　夜空に撃ち上がる信号弾を目撃した隊員は意外にも多かった。同時に、件の小隊と思しき通信が回線へ入って来た事も、多くの隊員が確認している。ここまで生存を仄めかす現象が起きているにも関わらず、小隊は僅かな間にその行方を完全に晦ましてしまったのだ。

　中隊本部の前には「状況中止」の報を受けて集まった３個小隊が並んでおり、本部班に所属する隊員たちが天幕の中で現在の状況と、演習中断を連隊本部へ報告するのを遠巻きに眺めている。同時に、腑に落ちない表情で指揮を続ける中隊長へと全員が視線を集中させていた。

「第２小隊への呼び掛けは続けろ。夜明けを待ってから捜索を始めると連隊本部には報告してくれ。それとヘリが必要だ、可能なら朝までに呼び付けられるかの確認も頼む」

「了解しました、直ちに実行します」

「各員は陽が昇るまで待機だ、今の内に休んでくれ。朝になったら忙しくなるぞ」

　隊員たちが、別の場所に設けられた天幕の休憩所へと入って行く。そんな中、ある２人の隊員が話している内容を、中隊長は小耳に挟んでいた。

「あの噂じゃないのか？」

「ただの昔話だろそれ」

「でもこの辺で起きたって話だぜ」

「何百年前の事だよそれ、幾らなんでも大昔過ぎるぞ。どんな巡り合わせだよ」

「まぁそう言われると確かになぁ」

　よく分からないが、何か確証を得ない小さな情報を持っているように思えた。しかし今は捜索の方が最優先だ。それで見つかってくれれば何も問題は無いし事を荒立てないで済む。

　指揮所の簡易ベッドで自分も少し横になると、さっきまで思っていた事はすぐに忘れてしまい、暫しのまどろみに身を任せた。

　暫く時間が経ち、接近して来るヘリのローター音で目が覚めた。我々の要請に応えてくれたのは、第１０８飛行隊に所属するＵＨ－１が２機と、最近配備されたばかりのＵＨ－６０ＭＲが１機。観測救難ヘリのＯＨ－６ＳＲも１機が駆け付けた。部隊を束ねる南沼三佐にここまでの経緯を話し、飛行計画の打ち合わせを行ってある程度の内容が煮詰まった所でもう１度仮眠をとった。

　空が白み始めた頃に起き出し、熱いコーヒーを飲んで目を覚ます。本当ならば今日の夕方には帰れる演習だったのが、ここに来て大事になってしまった。まだ暖かい季節だが、山の中はそれに反して冷え込む事も多い。早急に発見しなければ隊員の生命に関わるだろう。

　夜が明け、朝露が森の木々を濡らす中を３個小隊が進んでいく。上空は第１０８飛行隊のヘリ４機が飛び回っていた。消息を断った第２小隊が予定していた移動ルートに沿って捜索を行うが、誰一人として仲間を発見する事が出来ていない。見つかったのは彼らが残したと思われる大量の足跡ぐらいである。しかし、どうにも妙な感じだ。第３小隊陸曹の窪井陸曹長がしゃがみ込んで荒らされた地面を見つめる。

「何でしょうねぇ、移動の途中で足を止めて密集したように思えます。その後は蜘蛛の子を散らすように無作為な感じで走り回った痕跡が沢山ありますね」

　第３小隊長こと松島三尉も同じような印象を受けていた。この辺りは陸自の演習場であり、人の手によって管理された地区である。野生動物も可能な範囲でその種類や生息圏が把握されており、熊の類が生息しているという情報は何年も確認されていなかった。

「予想も出来ないトラブルが起きたって所か」

「無線が通じない事にも納得がいきません。信号弾まで撃っておきながら、自らその存在を隠す必要があるでしょうか」

「仮に熊と出会ったとして、それに追われていると考えるのはどうだ」

「であれば尚の事、実弾を携行した訓練ですからこの際は緊急避難で撃ってしまっても良いかと思われます。機関銃や無反動砲、果ては爆薬まで持った１個小隊が行方を晦ますなんて、考えにくい事ですよ」

　何か、自分達には計り知れない事が起きているように感じた。しかしどれだけ考えても答えは見出せない。松島は一計を講じ、通信担当の隊員を呼び付けた。

「試しにここから２小隊へ回線を繋げてみてくれるか。我々が気付かないだけで、もしかすると意外と近くに居る可能性もゼロとは言い切れん」

「了解、繋げます」

　第２小隊へ交信を図る様を横で見つめていたが、残念ながら何も応答は無かった。夜は聴こえた雑音が今は消え失せ、全くの無音になっている。

「どういう状態だと思う」

「回線自体は開かれています。応答が無いのが腑に落ちませんが……」

　全てが納得のいかない事だらけだ。何が起きているのか見当も付かない。そして不思議と、山中を探しても見つからない気がすると言う考えが強かった。第２小隊は何所へ消えてしまったのかと出口の見えない思案を繰り返しているそこへ、第４小隊長の中村二尉が姿を表した。

「松島三尉、ちょっとこっちへ」

「何でしょうか」

　中村に連れられた松島は、地面が荒らされた一帯から真西へ２０ｍほどの所にある草地へ案内された。しゃがみ込む中村の足元には、不自然な窪みが形成されていた。それもたった１つだけである。

