第11話

 ミツエと初めて口付けを交わした若かりしあの日、彼女は言った。


「私の家や、会社はきっとこれから貴方に富も名誉ももたらすけれど、重荷にもなるはずよ。あなた、その覚悟はあって?」


 私の胸に抱かれたままでそう言い放つ、強がりながらも泣きそうなミツエの声。


 きっとこれまでにも家や会社のために、幾つかの別れを経験してきたのだろうと思った。


「イツビシの名が重いことは分かっているよ。全て上手くいく、任せてくれなんて今は自信を持って言えないことも確かさ。でも、だから、君と一緒に生きていきたいと思ってるんだ。君と一緒に、乗り越えていきたいんだ。君となら、それができそうなんだ」


 ミツエは潤んだ目で私の顔を見つめてきた。

 白く滑らかな、涙で濡れた頬を拭ってやると私はミツエに深い深い口付け落とした。


「幸せになりましょうね、私たち」


 互いの唇が離れた短い合間に、ミツエが小さな声で囁いた。


 彼女の折れそうに細い身体の感触、髪から香るかぐわしい花の香り、私の愛撫に応えるように背中を撫でる小さな手。

 全てが愛おしかったあの日。


 今日の今日まで愚痴も文句も言わず、私に尽くしてきてくれた。

 彼女が居なければ、私が仕事にここまで専念できることはなかっただろう。

 ありがとう、ミツエ。


 エリは全てが完璧のように見えて、実は料理が苦手だ。


 彼女もそれがコンプレックスだったようで、自宅マンションに招かれた時も食事は買ってきていたらしいデパートの惣菜などを皿に盛り付けて出していた。


 しかしある日、カレーを作ったから食べに来て、と連絡があった。

 珍しいこともあるものだと思ってから、思い出した。


 あれは会社で会議を終え、部下たちと雑談していた時、カレーは水気が多い方が良いか固めの方が良いかとくだらない話になったのだ。


 私は確かその時こう言った、「なんにせよ、カレーは手作りに限る。昔に母が作ってくれたカレーは美味かった。久々に手製のカレーが食べたいものだ」と。


 そう、妻は料理に長けていたが、カレーを作ってくれることはなかった。


 理由を聞けば、カレーは幼い頃から通っている五ツ星レストランのシェフが作るものが最高なので、それしか食べたくないからと言うものだった。


 秘書として傍らでそれを聞いていたエリが、手作りカレーをご馳走しようとしてくれているのだと理解できた。


「美味しいとは言えないけど」と盛り付けたカレーを差し出してきた彼女の手指は絆創膏と火傷の痕だらけであった。


 エリが言った通り、焦げているのに固い野菜に大きさが不揃いなせいか火のとおりきっていないものがある牛肉、スパイスを遥か彼方に感じる味の薄いルーに柔らかすぎる米と、決して美味いカレーではなかったが、ちょっとした雑談の中の一言を覚えていてくれたことが嬉しくて残さず平らげた。


 無理しないで、と言いながらも私が食べる姿を見て嬉しそうに微笑むエリの顔は、どの瞬間よりも美しかった。


 思い出すのはどれも優しく美しい彼女たちの姿ばかり。


 ミツエがイツビシの娘でなければ――。


 エリが造反を企てるようなことがなければ――。


「本当に残念だ。君たちのような素晴らしい女性を失うことになるのは、私の人生の中でも一番の痛手だよ」


 二人に向かって、そう言った。

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