鳴らない拍手

高村 芳

鳴らない拍手

 僕が一歩踏み出すと、会場は拍手で満たされた。舞台上の照明がいつもより眩しく見える。観客席は反対に暗く見えるけれど、誰もが自分に視線を注いでいることだけは肌でわかる。手のひらに薄く汗をかいていた。鼓動の速さに急かされることのないように、なるべくゆっくりと舞台の中央へと進む。


 艶やかに光るピアノの前で立ち止まり、一呼吸置いてから客席の方に向き直る。照明の光が降り注ぐ中でも、すぐに母を見つけることができた。コンクールの演奏が始まる前の母は、必ず両手を胸の前で握りしめているからだ。深くお辞儀をした後で母と目を合わせると、小さく頷いたように見えた。


 僕は椅子を座り慣れた高さに調整した。目の前に美しく整列する白と黒を見つめる。どの位置にどの音が息を潜めているのか、目を瞑っていてもわかる。拍手が止み切った静寂の中で、私はここだよ、ここだよ、と、最初に奏でる鍵盤が僕に呟いてくるからだ。小さな、小さな、僕にしか聞こえない声で。


 僕は勢いよく、肺から空気を押し出した。


 次の瞬間、僕は鍵盤に導かれるように指を動かす。

 腱が、筋が、神経が、脳が、心が、音を求めているのがわかる。


 ピアノを弾くことは、貝殻を集めることに似ている。砂浜で綺麗な貝を探すように、鍵盤に潜んでいる一つひとつの綺麗な音を見つけては丁寧に拾い集めていく。音を内包した空気は観客の鼓膜を揺さぶり、同時に僕を支配する。

 僕は鍵盤という階段を駆け上り、白い世界へと達した――。


 肌がざわつき、喉の奥から叫びたくなる。照明の光が瞼に透ける。何も見えないのに、また此処に来られたことへの嬉しさが、踊り続ける指先に満ちていった。



 僕がピアノを弾きたいと言ったとき、母は何も言わずに楽譜を買ってくれた。楽譜が入る大きな鞄も作ってくれたし、どんなに忙しくてもピアノ教室へ車を走らせてくれた。白い世界を訪れる回数が増えるごとに、参加するコンクールの数も増えていった。


 一心不乱にピアノに向かい合う僕を見て、

 動かない指が恨めしくて楽譜を破り捨てる僕を見て、

 求めていた音に出会えて涙を流す僕を見て。


 耳の聞こえない母が、どういう気持ちだったのか。僕には、わからない。

 わからないけれど、ピアノを弾く僕を見守ってくれていた母の眼を、僕は一生忘れないだろう。



 鍵盤から指を離した瞬間、たちまち拍手は渦になり、僕の耳に流れ込んできた。白い世界から現実の世界に戻ってきた僕は、瞬きを数回して、観客席の母に視線を向けた。


 母の両手が顔の横で振られている。手話での拍手は、まるで花が風にそよいでいるかのようだった。

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鳴らない拍手 高村 芳 @yo4_taka6ra

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