海のそばを、歩いていた。裸足のまま、波に浸されて。

 きょうも、猫の死体が揺れていた。ぷかぷかと浮かび、ちゃぷちゃぷと死んでいる。濡れた毛がうなだれて、捨てられた雑巾みたいだった。

 足許に死体が流れてきた。ひとつ。ふたつ。みっつ。

 うつむいていた顔を上げて、辺りを見渡す。波打ち際は、猫の死体で埋めつくされていた。波に揺られて、死体と死体がぶつかり、また離れていく。淀みに蝟集いしゅうする枯れ葉みたいだった。

 空は曇天。終末みたいな灰色の景色。

 猫の死体を踏まないように、足許に注意しながら歩く。それでも触れてしまうことはあった。柔らかい。死。鳴かない猫。

 向かいから、バケツを持った男が歩いてきた。口をへの字に結んで、面白くもなさそうに、猫の死体をバケツに拾っていく。ぎゅうぎゅうに詰め込んで、バケツが一杯になると、砂浜の一画へと歩いていき、ぞんざいにバケツの中身をぶちまけた。

 積み上げられた猫の死体は、うずたかく山をなして、座礁したくじらの死体みたいに巨大なむくろを晒していた。小さな魚が集まって、大きな魚の振りをする。そんな絵本を思い出した。死が溜まっていた。

 男は、死体の猫を一匹とりあげて、その口をこじ開け、中に腕を突っ込んだ。しばらくぐりぐりと猫の死体の内側をまさぐり、やがて目的のものを掴むと、猫の死体の喉から手を引っこ抜いた。男の手には、小瓶が握られていた。

 男はナイフを使ってコルクの栓を抜き、小瓶の中から丸められた紙を取り出した。その紙を開き、一瞥すると、もう用は済んだというように、あっさりと紙を放り捨てた。別に気落ちした様子も見せず、次の死体へと作業の手を伸ばす。慣れた動きだった。日常なのだ。

 男の捨てた紙が、風に吹かれてこちらの足許へと舞って落ちた。それを拾って、まじまじと見つめる。やはり、白紙だった。何のメッセージも書かれていない。

 男がまさぐる猫の死体たちの堆積物を通りすぎて、そのまま歩きつづけ、海岸を離れる。足の裏の感触が、柔らかな砂浜から固い石畳へと移り変わり、こころがわずかに気色ばんだ。

 歩くのは好きだ。なにも考えなくていいから。とりあえず、動いている。それだけで気が楽になった。止まると、哀しかった。だから理由もなく歩いた。

 街中を歩く。所々に、ひしゃげた軽自動車や、横転したトラックが転がっていた。ガラス片が散らばり、倒れた電柱も放置されている。もう光らない信号機に、人の死体が吊るされていた。自分で吊ったのか、他人に吊るされたのかは、よくわからない。

 立ち止まって、しばらくその死体を眺める。短髪で、頬はこけているが、何枚も重ね着しているようで、胴まわりは膨れていた。中身はきっとやつれているのだろう。性別はよくわからない。この死体も裸足だ。靴は盗まれたのかもしれない。

 立ち止まるのをやめて、歩き出す。車も走っていないし、信号機も点灯していないのに、まるで赤信号のように立ち止まってしまった。血まみれの死体でもないのに。余計なつまずきの石だった。

 次の交差点に差し掛かる。そこにも死体がぶら下がっていたが、今度は歩くのを止めなかった。かすれた横断歩道を歩く。もう意味のない、歩行者の橋。線を踏まないように歩いた。

 廃病院の前に、風船の束を持ったピエロが立っていた。泣いているような白塗りのメイクで、落ち着きなくゆらゆら揺れている。近くで見ると、道化服は破れ、汗ばんだ顔に化粧が溶けかかっていた。

 風船の束が、壊れた信号機の代わりのように、赤、黄、緑と鮮やかに輝いていて、思わず引きつけられた。もちろんそれ以外の色も揃っている。ピエロに近寄ってみると、ひとつもらえた。オレンジ色の、夕暮れのような風船を手渡してくれた。

