第16話 草の民

 目が覚めると、ヴァンは広い円形のテントの中に寝かされていた。狼に噛まれた左腕には包帯が巻いてある。まだ焦点が定まらない目で辺りを観察すると、横に誰かが座っているのがぼんやりと見えた。


「ここは、どこ、なんだ」


 朦朧とした意識の中で、ヴァンはなんとか擦れた声を絞り出す。


「ヴァン、目が覚めたの。良かった、心配したのよ」


 アリサが、ヴァンの体に覆い被さるようにして抱きつく。


「痛い。ちょっと、痛い」


 アリサは慌てて体を離し、ごめんなさいとヴァンの顔を覗き込む。

 喜びか安堵か、アリサの目には涙が溜まっている。


 上体を少しだけ起こしてもらい、アリサの手伝いで水を一口だけ飲む。

 視力が徐々に回復して、アリサの顔がはっきり見えるようになった。


「アリサ、ここは何処なんだ」


「あのね、ヴァン、狼に襲われた夜のことは覚えてる」


「ああ、狼の群れの襲撃を受けて、俺が左腕を噛まれて・・・」


「そう、あの時、馬に乗った集団に私たち助けられたのだけど、あの人達は草の民だったの」


「草の民・・・」


「そう。草原の遊牧民。このテントは草の民の家なの」


 アリサは、普通の家の二間分ほどの広さがある周囲の空間を見回した。

 壁も天井も白い羊毛で出来た布で覆われている。中央には暖炉があり、密閉された空間は暖かい。床には絨毯が敷かれ、その上に山羊皮の敷物を重ねた寝床が幾つか作られている。ヴァンも山羊皮の上に寝かされていた。


「そうか。草の民に会えたのか」


「偶然なのか神の思し召しなのか、願いがかなったの」


「アリサは今までずっと看病してくれていたのか」


 アリサは照れるように頷いた。だって、心配だったから。


「そうか、ありがとう。ごめんな、アリサも疲れているのに」


「私は大丈夫。ちゃんと眠ったから」


「そうか、他の皆は無事なのか」


「うん。他の人は怪我もなく、みんな元気にしている」


「安心した」


 意識が回復しきっていないのか、まだ頭がぼやけている。



 テントの幕が開いてグランが入って来る。


「あら、気がついたのね。良かった」


 グランはヴァンの顔を覗き込むようにして顔色を観察し、親指で下瞼を裏返して状態を確認する。次に片方の腕を取って袖を少しだけ捲り、手首を抑えて脈を測ると、特に問題なさそうね、と言って笑顔を向けた。


「ありがとう。やっぱりグランなんだな、俺の怪我を治療してくれたのは」


「そうよ。だって私はだもの」


 グランは得意げに胸を張っているが、アリサは全く要領を得ない。

 あなたの医者って、なに・・・。

 

 グランはいたずらっぽく笑うと、アリサに分かるよう昔語りを始めた。


 私は治癒魔法を得意とするギルドの仲間だったのよ。ただね、治癒魔法は人間が本来持つ治癒能力を高めるだけだから、小さな傷や軽い病気程度しか直せなくて。大きな怪我や病気にはどうしても医者は必要になるでしょ、だから私もアリサぐらいの年の頃に、少しだけ医術的なことも勉強していたの。


 ブルーノ以外は知らない話だけど、元々私はアリサと同じ魔道士だったの。私も修道院で学んでいたわ。治癒魔法にもっと詳しくなりたいと魔導士になったのだけど、修道院は魔法体系と将来の行政官や司法官を育成する場所でしょう、望んでいた勉強が出来なかったから私は一年ぐらいで辞めてしまったけどね。



 アリサはグランが魔導士だったことや修道院にいたことに絶句する。

なるほど世話係に難なく採用されたのも、その経歴があったからかもしれない。元魔導士であれば教会について多少の勝手も分かる。それにまさかギルドとは思うまい。

 横になっているヴァンも朦朧とした薄い意識の中で、グランの話を聞いていた。


 修道院を辞めた後は街の病院で治癒魔法の勉強を続けながら、雑用を手伝っていたの。生きていくのにお金も必要だったしね。修道院は良かったのよ、食事も出るし寝床もある、それでいて全て無料だもの。時々二等魔導士の手伝いをすればお小遣いも稼げた。辞めてしまうとどうしようもないけどね。

 

 街の病院にいた時に、少し年下の女の子と仲良くなったの。原因が分からない病で入院していた患者さんだった。なんか馬が合ってね、とても可愛くて妹みたいに思っていた。その娘は商人の娘さんだったんだけど、ある時、親の商売が上手くいかなくなって、入院に必要なお金が払えなくて退院することになったのね。私はその娘に会いたかったし、病気のことも心配だったから、病院には内緒でその娘の家に通ったの。私で出来る治療は続けた。


