第5話

 妻と二人、こうして長く同じ空間にいるのはいつぶりだったろうか。

 ミツエを助手席に乗せ、長野の別荘へと車を走らせながら、ぼんやりと記憶を辿っていた。


 あれはマサシが産まれるよりもっと前、デートで湘南へ海を見に行った時だ。


 私もまだまだウブな時だった。

 夕焼けの美しさと儚さに心を震わせながら、ミツエの肩を抱きよせ口づけた懐かしい思い出。

 その後のホテルでの熱い一夜は今でも忘れられないほど興奮とエロスに満ちていた。


 そうだ。


 彼女だって付き合い始めは良く笑い、良く怒る女の子だったのに一体いつから今のようなテンプレートなつまらない良妻になったのだろう。


「あなた、ここを左ですよ」ミツエが隣で言った。


 思いがけなく蘇った記憶を更に掘り下げようとしたが、中断せざるを得なくなった。

 これから起こるだろう事態を思うとさすがの私もいくらか緊張を覚えたからだ。


 目の前に見えてきた別荘の駐車場にはすでに車が一台停まっていた。

 エリの車だった。


 長野の山深いところに避暑目的で建てた別荘だったが、最近はあまり利用することもなくなっていた。

 周辺に家屋は勿論、建物すらない、静かで俗世と離れたい時にはうってつけの場所だ。

 そして今回のような話し合いの場にもピッタリだった。


 適当に車を停めると、ミツエは助手席から颯爽と降りもう一台の車、エリのもとへ歩を進めた。

 早足ではなく、どちらかと言えば悠然とゆったりと歩いている。


 私は慌てて後に続いた。


 ミツエは一番のお気に入りである総絞りの着物を着ている。

 詳しくは知らないが、どこかの人間国宝は染め上げた高級品で値段は付けられないほどのものらしい。


 エリはというとタイトでシンプルな黒のパンツスーツ姿で、あちらもゆっくりと姿勢正しく私たちの方に向かって歩いてきていた。

 派手に着飾らなくても自身の美しさが一級品であると自覚しているのか、モデルがランウェイを闊歩するような自信に溢れた歩き方に思えた。


 すぐに、正妻と愛人が相対した。

「本日はお時間を頂き誠にありがとうございます、ハマノ エリと申します」

 仕事で見せているビジネス用の笑顔とともにエリが先に口を開いた。


「イツビシの妻のミツエでございます。初めまして、ではございませんわね」

「はい、何度かお届け物をさせて頂きました」

 ミツエも負けず劣らず余裕の笑みを浮かべて対応してみせた。


 とても折り目の正しい、朗らかな挨拶だった。


 何も知らない他人が見れば、まさか妻とその愛人の会敵の真っ最中だとは思えないだろう。


 あの日の夜、エリによって届けられた手紙と写真を前にしてミツエはこう言った。


「これまで私は貴方様の行動には必要以上に干渉してきませんでした。それは貴方はこのイツビシ家の当主としての役目を果たしていて、私もまたその妻としての役目を全うすることが役割だと考えていたからですわ」


 ミツエは自分の夫の痴態を目にしたとは思えないような冷静な声でさらに続けた。


「しかし今回のこれはどう考えても行き過ぎた行動です。ここまでしてきたこのお相手を見過ごすことは、イツビシの名折れにもなりましょう」


 ミツエはそう言い放つと、長野の別荘で話し合いの場を設けること、日時の設定などをエリに伝えるように言ってきた。


 それまで私の後ろを二歩も三歩も下がって着いてくるしか出来ないと侮っていた妻から、強い意志を感じた瞬間だった。

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