おじいちゃん先生のごきげんなお菓子教室
エリュシュオン
シンプルなチョコレートプリン 1
美緒ちゃんの家のバレンタインデーパーティーまで、あと一週間。
ダイニングテーブルの真ん中にはボロボロに崩れた黒い物体。
「……苦い」
いつもより二時間も早く起きて、お母さんにも手伝ってもらったのに……。
焼きたての真っ黒なクッキーもどきの破片は、ものすごく硬かった。
もう、十回目だ。
お母さんも硬くて黒いクッキーもどきをかじって、諦めたように言ってきた。
「杏、やっぱり市販品にしたらどう?」
思わず椅子から立ち上がった。
「イヤだっ! 絶対に手作りお菓子をあげたいの!」
「けどね……確実に美味しい方が喜ぶと思うわよ? 無理して背伸びをする必要はないわ」
言い返せなかった。
わたしは俯いて、静かに椅子に座り込んだ。
喉の奥から熱いものが込み上げてくる。
マグカップのミルクティーで流し込もうとしたけど、渋みが口の中に広がってくる。
わたしも美緒ちゃんみたいに、手先が器用だったら良かったのに。
ミルクチョコレートを使ったはずのチョコクッキーもどきに、わたしは溜息しかつけなかった。
中休みになっても、口の中に苦みと渋みが残り続けた。
朝の会の前にも、一時間目が終わってからも口をゆすいだのに。
貼り出されている給食の献立を見てみると、今日はカレーライスだった。
わたしは思わず肩を落として、次の授業がある理科室へ向かった。
渡り廊下の窓の向こうの空には分厚い灰色の雲がかかっていた。
最近、ずっと曇ってるなー。
渡り廊下を抜けて三階へ上がって行く。
するとふと、美味しそうな甘い香りが廊下に漂ってきて、顔を上げた。
お菓子の匂いだ!
鼻をひくひくさせながら、香りのする方へ歩いて行く。
香りがしてきたのは、理科室の向かい側にある家庭科室からだった。
恐る恐る室内を見てみる。
エプロンと三角巾を頭に巻いた六年生が、何かを作っていたのだ。
会話を聞いていると、ひとりの女の子が嬉しそうに声を上げた。
「うわあ! メレンゲクッキー、めっちゃ美味しそう!」
口の中の苦みと渋みが消えていく。
よだれが一気に溢れ出てきて、急にお腹が空いてきてしまった。
女の子たちの班がメレンゲクッキーをつまんで、ぱくつく。
食べたいなー……!
わたしが食い入って見つめていると、誰かが声をかけてきた。
「どないしたん?」
「うわあっ!」
心臓が止まりそうになった。
思わず声を上げて、顔を上げる。
するとエプロン姿のおじいちゃん先生が不思議そうに見つめてきた。
「ご、ごめんなさいっ! 廊下からいい匂いがして、つい……」
急に顔が熱くなってきて、わたしはぺこぺこと頭を下げる。
怒られる……っ!
怖さで体を強張らせてしまう。
だけどおじいちゃん先生は柔らかな関西弁で言ってきた。
「君、お菓子好きなんか?」
「えっ?」
自分でもびっくりするくらい間抜けな声が出た。
とりあえず頷くと、おじいちゃん先生は嬉しそうに微笑んだ。
「そうかそうかぁ。可愛らしいもんなぁ、お菓子はなぁ」
「…………」
どうして怒らないんだろう。
わたしの方が不思議に思っていると、おじいちゃん先生は言ってきた。
「ちょっと待っといてな」
家庭科室の奥の方へ歩いて行くと、おじいちゃん先生は紙皿を持って来た。
その上には綺麗なチョコレート色のメレンゲクッキーが。
「どうぞ」
「い、いいんですか?」
「担任の先生には内緒な」
お茶目な笑顔のおじいちゃん先生の言葉に甘えて、わたしは紙皿から一つ、つまんだ。
小さなクッキーをかじると、サクッと軽やかな食感がした。
口の中でしゅわっと解けて、ふんわりとチョコレートの甘さが残る。
「美味しい!」
笑顔が弾けて、目を輝かせてしまう。
あっという間に消えてしまった口当たりが名残惜しくて、もっと食べたくなってしまう。
するとおじいちゃん先生がエプロンのポケットからあるものを取り出した。
何かのチラシのようなもので、呟くように読み上げる。
「お菓子教室?」
「そう。良かったら放課後にまたおいで。もうすぐバレンタインデーやし、とびっきりのお菓子を教えたる」
バレンタインデー。
とびっきりのお菓子。
さっきまで沈んでいたはずなのに、今すぐ飛び跳ねたくなってしまう。
「ありがとうございます! 絶対に行きます!」
「待っとるよ」
ふんわりと微笑んだおじいちゃん先生に、わたしは深くお辞儀をした。
するとちょうどチャイムが校内に鳴り響き出した。
慌てて向かい側の理科室へ駆け込んで、楽しい理科の実験が始まった。
だけど、わたしは上の空だった。
とびっきりのスイーツ。
思わず未知なる味に想いを膨らませてしまう。
放課後のチャイムが校内中に鳴り響くのが、この上なく待ち遠しかった。
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