 ピエロはいつもこの廃病院の前に立っている。患者だったのか、医者だったのかはわからないけれど、執着があったのかもしれない。病院の中には、きっとたくさんの死体が並んでいることだろう。見るまでもない。

 公園で、配給のパンをもらう。きょうのパンは、いつにも増して不味かった。風船の紐を片手に持ったまま、鳥のようにもそもそと啄む。パンを配ってくれる人たちは、帽子を目深にかぶって、こちらと視線を合わせようとしない。辛いのかもしれない。

 パンももらえたことだし、きびすを返して、街から海岸の方へと引き返す。縄張りは、そんなに頻繁に変えるつもりはない。もしかしたら、この辺り一帯がつい住処すみかになる可能性もあった。

 海岸に戻ると、男はいなくなっていた。猫の死体の山は、そのままだった。隣には、空き瓶の山が打ち捨てられていた。

 砂浜に腰をおろして、ぼんやりと沖の方を眺める。遠くに島があった。淡く霞んで、はっきりとは見えない。蜃気楼みたいだった。本当に存在するのだろうか。向こう側の楽園。

 そのうちにうつらうつらと船を漕ぎ始め、紐を手離してしまった。気がつくと、灰色の空へオレンジ色の風船が昇っていくのが見えた。夕日の偽物としては、安っぽいものだった。それなりに気に入ってはいたけれど。

 そのままぐっすりと眠る。暗くなり、花火の音で目が覚めた。もうすっかり夜だった。

 またも、打ち上げられた花火の音。夜空に色あざやかなパノラマが広がる。赤、黄、緑……。信号機のように点灯し、雨だれのように光が落ちていく。またも、大きな音と輝き。海面が照らされ、猫の死体の影が踊った。

 座ったまま、うっとりとその光景を眺める。花火は、向こう側のあの島から打ち上げられている。あの島が本当に楽園なのかはわからない。船で向かった人たちも、泳いで向かった人たちも、みんな死体になって帰ってきた。猫の死体に混じって、たまに人の死体が漂っている。それでもあそこに向かう人は跡を絶たない。銃殺でも、それはそれで、希望といえるのだろう。

 朝になった。海の傍を、たゆたうように歩く。もう歩かない猫たちの死体が、ぷかぷかと浮かんでいる。白紙のメッセージを内側に抱えたまま。

 猫をまさぐる男は、きょうは姿が見えなかった。それならそれで、構わない。捨てられた空き瓶を、拾って投げて遊んだ。猫の死体の山は、臭いのかどうかもよくわからない。慣れすぎてしまった。

 海岸を離れ、街へと歩く。

 廃病院の前の信号機に、ピエロが首を吊っていた。たぶん、自分で吊ったのだろう。なんだかそんな気がした。白塗りのメイクのまま死んでいた。きょうは、風船はもらえないようだった。

 公園まで歩くと、パンを配ってくれる人たちが、自分たちでパンを貪りつくしていた。帽子を目深にかぶって、こちらと視線を合わせようとしない。きょうは、パンももらえないようだった。

 廃病院の中に入ってみる。採光が悪く、どこも薄暗い。ロビーの椅子には、お年寄りや子どもが、呼ばれるのを待っているような姿勢のまま死んでいた。階段をのぼって、廊下をすすんでみると、どの病室の扉にも、色あざやかな風船がくくりつけられていた。赤、黄、緑……。病室の中の惨状は、いうまでもなかった。

 廃病院の外に出て、もういちど公園に戻ってみる。パンを配ってくれる人たちは、もういなくなっていた。代わりに、猫をまさぐる男が、ブランコに座っていた。ナイフで自分の喉を切り裂いていた。

 公園の外へ出る。海岸の方へと歩く。

 歩くのは好きだ。なにも考えなくていいから。なにも考えたくないから。なにか考えてしまいそうだから。

 走った。なりふりかまわず、息のつづくかぎり。脇目もふらず、力のかぎり。死に追いつけるように、死に逃げられるように。猫のものいわぬ死体しか残されていなくても関係ない。

 海が、見たかった。

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