鎌倉 幽専萬屋 番外篇

櫛木 亮

頭では理解出来ても、心では、理解出来ないモノ

 町は、冬の装い。

 夏に青々と育っていた葉も、ゆっくりと黄色や赤に姿を変え、静かに散っていく。朝晩の肌寒さに季節の変わり目を感じる。アイロンで綺麗にシワが伸ばされたワイシャツに袖を通して、俺は肩に少しだけ力が入った。


 妨げられた眠りは、軽い苛立ちに変わる。

 居候の猫が俺を踏み台にして、クローゼットに飛び移る行為をなんとかしたい。あるいは、俺が居候に懇切丁寧に躾をするべきか。寝起きの頭では考えても、すぐに答えは出なかった。


「彰さん…… もう支度にどれだけかけるんですか。お洒落好きのお母さんですか?」

 ひょっこりとドアから西口が顔を出し、頬をふくらませる。可愛くない。それはもう、断じてだ。たとえ世間が認めても、俺は認めない。


 ところで、今年で西口よ、おまえはいくつになったんだ?

 初めてあったのは、まだまだ幼く、人の後ろに隠れて、照れくさそうに下を向いていたな。そのあどけなさは、可愛さと無邪気さを混じえて、近所の誰もが彼を可愛がってくれた。なんともありがたいことだ。今とは、大違いだ。

 今、俺の前に立っているコイツは一体誰だ? 返せ! あの頃の可愛かった西口を!


「……誰がお母さんだ。誰が」

「えっと、彰さん?」

「改めて、言い直すな」

「だって、彰さんが聞くから」

「そういうことじゃないだろうよ……」

 軽い言い合いをしていると、ドアをノックする音が部屋にこだまする。


「そろそろ、御二方ともよろしいので? 時間ですよ」


「ああ、橘。いつでも行けるぞ」

「もう通りに車が来ています」

「そうか。じゃあ、行ってくる。後のことは任せたぞ」

「……ええ、お気をつけて行ってらっしゃいませ」


*****

 冬の緩い坂道にこじんまりとした店。

 雪路と寅路の成田義兄弟が営む、フラワーショップ。

「ダンデ・ライオン」

 四季折々の花が軒先を囲むように置かれているこの店は、お客がこぞって足を運ぶ。値段がリーズナブルなのが幸をそうしたのか。はたまたイケメンという部類の義兄弟などという、ミステリアスな響きに女性の奥底に眠る、「恋する乙女ルーツ」を鷲掴みにするのだろうか? 男四人の事務所だから、いくら捻っても素敵な答えなど出るはずもなかった。


「なんていうのが正解かしら? そうね〜 お兄ちゃんの雪路さんの声がお腹に響くのよ。低くて、それでいて、綺麗な高音なのよ」

「あら〜 弟さんの寅路さんは、長身にしっかりとした体幹で凄いのよ」

「そうねそうね。それなのに繊細なのよね〜」

「みんなが魅了されちゃうのよね」

「ね〜」

 斜め向かいの和菓子屋の高校生のバイトの女の子二人が、うっとりとした表情で教えてくれた。


 なんだろうか。このもやもやした感じは。イライラではない。あくまで、もやもやなのだ。




「彰さん…… それ、嫉妬…… モテない自分を認めたくないのよね? ね? ね?」

 なん……だと? モテない? 誰がだ?

 あと、何の「ね? ね?」なんだ?


「あれ? 伝わってなかった? いや、だからね? 彰さんは〜」

「もういい…… 皆まで言うな」

「ああ、認めちゃったのね…… なんかごめんね、彰さん……」

「やめろ…… 謝るな。あと、哀れんだような目で俺を見るな」


 西口は表情を変えていく。

 驚いた顔、ため息ひとつ。悲しみを醸し出す寂しい笑顔。

 ……もう、やめてくれ。



「お茶入れまし…… って、蜂谷さん…… ウイスキーか、強めのブランデー入れますか? 少しですが、気は紛れるかと……」

「賢太郎…… おまえまで……」

 温かな湯気と共に現れた賢太郎が慌てたようにトレーを持ち直し、キッチンに戻ろうとする。


「………」

「橘…… お前は頼むから、声を発してくれ」

「あ、いえ。ええ……ごめんなさい」

 橘がドアの傍で立ち尽くし、何も言わずに一瞬だが目を逸らしたように見えた。その後の意味不明な謝罪。もういい。やめてくれ。


 木枯らしが吹く窓に、湯気った結露が白く冬を演出していく。部屋の温度も皆も冷ややかだ。どうした?

 俺が何をした?


 もう、なんなのコイツらは……



――case 0

 スリーパーホールド。

 裸絞 (はだかじめ)

 柔道、プロレス、総合格闘技で用いられる絞め技の一種である。講道館や国際柔道連盟(IJF)での正式名。IJF略号HAD。現代仮名遣いにより、裸絞めと表記するのが一般的。


 対処法は形が完成する前に相手の片手を掴んで腕を潜って防いだり、しのいでいる間にフックされている脚を何とかして外して向かいあったり、立ち姿勢で背後から不用意に前傾でかけてくる相手は背負い投げで前に落としたりだが、どれも出来ずに形に入られた場合には最後の抵抗として即座に顎を引いて相手の腕を下に入れさせない方法がある。ただし、顎を締め手の内側に挟んでも慣れた者はそのまま顎締めに繋いだり顔を上げさせる方法を心得ていたりしているため、形に入られたまま顎をひいてしのぐ。


 まあ、そんな簡単じゃないんだよね。

 え? なんの話だって?

 後に分かるさ。今回は、そんなお話。

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