歩行教習所
彼は歩行が下手だった。
道の向こうから、だれかが歩いてくる。彼は衝突を避けるため、自分の進行方向を微調整する。ところが、彼が再設定した軌道は、相手の軌道と不運にも重なってしまう。相手も同じように衝突を避けようと微調整した結果、相互干渉によって、避け得た衝突が回帰してしまうわけだ。人とすれ違うとき、歩行はチームプレーになる。呼吸を合わせる必要があるのだ。彼は他人の呼吸をいつも見誤った。
彼が生まれてから何万回目になるかわからない衝突を果たしたとき、彼は歩行する資格を失った。官憲たちの手によって、強制的に歩行教習所へと送られたのだ。
「いいか、貴様の歩行に対するこれまでの舐めきった態度を、一生後悔して悔い改めるように仕向けることが、私が国家から授けられた特命だ。私は容赦を知らん男だ。いわば肉挽き機と言っていい。貴様は私を怖れ、私を憎み、だが最後には感謝することになるだろう。直立二足歩行はホモ・サピエンスの基本だ。貴様はホモ・サピエンスか?」
「そうですけど……」
「声が小さいぞ! 喉にリンゴでも詰まってるのか? 何がそうなんだ、はっきり言え!」
「ホモ・サピエンスです」
「だれがだ、はっきり喋れ!」
「僕はホモ・サピエンスです」
「バカが! 僕なんて軟弱な一人称を使うやつは人間失格だ、間抜けめ! 僕とは読んで字のごとく
「私はホモ・サピエンスです」
「バカが! 貴様はまだホモ・サピエンスではない! 私の訓練によってホモ・サピエンスになるんだ! いまの貴様は私に殺されても文句の言えない畜生だ、肝に銘じておけ、恥知らずの牡豚が!」
こうして厳しい訓練が始まった。雑踏における回避、階段上でのすれ違い、スクランブル交差点での最短コースの見出だし……。
幾度となく鉄拳による制裁が加えられた。彼の自尊心は粉々に砕かれ、彼の肉体も疲弊した。だが彼の歩行は洗練されてきた。無駄な動きが少なくなってきたのだ。能力の練磨において、罵倒と暴力は常に目覚ましい効果を発揮する。
「理解したようだな。歩行が繊細なる芸術表現だということに……。貴様のステップにも音楽が宿るようになった。貴様が踏みしめる大地は楽譜なんだ。わかるか?」
「星の光よりも明快です、教官」
「わかってないな。貴様こそが星なんだ。だが、ずいぶんと成長したものだ。いよいよ最終試験だ。魔のUターン……。貴様は乗り越えられるかな?」
内容は簡単なものだった。交差点にさしかかり、横断歩道を渡ろうとする。その半ばで、忘れ物を思い出したというように、くるりと振り返って道を引き返す。そのあいだ、他者とぶつからずに済めば、合格である。
試験開始。彼は余裕しゃくしゃくだった。彼はもはや歩行に怯える赤子ではない。眼光はすでに歴戦の勇士だ。こんな単純な試験など物の数ではない。
彼は横断歩道の半ばでくるりと振り返った。そのとき。
「あ、ごめんなさい」
なんと、彼は女性にぶつかってしまった。思わず見惚れて、回避行動を怠ったのだ。
「そ、そんなバカな……」
彼はその場にくずおれた。彼はやはり、歩行の未熟な、半人前だったのだ。
「そうだ、貴様はバカだ! やはり、貴様も恋を乗り越えられなかったな! 貴様の経験、環境、遺伝子、すべてを解析して得た結果、そこにいる人間は貴様の好みのすべてに合致するとわかっている。すべてを捨てて歩行に集中すれば回避できたものを、バカ弟子が……」
彼はふたたび官憲たちの手にゆだねられた。彼は抵抗する気力もなかった。
「貴様はもう二度と自分の意思による歩行は許されん! さらばだ、負け犬よ!」
そうして、彼の脳にはチップが埋め込まれ、彼の歩行はすべてコントロールされることになった。だが、彼はそれでよかったといまでは思ってる。教習所で出会った女性と結婚し、もうすぐ二人目の子どもが生まれる。国家にあてがわれた仕事も順調だ。
彼はずっと歩行が苦手だった。なんのことはない。自分で歩くのに疲れたなら、他人に任せてしまえばいいのだ。ハンドルから手を離すのが、こんなにも快適だなんて知らなかった。自動操縦の未来は明るい。
きみも歩くのに自信がなければ、教習所に行ってみよう。愛のある叱咤がきみを待っている。
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