階段の町

川崎靖典

カエルとヘビ

 オレンジペコの匂いが、手のひらと鼻先を温めていく。傾けたカップからこぼれて、私の中に入っていった。

 私は伸ばした足を組み替えて、ソファーの肘掛けに体を預けなおした。顎を引いて、寝そべった自分の胸を見つめる。白のワンピースがゆっくりと上下して、オレンジペコは湯気をくゆらせていた。自堕落に浸かろう。とにかく私は気楽でいたいのだ。けれどシメジは私の気持ちを無視して、大声で喚き散らしていた。

「蛇が越してきたんですよ。一階に。これじゃオチオチ子作りもできない。どうにかしてください」

 シメジは無駄に跳びはねながら、がなり立てていた。視界の端に、ピョンピョンとシメジの緑色の体が、見切れて落ちていく。日差しが陰って、シメジにもちょっとだけ影が染みて、また落ちていった。腹から投げ出されたシーツを手繰ると、シメジは足を取られてテーブルの下に転がって見えなくなった。

「蛇が越してきたんですよ」

 いっそう大きくなった声で私は殴られた。私はカップをテーブルに置いて、寝返りを打った。ソファーの深緑の背もたれに鼻先がこすれて、私は尻を動かしてちょっと丸くなった。

 アンティークのソファーから毛のにおいがしてくる。考えて、毛のにおいとは何だろうかと、私は首を傾げた。夕方の時間が好き。もう少しで夕方になる。夏の空気は緩み、冬の空気は漸く温まる。どちらもまほろばの刻だ。すぐに溶けて、何もかもが現実に戻っていくのだ。確かに存在する夢の場所なのである。ミモザの自慢のトロフィーたちはガラス戸の中で金色に輝くだろう。夕飯は何がいいですか、ミモザは低い声で丁寧に聞いてくる。こちらも自慢の鼻を揺らしながら。

 ミモザは象の癖に、私より少し大きいくらいの体しか持たない。それで一人前だという。親元を離れてもう、三十年は経ってますよ。ミモザは初対面の時に、何がそんなにおかしいのかと言うぐらいに上機嫌だった。

 その日私は電車に乗っていたのだけれど、気が付いたら大鳥居の立つ、駅にたたずんでいた。電車を降りた記憶もなく、持っていたはずのバックもなくなっていた。辺りを見回しても見覚えのあるものがないばかりか、人の姿もなかった。振り返っても乗ってきた電車は見つからず、呆然とする私の前にはどこまで続いているのかわからない、すすき野原が広がっていた。線路もなくなっていて、代わりに折れた枕木が数本だけ転がっていた。

 足元には砂利がひかれていて、鳥居の向こうには枝分かれとつづら折りを繰り返す坂の町があった。あちこちから土色の階段を突き出して、町は山腹に根を張っていた。山のてっぺんにも鳥居が見えた。多分今目の前にあるものよりも、もっと大きな鳥居だ。私は鳥居の脇に立ち、呆然としていた。心細かった。どうしようもないぐらいに。気がつきと私は泣いていた。泣きはらして、声も出なくなるぐらいまで涙で顔がぼろぼろになってから、ようやく私は歩き出した。ジーンズに入っていた携帯電話と、財布を何度も触って確認しながら、私は町の階段を登った。

 しばらくしてお腹が減ってきて、メジロが売っていた何かの串焼きを買えずに私が困っていると、ミモザがやってきた。

 串焼きは縁日で売っているような見た目をしていたけれど、何の肉かわからなかった。三回ほど聞き返すと、メジロに、買うのか、買わないのか、と怒鳴られて、私は慌てて財布から千円札を引っ張り出した。メジロは煙たそうな顔になって、はあ、と言った。

「なにそれ」

 羽で店先の看板をさして、メジロはくちばしをしゃくった。看板には五百圓と書かれていた。その瞬間、私は自分がものすごく愚かなものになった気がして、何も言えなくなってしまった。私が財布を手にしたまま固まっていると、反対から歩いてきたミモザにどうかしましたか、と声をかけられた。

 ミモザは私とメジロを見回して、代わりにお金を払ってくれた。

 ミモザは私の財布からはみ出た千円札をながめて、隣町の方ですね、といった。


 まだカエルが煩い。シメジはテーブルの下から這い出て、遠慮なく私の体によじ登ってまた無駄に跳ねている。服の上からだったけれど、冷たいものを押し付けられたような気がして、私はソファーの背もたれの方にいっそう顔を背けた。

「土地屋が許可したんでしょ?」

「ですけど」

「だったら問題ないじゃない。それにあんたらは誰も肉を食わないじゃない」

「節理じゃなくて、性の問題なんです」

 相槌を打つのも億劫になり、私は目を閉じて反抗した。シメジの声はやかましいだけで、私の気持ちに何のささくれも残さなかった。

 ここの住人は、肉も野菜も食べない。けれど腹はすくらしく、生鮮食品の店もあるし、飲食店もある。じゃあ、何を食べるのか、と訊いたが、よくわからない答えが返ってきた。私も住み始めて長いので、自分が何を食べているのか気にすることはなくなってしまった。食べた物には毎回味もするし、ミモザとの食事は楽しいので良しとしている。

 ミモザと住むにあたって、私は大ムカデの事務所に挨拶に行った。大ムカデは本当に大きかった。とぐろを巻いた状態でも、ミモザの三倍はあって、それが地鳴りのような声で頭上からいたって事務的に話しかけてくるので、私は終始あっけに取られていた。大ムカデはエンピツという名前だったが、大体の人(?)は寝床屋と呼んでいた。

 町で寝るには寝床屋の許可がいった。

 住むためには土地屋の許可が必要だった。土地屋は、これまた大きなイタチである。

「あの、昨日はごたごたしてまして、そのまま泊めてしまったので」

 ミモザは首からぶら下げた巾着から薄紅色の紙切れをムカデに渡して頭を下げていた。寝床屋とのやり取りはそれで終わった。町に住むには他にも色々と許可が必要で、私はミモザに附いて、それこそ町中の階段を上り下りして回った。

「あの、昨日、住まわしてしまったのですが」

「昨日は泊めただけやろ。かめへん。今日からの分だけ、判子ついといて」

 私はイタチから渡された紙にぐりぐりと拇印を押した。書類にはお狐様の鍵紋様と、『今日から』という文字が書かれていた。お狐様。この町はお狐様の膝元ですから。後になって私はミモザから聞かされた。

「トリガラ!」

 シメジは怒ると私のことをトリガラと呼んで馬鹿にしてくる。それだけミモザの事務所で顔を付き合わしているのだが、彼を邪険には出来なかった。お客だからというよりも、シメジの仕事がにぎやかしなので、彼も仕事をしているだけで、怒ると私が悪者になるのだ。シメジの仕事はいちゃもん屋で、彼のお兄さんの仕事は野次屋なのだそうだ。

「トリガラって言うな」

「お前の仕事はなんや」

 私はほぞを噛んだ。私の仕事は萬屋だ。

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階段の町 川崎靖典 @kawasaki-yasunori

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