影の迷子

 交差点を歩いていると、世界が反転した。建ち並ぶビルや街路樹は真っ白に色が抜け、か細い輪郭線だけが残り、昼間の晴れ渡った青空は真夜中のように黒い闇に塗りつぶされた。

 横断歩道を歩いていたその少年は、自分が影になっていることに気づいて、固まってしまった。横断歩道の白線とアスファルトの見分けがつかなくなり、地面はすべて雪のような白。それでいて柔らかさのない、無機質な床面が地平線の果てまで続いている。

 境界が溶け合っている。そして、少年は影になっていた。

 見下ろす足は真っ黒。履いているお気に入りの靴も真っ黒。お兄ちゃんのお下がりのズボンも真っ黒。自分で選んだ青いシャツも真っ黒。歩く際に前後にぶらぶら揺らしていた手も真っ黒。視界にかすかに入る自分の鼻も真っ黒。

 少年は影になっていた。指定された色を無視して黒で台無しにした塗り絵のように、黒い人物となりはてていた。

 横断歩道の上で固まっていた少年を、なにかが急かした。はっとして、少年はうつむいていた顔を上げた。

 車の形をした輪郭線。窓らしき穴から覗く影の顔。そこからなにか、不快なノイズのような響きが飛んでくる。

 これはきっと、クラクションと怒鳴り声の気配だ、と少年は考えた。でも音の気配ってなんだろう。なぜこの世界には音がないんだろう。

 影の世界は、静寂に満たされていた。音もなく輪郭線と影だけが動いている。

 少年はとにかくも歩き出した。横断歩道を渡り終える。車の形をした輪郭線は、満足げに通り過ぎていった。

 さてどうしよう、と少年は思った。いまは学校からの帰り道。家に帰って早くお菓子を食べようと、少しばかり早足だった。だが、まさか家路をたどるうちに、影の世界に迷いこんでしまうとは。

 電信柱の輪郭線にもたれ、少年は考える。これは困ったことだぞ。家に帰って、お母さんもお兄ちゃんも黒い影でしかなかったら、ぼくはどうすればいいのだろう。それではみんながどんな顔をしているのか、どんな話をしているのか、ぼくにだけわからないではないか。

 少年は試しに声を出してみた。自分の名前をつぶやいてみる。もごもごと、虫がうごめくような気配しか聞こえない。思いっきり叫んでみる。やはり自分の耳には聞こえない。街路樹にとまっていた影の鳥が飛び立ち、歩きかかった影の大人が、ちらりとこちらを振り向いただけだ。

 これではぼくは絶望だ。これから先の人生、ずっと影の世界で生きていくしかないのか。

 いいや、そんなバカなことがあるもんか。こんなずるい話があるもんか。落とし穴みたいに人を突然べつの世界に迷いこませるなんて、そんな残酷なことがあるもんか。

 少年は影の世界から逃げ出すことを誓った。どんなことをしてでも、華やかな色や、にぎやかな声や、人々の顔が存在する、元の世界へと帰るのだ。

 少年はきびすを返し、いま来た道を逆戻りし始めた。

 あの交差点で影の世界に迷いこんだのなら、もう一度あそこに戻ってみればいい。きっとまだ元の世界への出入口は残っているはずだ。少年は自分の賢さにわれながら感心した。

 影と輪郭線だけの世界では道もわかりづらく、少しばかりまごついてしまったが、少年はもう影の世界に慣れ始めていた。

 くだんの交差点にたどり着いた。少年は、真っ白な地面を穴のあくほど見つめて観察し、横断歩道の位置を探った。

 ここだ。電信柱があそこで、信号機がそこなら、横断歩道はここのはずだ。

 ついに探し当てた横断歩道を、さきほどとは反対方向から少年は渡り始めた。一歩、二歩、三歩。横断歩道の真ん中にさしかかる。

 さあ、これでお別れだよ。バイバイ、影の世界。

 ところが、そこを通り過ぎても、相変わらず世界に音はなく、空は真っ黒で、人々に顔はなかった。

 何事もなく、世界が反転することもなく、少年は横断歩道を渡り終えてしまった。

 裏切られたような寂しい気持ちで少年は後ろを振り返った。すると。

 少年の眼に、自分自身の後ろ姿が映った。横断歩道を向こうへと渡って、家に向かう道を早足で歩いていく。

 その姿は、黒い影ではなかった。自分で選んだ青いシャツ。お兄ちゃんのお下がりのズボン。お気に入りの靴。肌色の手。つむじが左巻きで黒髪の頭と、背負ったランドセルだけが黒かった。

 ああ、ぼくが帰っていく。影ではないぼくが帰っていく。それなら、ぼくはもう、家には帰れないんだ。影ではないお母さんにも、影ではないお兄ちゃんにも会えないんだ。ぼくはこのまま一生、影なんだ。

 やがて、影ではない少年の後ろ姿はだんだん薄れて見えなくなり、影である少年は置いてきぼりにされた。

 そうして、少年は影の世界の住人となった。いまでも、音もなく輪郭線だけの世界を、迷子のようにさまよっている。

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