運命の五分前

夜依伯英

五分前

 その日は、久しぶりに一人で帰ることになった。部活の道具をしまうのが他の人たちよりも少し遅れたからだ。学校を出て、自転車に跨ると、俺は中毒者気取りで息をついた。一年の終わりが近づいていることを、冷たい風が教えてくれる。まだ秋。されど、もうすでに秋。きっとすぐに冬が来て、春が来る。そうして、俺はクラス分けという運命の抽選をする。そうなったら、俺はあの人と話せなくなってしまうかもしれない。中学生にとって、クラスというのは特別な檻だった。それが違うというだけで、少し話しづらくなってしまうかもしれない。俺は憂慮した。深く、深く憂いでいた。一緒の教室で学んで、ふざけて、遊んだ。この、大体一年くらい。


 部活が終わったばかりなのに、もう日が沈みそうだ。悶々とした気持ちを、ずっと抱えていた。暖かい日も、暑い日も、一緒に居た。他の二人を、後ろから眺めていたあの人。四人で遊ぶことが多くなったのは、今年から。小学生の頃は――つまりは去年までは、全く交差しなかった僕たちの人生が中学校に入っていきなり重なった。俺以外の全員の矢印が俺に向いていたのは、正直知っていた。一人は迷った矢印だったから、敢えて揺さぶったこともあるけど。そして、俺は、その中の一つを選んだ。人は選択せずにはいられない。そうやって事態ケースは進む。勿論、選ばなくても良いことは良いはずだった。寧ろ、選ばないほうが良かったのかもしれない。それでも、俺は選んだ。惹かれた。心が勝手に彼女に向いた。


 部活のときに見える木々が段々と色を変えていくのを、俺はあの人を想いながら見ていた。小学生のときも誰かを好きだと思うことはあったけど、それでもこんな風に恋を感じるのはまだ初めてのことで。俺はどうすればいいのか分からないまま、長い時間が過ぎてしまった。きっと大人たちにとってはほんの一瞬の、長い長い約一年。長袖で部活に挑むようになってから少し経った。相変わらず先生が怒号を散らす、そんな部活。その仲間たちには、やはり彼女という存在はなかった。恋をしなさそうなメンバーでもあった。周囲には数組のカップルの噂が立っていて、俺は関心のない振りをした。中学生らしい、ただの強がり。内心では、周りが先に進んでいくのを焦りながら見ていた。俺もそっちに行きたいと、何度願ったことか。それでも、昔は具体的な相手を想定しなかった。今は、強くあの人を想っている。


 随分と髪が伸びたなと、頭を掻く。昔は短くしていたそれも、中学の校則では禁止だった。視力は順調に落ちて、眼鏡のレンズは厚くなっていく。あの人の色素が薄い髪と目が、俺の視線を奪うそんな日々。俺は、あの人と「特別」になりたかった。それを恋人という形で知っていた。だから、俺は付き合いたかったのだ。今のままでも想い合えるのは分かっている。それでも形が欲しいと願うのは、強欲だろうか。もしかしたら、あの人は俺のことを好きじゃないのかもしれない。俺がそうだと思っていた矢印は、友達としての好きなのかもしれない。急に怖くなってきた。どうしよう。ずっと俺は迷っている。この恐怖は、きっと好きであることの証明だ。俺は彼女に、確かに恋をしているのだ。そうでなければ、恐れることなんて一つもないじゃないか。だからこそ、俺は踏み出すべきなんだ。


 他の人たちはどうやって恋人同士になったんだろう。重いペダルを踏みしめながら、坂を上る。もしかしたら、坂の上には彼女がいるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、自転車を漕ぐ。先輩たちだったら立ち漕ぎしなくても上れるこの坂も、俺はそれでは上れなかった。先輩たちだったら、恋愛ももっと上手にできるのかな。きっとできるのだろう。俺は羨ましかった。いつもは馬鹿にしているくせに、こういうときだけ憧れる、なんて都合の良い人間なんだろう。そう自嘲する。きっと俺は卑劣な奴だ。意地の悪い人間だ。それでも、彼女に対しては誠実にいることができたと思っている。ただの自惚れかもしれない。ナルシストなのかも。それでも、それでも俺は、彼女が好きだ。たとえなんであれ、俺が彼女のことを好きなのだ。それは絶対に変わらない。のだ。