 ある時から、母親が得体のしれない連中に騙されて、娘の病気は病ではなくて魔族の呪いだって言いだして。商売の事とか娘の看病で精神的に参っていたんだと思う。もう治療の必要はないと、私は家への立ち入りを拒絶されて、その娘には二度と会わせて貰えなかった。


 暫くして、その娘は亡くなってしまった。呆気なかった。

 私は自分の不甲斐なさに絶望した。その上、その娘の母親からは、貴方のせいだ、力も無いのに無駄な治療を続けて、病気を悪化させた。もっと早く、呪術を解くお祓いをしていれば死なずに済んだはずだ、そう言って散々罵倒された。呪術の件は別としても、私の力不足は母親の言う通りよ。


 私は悔恨と自己嫌悪で自暴自棄になった。病院も辞めて、医者を志すことも魔法を使うことも止めた。それから暫くはすさんだ生活を続けていたわ。ある時、酒場でブルーノと出会ったの。東の村から来たっていうから、出会ったその場で私を街から連れ出して欲しいって頼んだの。もう街にいるのが嫌だったのね。

 ブルーノは二つ返事で承諾してくれたわ。後で里に行ってみて分かったけど、女手が足りなくて丁度良かったみたい。ブルーノの帰りに合わせて街を出た。



 アリサはグランが経験した苦難と挫折を想像して胸が苦しくなった。グランは私にその娘を投影しているかもしれない。だから、二度と後悔しないように必死に守ろうとしてくれるのだ。


 グランは、少し暗くなっちゃたわね、と言いながら話を続けた。



 暫くはギルドの里で隠れるように生活した。男たちの世話とちょっとした怪我の治療をしながら、目標もなくただ淡々と生きていた。


 そんな時よ、ヴァンがギルドに来たのは。まだ小さくてとても可愛かったわ。年の離れた弟みたいでね。ところがこの子、魔法が使えないし効かないっていうじゃない。だから怪我をしてもね私の治癒魔法なんてまったく効果がないのよ。仕方ないから私も一から医術を勉強し直したわ。もちろん簡単なものだけだけど。


 他のギルドの仲間は少々の傷なら自分で治すか、誰かに治癒魔法をかけてもらって終わりになるけど、ヴァンだけは違った。怪我した、転んだ、足をくじいたって、いつも泣きながら、グラン、グランって私のところに来るの。もちろん私も嫌ではなかった。だって本当に可愛かったもの。


 そうやって、ヴァンのためと思って始めた医術の勉強に、やがて私も熱中していった。ヴァンはね、私に医者という生き甲斐を思い出させてくれたの。ルブニールに移ってからは二年間、本職の医者の下について真剣に学んだわ。私にとってはとても充実した二年間だった。私はヴァンに大きな恩がある。だから、ヴァンの身体はこれからも私が守っていくつもりよ。



 知らなかった、そうだったんだ。

 寝ながら聞いていたヴァンは、朧げな意識の中で思う。

 ヴァンにとてはグランは初めからお医者様だった。なんでも治してくれるグラン。それがヴァンにとってのグランだった。恩人と言われて気恥ずかしかったが、ちょっとした怪我で泣いてばかりいたあの頃の自分が、グランの役に立っていたのかと思うと嬉しかった。


 アリサは二人の関係を微笑ましく思った。ただ、それ以上にグランが歩んで来たこれまでの壮絶な人生を知って、憂鬱な気分だった。


「グラン、とても大事な話をしてくれて、有難う」


「ちょっと湿った話だけどね。アリサにはいつか話そうと思ってたの」


「私に、どうして」


「そうねえ、どうしてかしら。人っていろいろ挫折したりするけど、いつかは自分の進む道が見つかるから信じて前に進みなさい、ってことかな。アリサが最近ずっと悩んでいるようだったからね」


「グラン、有難う。本当に大好き」


「あら、有難う。本当は若くてたくましい男に言ってほしいんだけどね」


 グランは照れて軽口を叩いた。


 話し終わると、グランはまたヴァンの治療に戻った。ヴァンの腕を持ち上げて巻いてある包帯を取り、傷口の様子を観察しながら丁寧に薬を塗る。そして新しい包帯を巻くと、医者らしく診断を伝える。


「幸いにも傷は深くなかったけれど、強く噛まれたせいで右腕の骨に少しひびが入っているの。それでも怪我としては大したものではなくて、数日経てば腕は動かせるようになるから安心して。勿論、大人しくしてればだけどね」


「いつもありがとう、グラン」


「どういたしまして。ところでヴァンはずっと寝ていたからお腹すいてるんじゃない」


「少しだけ。俺はどれだけ寝ていたの」


「丸二日間」


「そんなに。二日間も寝ていたのか」


 頭を殴られたような感覚があり、急に意識がはっきりした。二日も寝ている場合じゃない。俺にはやることがある。先を急がなければならない理由がある。焦りが湧いて慌てて起き上がろうとする。