「これ、何だと思います」

　窪んだ地形に沿って指を這わせた。明らかに、何かで潰されて出来たものである事が窺える。一段下がった所の草は全て押し潰されていた。土も窪んだ分だけ露出しており、均等な深さになっている。

「草が潰れてますね、自然に発生した物ではないように感じます」

「ここから無数の足跡まで直線で約２０ｍあります。何かしら関連があるように思えませんか」

　やり取りをしている内に、謎の視線が２人を貫いた。見られているのが感覚だけだが分かる。それも普通の視線じゃない。何か圧迫感のような物も感じ取れた。

　そっと立ち上がった２人は自然に振舞いつつ、お互いの死角を補うように辺りを瞬間的に見渡した。しかしながらその視線の主もそれらしき人影も認識出来ない。足早にその場を離れて、部下たちと合流を図る。

「さっきの、何ですかね」

「………いや、見当もつきません。早いとこ戻りましょう」

　納得し切れない何かを残したまま捜索を再開した。その後、３時間ほどかけて第２小隊が移動する予定だったルートをくまなく調べたが、さっきの場所以降は一切の痕跡を発見する事が出来なかった。やはりあの場所で何かが起き、それによって第２小隊は姿を消したというのが捜索に向かった第３第４小隊の隊員たちによる一致した見解となる。しかし、あそこで何が起きたのかは謎のままだった。それでも一応の報告をするために中隊本部への帰路を急ぐ。

　気付けばやかましく飛び回っていたヘリも補給のためか姿を消し、風に揺れる木々の音が爽やかな雰囲気を作り出していた。木漏れ日も降り注ぐこんな気持ちの良い場所に、一体何が潜んでいると言うのだろうか。

　その頃、中隊長は一足先に本部へと戻って来た第１小隊からの報告を受けていた。第１小隊は別ルートから山の反対側へ回り込み、第２小隊が到達予定だった地点の周辺を捜索したが、やはりこちらも成果はゼロだったらしい。

　あの時間はこの周囲に自分達しか居なかった筈だ。何所か別の部隊が紛れ込むなんて事は絶対に有り得ないし、一般人がおいそれと立ち入れる場所でもない。演習の前には事前に管理の人間が山を歩いて野生動物の確認をしているから、熊の痕跡があれば今回の演習はそもそも中止になっていただろう。全てが分からない事だらけだ。

　そんな中、第１小隊長である佐原一尉は部下たちに待機を命じて中隊本部に残り、自分が気に掛かっている【ある事】を話そうとしていた。

「中隊長、もしかすると小耳に挟まれているかも知れませんが、不躾な内容を承知でお話したい事があります」

　その言い方から導き出される答えは１つしか考え付かなかった。出鼻を挫くように喋り出す。

「夕べに噂話をしていたのは１小隊の人間か」

「ご存知でしたか。彼らは４班の隊員でして、実を言うとこの周辺の出身者なのです」

　それは初耳だ。しかし５５普連はその８割が地元出身者で構成される充足率の高い部隊である。それを考えれば、この周辺で産まれた人間が居ても不思議ではない。

「自分も噂程度ですが、この山中一帯に関わりのある伝説を聞いた事があります」

「神隠しの類か？それとも得体の知れない化け物が人を食うだの何だのか？」

「いえ、少し毛色が違います。話せば長くなりますが、要するに常世に関する伝説のようなものがあるようです」

　常世とは確か、海の向こうにある極楽浄土だかの事だったと記憶している。その伝説が山の中にあるとはどうにも理解出来なかった。しかし伝説の類はそもそも根拠の無い物も多い。人から人に伝達する過程で全く違うものへ変貌していく物もある。そういう意味では判断の基準にはならないだろう。何よりも非現実的すぎるし、まだそんな物に縋らなければならないような状況でもなかった。

「山は確かに人知の及ばない部分を持っているとは思う。若い頃の話だが、山中の演習で夜間に敵陣地の至近で歩哨している最中、前方１０ｍぐらいの所を誰かが堂々と横切ったのを見た事がある。見間違いだと思いたいが、確かに人だったんだ。互いに少しの物音でも分かる距離であんなに堂々と姿を晒すなんて普通じゃない。対抗部隊だった隊員や助教連中にすら否定された時は寒気がしたぞ」

「叔父が青森の部隊を一昨年に退官して久々に会った時の話ですが、例の八甲田を中隊行軍していた際に、謎の足音や旧軍の格好をした兵士を実際に目撃しているそうです。こういう場合は気付かないフリか目にしても気にしないのが良いと教わりました。向こうが存在を感知されたと思って、憑いて来てしまう事が多いらしいです」

「ここで心霊話をしても仕方あるまい。まだこの手の情報に頼るべきじゃないのは分かってるが、頭の片隅には置いておこう。他に何かあるか？」

「いえ、ありません。こんな所でしていい話でもないのは承知しています。失礼致しました」

　軽く会釈した佐原一尉が指揮所テントから出て行く。中隊長自身、心霊の類をそこまでアテにするつもりはなかった。しかし、言葉や状況で説明がつかない今にはやはり、何かしら得体の知れない力を感じずにはいられないのが心情でもある。