 よし、賭けよう。俺はそう思った。もし、彼女の家のほうを通って帰って、彼女に出会ったらそのときは、俺の想いを伝える。出会わなかったら、恐らく二度と告白の機会はない。最初から、きっと腹は決まっていたのだ。そうでなければ、こんな賭けには出ない。信号が青に変わる。心拍数が上がる。本当に、人は恋愛でどきどきするんだな、とかそんな下らないことを考えながら、俺はペダルを漕ぐ。もし会えたら……もし会えたら……ずっとそんなもやもやが心の中を蠢く。もうすぐ、坂を上り終える。第一のチャンス。ここで会えたら俺は告白する。――そう決めた。


 坂を上がりきったところ。ここにはよく先輩が溜まっている。しかし、その日は何の気まぐれか誰一人としてそこで停まってはいなかった。冬に似た空気が頬を刺す。どこから来たのか分からない荒涼感。孤独感。凄く淋しい。人が恋しくなってくる。ざっと目の前の道を見渡しても、オレンジの空が広がるだけ。俺の他に人がいなくなってしまったかのような、そんな錯覚に陥る。いっそ雨でも降れば良いのに。そのほうがきっと美しいのに。淡い期待を、快晴が裏切る。ああ、田舎だな。風景が風景でしかない。そこに人々の暮らしは映し出されない。やっぱり独りだ。一人でいることは嫌いじゃないが、孤独は愛せない。


 そうだ、きっと急がないと会えるものも会えない。そう思い立って、俺は勢い良く青信号に突っ込んだ。走る。はしる。彼女のもとへ、早く行きたい。いつもは左折する交差点を真っ直ぐそのまま行って、俺の心も真っ直ぐ彼女へと。急げ、俺。これはきっと世界がくれたギフトだ。もっと急げ。脚の筋肉が悲鳴を上げ始める。それを無視してずっと漕ぎ続ける。想いが俺をそうさせた。もっと早く、俺はのだ。そうでなければいけないのだ。


 漸く住宅街に到達した。いるか? 否、見渡す限りは一人の影も見えない。それでも、このとき俺は、彼女に会える気がした。なぜだかそう思った。次の角を、曲がる。いた! 彼女だ。心の中で叫び続けながら、俺は必死にそれを追う。彼女の背中。ヘルメットの下から伸びる綺麗な髪。


 走る自転車が並び立ったとき、俺は運命を感じた。この数分で、日は没してしまいそうになっている。こういうのを、たしか黄昏時という。きっと世界のサプライズ。俺への祝福。


「待って」


 俺の声に、彼女が首を傾げる。普段だったら坂で会えなかった時点で、俺は直接家に帰るはず。それを彼女も知っているから、少し怪訝な顔。


「どうしたの? 何しに来たの?」


「告りに来ました」


 間髪入れず、俺はそう告げた。もう、その時点で恋の告白だった。覚悟を、再認識。俺は彼女にしっかりと言うんだ。彼女の、色素の薄い茶色の瞳をじっとりと見つめて、俺は言葉を続けた。


「好きです。俺と付き合ってください」


 上手く言えたのか、分からない。頭が上手く働かない。でも、しっかりと、その次の彼女の言葉を聞いた。


「いいよ」


 それは、全てに対する赦しのように思えた。それが聞けただけで、俺は生まれてきたことに感謝した。今までの行い、今までの自分。今この瞬間が全てを肯定している。


「ありがとう」


 俺は、彼女に――それから今までの全部に――感謝した。

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