「駄目よヴァン。じっとしてなきゃ」


 アリサが咎めるように言って、ヴァンの体を両手で強く抑える。

 グランが起き上がったヴァンの額に手を当てて、熱がないことを確認すると、大丈夫そうねと言いながら、三角巾を使って左腕を吊るしてくれた。


「ヴァン、よく聞いて。焦らなくとも大丈夫。草の民がくれた情報なんだけど、私たちの思惑通り、追跡していたラグたちがあの村に入り遺体を見つけたの。多少はまともな人たちだったようね。追跡を一時中断して、あの老人を連れてシェーブルの街に戻ったそうよ。それで事の次第を報告したものだから、今や街ではこの噂で持ちきりらしいわ。国中に噂が広がるのも時間の問題ね。だから、教会としても、しばらくの間は何も出来ないと思うわ」


 そうか。それならばグランの言う通り焦る必要はないかも知れない。


「だから、ヴァンは大人しくして、いまは怪我を治すことに専念してちょうだい」


 グランは食事を持ってくるからちょっと待ってて、と言って部屋を出ていった。





 入れ替わるように大柄で熊のような風貌の男がテントに入ってくる。


「気が付いたようだな。良かった。私は草の民のおさでダダンというものだ」


 ヴァンは上半身だけで姿勢を正してお礼をいう。


「俺の名前はヴァン。助けてくれて、ありがとう。おかげさまで怪我もたいしたことなさそうだ」


「それは良かった。遠くから見ていたが狼のさばき方はなかなかのものだったぞ。あれで腕に革防具でもつけていれば、傷も受けずに完璧だったけどな。狼と近接で戦うときは、まず体の一部に噛みつかせて、狼の動きを止めてから剣で急所を刺すというのが常道だ」


「うん。今なら分かるよ。噛みついた腕からはなかなか離れようとはしなかった。あの状態なら、剣で刺すのはさほど難しくはなかったからね。ただ、ものすごい痛みだったけど」


「まあ、牙が食い込んでいたからな。それでも急所が外れていたのは不幸中の幸いだ。運が悪ければ骨が砕けていた」


「ああ、運が良かった。それに別の狼が来ていたら確実にやられていた」


「とにかく助かって良かった。まずは怪我を治すことだ。暫くはここでゆっくりしていれば良い」


「ありがとう恩に着る。俺は何も出来そうに無いけど、手伝えることがあれば何でも言ってほしい」


 草の民の親切が身に染みた。命を助けてもらった上に、安心して寝て居られる環境と食事まで提供してくれる。感謝してもしきれない。



 横で話を聞いていたアリサが、ずっと疑問に思っていた事を口にする。


「ところでダダン。あの夜のことだけど」


「なんだね、アリサ」


「最初は、私たちに向けて矢を放ったわよね。どうして」


「ああ、アリサが見たことも無いような巨大な炎の塊を狼に向けて放とうとしていたからだ」


 ヴァンも思い出した。アリサが作り出した炎は強力で巨大だった。

 あれほどの魔法を放てば、狼の群れも全滅するし、大地は剥がれ草木も燃え尽きる。ダダンはヴァンやアリサたちの蒙昧もうまいさに苦言を呈した。


「我々は草の民だ。草原を移動しながら放牧をし、狩りをして生活をしている。草原に生きる動物や鳥、草や木そういったものと共存しているんだ。もちろん狼とも共存している。そこには”調和”というものがある。だから狼といえども群れを全滅させるようなことはしない。我々のところにも、羊や山羊を狙って狼の群れが襲ってくる。もちろん一部を殺してしまうことはあるが、基本は追い払うことを考える」


「それはどうして。狼がいなくなれば、羊や山羊が襲われることもなくなるでしょう」


「要は数の問題だ。我々が徹底的に狼を狩るとする。そうすると狼を天敵としていた、野生の山羊や馬、大角鹿などの動物が狼に狩られることがなくなり個体数が増える。やつらは草原の草を食べる。あまりに頭数が増えすぎると、今度は草を食べつくしてしまう。それは我々にとっても命に係わる問題だ。

 また、動物の糞や死骸は大地を肥やす。草木が育つもとになる。だから一定の数と時間で生死が繰り返されるのが最も調和してるのだ。もし狼の群れが増えすぎたときは今度は我々が狩る。

 つまり、バランスと調和の問題なのだ。だから草の民は軽々しく魔法を使わない。この草原に共存するもので無くなって良いものなど一つもない。みな大地に生まれ大地に還るのさ」


 アリサにとっては目から鱗だった。そういった考え方もあるのか。

 大地に生まれ大地に還る。

 とても草の民らしい教えだと思った。


「ごめんなさい。私、何も考え無しに、ただ狼に怯えて魔法を・・・」


「いいさ。知らないということは罪ではない。知ろうとしないことが罪なんだ。分かってくれればそれで良い」


 寛大であった。おさとはこういうものなのかとヴァンは思った。きっと自分たちのあるべき姿と成すべきことが明確に分かっているのだ。


 俺もいつかは分かるのだろうか。

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