二〇二〇年のホームカミング

 実家もわたしも四十四歳だ。

 そのせいか、わたしは二つ違いの兄よりも、二階建てで赤い煉瓦に覆われたこの家の方がよっぽど肉親みたいに感じられる。次男のわたしが生まれてわたしたち一家は、墓地を見下ろす坂の上の捨てられた段ボールの束みたいな家から、つきみ野の住宅地に移ってきた。

 最初から最後まで家で暮らした母はとうの昔に世を去り、父にせよ兄にせよ、わたしたち一家の男たちはどういう理由か一度は家を出て、また数年から十数年すると家に戻ってきた。今、家には父と兄が男二人で住み、わたしは故あって退職してから実家には戻らなかったものの、東京を離れて自転車で数分の近場に越してきた。これは実家に出戻ったのとほとんど変わらない。

 わたしが家に戻るたびに、父も兄も本当によく家で寝ていた。すっかり腰の悪くなった父は、和室の障子ぎわに寄せたベッドと、リビングのテレビ前の長ソファで交互に寝そべるのに一日の大半を費やしていたし、不規則なシフトの夜警だった兄は、そもそも出勤か在宅かの判別も付かなかった。

 兄は在宅でも、たいていは夜勤明けで熟睡していたので存在感が大気みたいに希薄で、たまに家の廊下などで出くわすと、ホテルの廊下で見知らぬ宿泊客とすれ違った時のようなバツの悪い思いを互いに味わって、飛行機の搭乗時間が迫っているみたいに、「元気?」とか、「変わりない?」と口早に確認し合ってはさっと家の中で別れるのだった。

 父はわたしが戻ると少しは話につき合ってくれるが、たいていは腰痛を理由に和室に引きさがるのが常だった。わたしの他に誰もいない、静まり返った広い邸内は、墓前の静けさや打ち捨てられた花束の侘しさを連想させた。

 そもそもこの家には、生者よりもここで死を迎えた者の方が多く、饐えた埃じみた彼らの気配の方が、寝てばかりの父や兄よりも強いくらいだった。

 今や誰からも見放され、育ちすぎた葡萄の蔦が黒いフェンスのようになった裏庭では、かつてクロとシバの二匹の犬が飼われていた。今も庭の隅に灰色に褪せながら、忠犬の辛抱強さで家主を待つ犬小屋が置いてあった。

 階段の昇降がわずらわしくなった父が寝床に定めた和室は、多くの死者の代々の寝室だった。わたしたち一家が三世帯で住んでいた頃の、母の祖父母、父の祖父とその祖父の長男がこれに当たり、今にして思い返すと、なぜわたしたち家族だけが彼らと同居してきたかが全く分からない。

 わたしは帰宅すると、リビングと一間続きになったダイニングテーブルの隅に着き、ソファで寝そべってワイドショーを見る父の世間話に付き合いながら、ヘルパーが父と兄の為に作った食事にありつけるのを我慢強く待った。今のわたしは、五キロの無洗米を一袋買う金にも事欠く身だったから。

 父が和室に下がって少しして、裏庭に面した窓外をクロとシバがちょろちょろ横切り始めると、頃合いがきた合図みたいなものだった。

 温め直した料理を台所から運んできてくれるのはたいてい母の祖母で、この人は母の親だけあって、生まれながらに人の面倒を見る役目を負ったようなところがあった。

 母の祖父はわたしが幼ごころに見ても、癇癪もちの子供みたいに我がままな人で、今もしているようにテーブルに着いたまま梃子でも動かず、「はやく飯を持って来い」だの、「今日はカレーにしろって言ったろ」だの、言いもしないことを気分に任せて喚き散らす人だった。祖父は妻には強かったが、娘には弱かった。わたしの母のことだ。わたしの母が祖父の母のようだった。わたしの母は目力の強さには親族の間でも定評があり、あんな口ほどにものを言う視線にはついぞお目にかかった覚えがない、ともっぱらの評判だった。

 祖父がテーブルからきいきい喚いて度がすぎると、いつも祖母の後ろから母が顔を覗かせて、吊り下げられた肉を保存する冷凍室みたいな目で祖父を睨むと、祖父は決まって目の前の皿ほど興味深いものはないといった様子で、静かに視線を落とすのだった。

「おお、おお、戻ってきたか。無職なんだから遠慮せずに食え食え、どんどん食べな」

 自分は何もしないのに、鷹揚な素振りを見せるのが好きなのは父の祖父の長男で、弟の祖父と見事な対照を成していた。

 父方の祖父は、母やその母がわたしに料理を振る舞うたびに、「その餃子は出さんでいいだろ」とか、「それは多すぎる。もう一掬い分減らさにゃ」などと言っては、歯が痛くて仕方ないみたいなしかめ面をした。何でもこの祖父は、戦時中のひもじさを生涯忘れなかったそうで、当人がひもじさそのものと化した。

 わたしが彼らを放って食べ物を咀嚼して飲みこむことに専念していると、いつの間にかテーブルは彼らに占拠され、そのたびにわたしは食事時の養護院とはこんな感じなのだろうかと思った。

 母は生前からわたしを性質の悪いなまけものと見做していて、それはわたしが四十を越えた今も全く変わらない。母はわたしの向かいの席に腰を下ろすと、例の目でわたしを見ながら尋ねてきた。

「あんた、昨日はどうだったの? ちゃんと書いたんだろうね?」

「書いたよ。それしかやってないんだから」

「何枚?」

「六枚」

 この枚数はわたしには及第点だが、母はそうは捕えない。不満も露わに、もうちょっと書かなきゃねと零すと、ご飯の御代わりはいるかと尋ねた。私は頷いて、空の茶碗をさし出した。母はわたしが近所に越して十年近くぶりに帰省した際に、小説家になりたいというわたしの希望に大いに憤慨したが、結局最後はいつも渋々と後ろ添えしてくれるのだった。わたしが新しいことに手をつけるたびに、三ヶ月続かなかった小学一年のスイミングスクールの件を持ち出すが、今も必ずその話をしてわたしを戒めてきた。

 口論を炊きつけるのが好きな母方の祖父が、母に便乗してわたしを大声でなじると、途端に母の叱責が飛んだ。

「ちょっと! 今夜勤明けで寝てるんだから、声抑えて」

 母は昔から兄に甘かった。母方の祖父が咥え煙草を持ち上げるみたいに、唇の端だけで器用に笑みを浮かべた。

「いっつも寝てるんだから、少しくらい寝不足だって構わんだろ」

 台所の緑のすだれから顔を覗かせた母の祖母の顔も、劣らず苔のような重たい緑色だった。母の祖母が困り顔で夫に言った。

「うちらは永久に寝てるからいいけど、生きてる人は、それはもう眠くて眠くて仕方ないものなのよ。生きるのは、とても疲れるんだから」

「そりゃ、身体が弱いだけだろうが」

 母の祖父が吐き捨てると、そこにいたどの死者も声を上げて笑って、死人が何を言うかと囃したて、母の祖父が顔を微かに赤くした。

 帰るといつもこんな感じで、わたしの家はまるで屋根付きの墓のようだ。

 わが家は赤い三角屋根で赤レンガの壁に囲まれて、パステル調の他の家とは明らかに浮いているのに、墓のように灰色じみたよそよそしい印象があった。

 法事の折に母方の墓石を開けて、櫃に収まった骨壺を見下ろすと、丸い壺が隙間なく敷きつめられて骨と骨が肌身を合わせて密着していたが、わたしはダイニングテーブルに集う彼らに囲まれるたびに、その光景を思い出す。中は存外騒々しい。

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