ羽色の時間。こころが静かに震えている。

 おやすみなさい、と家族に告げて、部屋にこもり、電気を消す。窓からの光。自分の影が、自分よりも大きい。横たわるぼくが、壁を見つめながら、夜が夜になるのを待っている。

 時が満ちる。それは気配でわかる。家族が寝静まり、人声が絶えて、夜の純度が倍加する。時が満ちた。あとは、窓を開くだけだった。

 ぼくは外に出て、二階の屋根を伝って歩き、梯子のように木を降りて、地上にたどり着いた。家を離れ、夜を歩く。

 月光、街灯、信号灯。柔らかな光。影の黒さ。月光、街灯、信号灯。アスファルトの道路。裸足の感触。月光、街灯、信号灯。夜の光、夜の輝き。すべて静かで優しくて。

 電柱は無表情。道の白線はこころなしか笑顔。人も車も通らない。眠れない子どもと眠らない猫しか通らない。

 公園にたどり着く。ぼくと同じような、パジャマ姿で裸足の子どもたちが、何人も集まっている。男の子もいるし、女の子もいる。同じ学校の子どももいるし、違う学校の子どももいる。みんな、眠れないのだ。それだけが、ぼくたちをつないでいるかぼそい絆だった。

 猫の集会も開かれている。三毛猫、ぶち猫、白猫、黒猫。つぶらな瞳の博覧会。一本の街灯の下に寄り集まって、なにかを見上げていた。ロケットの打ち上げを見守る群衆のように、すべての猫がおもてを上げていた。

 ぼくたちも、猫たちの外に輪をつくるようにして、彼らの視線の先を眺めた。

 街灯には、だれがどうやってそうしたのかはわからないが、猫がぶら下げられていた。革のベルトで、首をきつく絞めたまま、街灯にくくりつけられていた。眼を見開いて、舌を出していた。死んでいるようだった。

 猫たちは、猫の首吊り死体を見上げて、なにかを待っていた。彼らにならって、ぼくたちも待った。猫と子どもの沈黙は、死よりも静かで動かなかった。

 街灯に蛾が群がり始めた。一匹、二匹、三匹、四匹、五匹……。どんどん増える。十匹、二十匹、三十匹……。もちろん、正確に数えてなどいられない。数十匹、あるいは百匹を越えるおびただしい数の蛾が、ぶら下げられた猫の死体に群がって、その姿を隠してしまった。蛾の群れは更に膨れ上がっていく。

 猫たちもぼくたちも、じっと見守りつづけている。

 胞衣えなが取り去られるように、死体を包んでいた数百匹の蛾が四散した。散り散りに夜の空へと去っていく。後に残された死体は、猫の姿ではなくなっていた。ぼくと同い年くらいの男の子が、街灯にぶら下がっていた。神社の神主さんのような狩衣かりぎぬ姿で、はかまを履いている。前を切り揃えた濡れ羽色の黒髪が、街灯の光に照らされて、鏡のようにぼくたちの夜を映していた。首を吊ったまま、その少年は眼を閉じている。

 死体の眼が開かれた。こちらを見下ろし、くすくすと笑った。さっきまで猫だった少年は、自分の首を絞めている革のベルトを手で掴むと、するりと器用に抜けて、地面に降り立った。彼もぼくたちと同じように裸足だった。

 遊びの夜が開闢かいびゃくした。

 パジャマ姿のぼくたちは、ポケットから各々のビー玉を取り出した。公園の石畳の上で、魂のように透明な球体をもてあそんで、それぞれに陣地を争った。猫たちは、お行儀のいい観客のように、ぼくたちのビー玉遊びを物珍しげに眺めていた。狩衣かりぎぬ姿の猫少年も、初めてゲームに触れた子どものように、つぶらな瞳をきらきらさせていた。

 遊びの時間は容易には過ぎ去らなかった。一秒が一時間の価値を持った。時の歩みを、白熱した夢が遅らせるのだ。幸せというのは、こんな夜のことをいうのだろう。父親にたびたび殴られて頭がパンクしそうな男の子も、やりたくもない習い事を詰め込まれて頭がパンクしそうな女の子も、執拗で残忍ないじめで頭がパンクしそうな男の子も、生来の病気による重圧で頭がパンクしそうな女の子も、息の詰まるような貧困で頭がパンクしそうな男の子も、みんな、遊びにこころを傾けて、眠れない痛みを忘れていた。

 夜は長い。遊びは永遠につづく。空に月が浮かぶかぎり、眠れない子どもにいのちがあるかぎり。それでも一夜は有限で、今夜の遊びにも終わりはあった。最後に勝ち残ったビー玉は、ぼくのものだった。

 ぼくは自分のビー玉をてのひらにのせて、猫少年に差し出した。猫少年は、凛とした顔立ちをくしゃりと歪めて笑った。そして、その無邪気な笑顔をぼくの掌に近づけて、魂のように透明なぼくのビー玉を、ぱくりと無造作に口に含んだ。

 猫少年は、ごくりとビー玉を飲み下すと、きゃっきゃっと笑って、ぼくの手に頬をすりつけた。ぼくも釣られるように笑い、猫少年の頭を撫でた。

 黎明しののめの気配。闇が少し薄らいだ。夜が夜でなくなろうとしていた。集会を開いていた猫たちは解散し、思い思いの方向にそれぞれ去っていく。パジャマ姿の少年少女たちも、それぞれの家路をたどり始めた。

 ぼくは狩衣かりぎぬ姿の猫少年と手をつないで、公園から家までの道を、一緒に歩いた。点滅する信号機が、拍手のような祝福を感じさせた。だれもいなかった。夜はぼくたちだけのものだった。

 家の門まで来ると、猫少年は立ち止まって、ぼくの手を離した。それ以上は、入れないのだ。門の外で彼は笑い、門の内でぼくは笑った。バイバイ、と手を振って、ぼくたちは別れた。彼の後ろ姿は寂しそうだった。夜が終わるのだ。

 ぼくは梯子のように木を昇って、二階の屋根を伝って歩き、窓から入って、ぼくが眠るべき場所に横たわった。

 もうすぐ夜が明ける。朝が来れば、学校に行かなければならない。共に遊んだだれかと会っても、どちらも素知らぬ顔だろう。昼間の頭に、夜の記憶は存在しないから。それぞれの日常を、それぞれにやり過ごすしかないのだ。

 だけどぼくたちは眠らない。今夜もぼくは眠らないだろう。彼も彼女も眠らないだろう。ぼくたちには夜がある。ぼくたちだけの夜がある。魂のように透明な夜がある。痛みを忘れさせる夜がある。死のように静かな夜がある。

 猫たちがすべてを見届けてくれるはずだ。永久とこしえの夜を、今夜も遊ぼう。

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