鬼聞抄
江川太洋
訃報
著名人の訃報に衝撃を受けた覚えが誰しも一度はあると思うけど、それは死後だいぶ経って接した知人の訃報の比ではないと私は思う。
女子大を出てすぐ結婚、出産、育児に追われた私が
その訃報を知らなかった間、私は折々に真理を思い返しては、今どうしてるのかなと想像することがあった。面倒見が良かったから、今頃はきっと素敵なお母さんになってるんだろうなどと私は思っていた。想像の中で子連れの真理とばったり遭って互いに子供を見せ合ったり、お母さんがすっかり板に付いた真理を想像して勝手に胸を熱くしたり、ある意味では共に齢を重ねたとも言える真理の訃報を耳にした違和感から、私はなかなか立ち直れなかった。
特に戸惑ったのが、卒業後の姿をあれこれ想像してきた真理が、実際には存在すらしていなかったという事実との落差だった。
その訃報を知らなければ、私は未だに真理が何処かで生きていると思っていたし、そうなると個人が認識する知人の消息とは一体何なのだろうと、私はすっかり考え込んでしまった。個人の認識においては、知人の実際の生死はさして重要ではなく、訃報に接したかどうかの方が遥かに重要なのではないか? 訃報に接して(或いは直に死を看取って)初めて、本当のその人の生死が確定されたと言えるのではないか?
私は三十を越えたばかりだが、それでも幼稚園から今の職場まで、もはや記憶にも上らない無数の人たちと人生の一部を過ごしてきた。その人たちの去就も知らないのに勝手に死んだことにもできないから、私の中では何となく生きている側に分類しているが、うち何人かは確実に亡くなっているだろうし、ひょっとするとその数は私の予想を遥かに上回っているかも知れない。それどころか知らなかっただけで、実は知らずに危うい均衡を保って、膨大な死者の群れの側に何とか転げ落ちずに済んできただけなのかも知れなかった。
こんなことを考えるうちに、私は逆に自分がどう認知されているかが気になってきた。仮に私が死んだとすると、訃報も知らず面識もなくなった大多数の人たちの中では、私は生きているとも言い難い曖昧さでとりあえず生きている側に分類され、それよりは多少繋がりのあった人たちの中では、もう少しだけ鮮やかな姿形を留めて各人の印象に残る形で生き続けるのだとしたら、死ぬことや本当の私が一体何を示すのかが、いよいよ分からなくなってきた。
訃報を知ったことで私の中から真理の実在は絶えたが、私はそれが真理の消尽を意味するなどと思いたくなかった。中にはきっと未だに頭の中で真理を生き永らえさせている人がいて、私はその人の中で生き続ける真理の話が聞きたかった。その話を聞くことで、訃報が人間の生死を定義付けるという愚かな考えを消し去りたかった。
私に訃報を告げた
帰国子女で語学に堪能だった彼女は外資系の会社に就職し、そこで知り合ったヤコブとかいうデンマーク人と婚約してコペンハーゲンに移住してしまった。私が同窓会に出席した当時も美佐子はまだコペンハーゲンだったが、それからしばらくすると、結婚生活に敗れたとかでいつの間にか一人で帰国していた。
美佐子と疎遠がちになっていた私は、帰国後に一度だけ、美佐子の家の近所のイタリアンレストランでランチを食べたことがあった。美佐子は結婚生活について多くを語らず、もう二度とコペンハーゲンには住まないとだけ言った。
私は美佐子なら、今なお頭の中で真理を生かしているに違いないと目星を付けた。真理に話題を誘導しつつも訃報は告げず、美佐子が認識する真理の話を引き出すことを意識して、私は休日の昼下がりに美佐子に電話した。すぐに電話に出た美佐子は、かつてのイタリアンレストランのランチの時のように、あらと屈託のない声を上げた。外国で身に付けたのか、まるで裏表を感じさせない快活さで私の連絡を喜んだが、受話口からくぐもった他の人の声が聴こえてきた。
「今、お客さん来てるの? 悪いから、またかけ直そっか?」
私がそう言うと、美佐子は可笑しそうな笑い声を上げて、それは大丈夫よと言うと、逆に訊き返してきた。
「ね。今、うちに誰来てると思う? こんな偶然もあるんだって思って、今ちょっとびっくりしてるの」
「ん? それは私の知ってる人ってこと?」
美佐子は私の質問には答えずに、まるで角度の違う話をマイペースに喋り始めた。
「ほら、私ったらコペンハーゲン行った時、昔の人脈全部切っちゃったから、こっち戻ってもしばらくぼっちだったじゃない? そんな時に人伝に私の話を聞いたみたいで、一緒にご飯どうって誘ってくれて。そっから二月に一度くらいかな、うちに遊びに来てくれるようになったんだよね」
「はあ」
「実際に話してみる?」
私に尋ねてきた美佐子の口調は、悪戯をそそのかす子供みたいにはしゃいでいた。美佐子は私の返事も聞かずに通話口を手で覆ったらしく急に受話口の音声がくぐもり、もごもごという音の向こうから美佐子の「真理、真理ー」と呼ぶ声がして、私の心臓が一気に跳ね上がった。思わず美佐子を止めようと私が口を開きかけた時に、スマホを持ち返る際のごとごとという雑音と共に美佐子が嬉しそうに言った。
「良かったねー、真理もあんたと話したいって」
「え、ちょ――」
「ちょっと待ってて」
美佐子が言ったと思うと、スマホを手渡しする時の空気を切る音の後にスマホを持ち替えた音がして、受話口から声がした。
「もしもし」
私は絶句した。女にしては幾分低めなこの声は聞き間違えようがなかった。どう聞いてもその声は真理以外にあり得なかった。
「え、嘘? 何で」
「もしもし」
「えーっ何でえ、ほんと真理なのお?」
真理は私の質問には答えず、一方的に私に訊き返してきた。
「今、何考えてるの?」
混乱の極みに達した私に向かって、美佐子に聞かせることを前提にしたような、秘密めかして抑えた声で真理が続けた。
「もし本当のこと言ったら、相良さんも一緒に連れてくね」
相良とは私の旧姓だった。頭から氷水を被ったような気分になった私は、電話だから見えないのに子供が嫌々をするように被りを振り続けた。受話口から、「ね、今の、何の話?」と追及する美佐子といなす真理の会話が途切れ途切れに聴こえてきた。頭が飽和した私は電話を替わった美佐子と会話が続かず、通話も尻すぼみに終わった。
二、三日後にようやく多少自分を取り戻した私は、もう二度と自分から美佐子に連絡することはないと思ったが、今度は折に触れて美佐子のことを考えるようになった。真理が電話に出て私の肝を潰した時よりも、もう何年も実際に真理の訪問を迎え入れてきた美佐子が、私以外の誰かの口から眞理の訃報を聞かされた時に受ける衝撃の方が、遥かに大きいのではないかと。
私はこのことを思い返す度に、美佐子が心配でたまらなくなった。
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