8.Hempel's Crow


 ここで生きている人間はみんな幸福らしい。

 人間がみな幸福ってことは、幸福でないものは人間でないってことだ。

 ここに不幸な人間は存在しない。ということは僕はきっと人間ではないんだろう。あるいはそもそも存在なんてしていないのか。実はちっとも不幸じゃない、なんて意見を、僕は受け入れない。僕が不幸であるかどうかは、僕自身が決めることだ。


 ***


「そこでなにをしている!」

 突然の怒鳴り声に口から心臓が飛び出るほど驚き飛び上がり、その場でつんのめり勢い余ってでんぐり返った僕にあははという笑い声が降りかかる。

 見上げると果たして、そこにいたのはクラスのマドンナのヒメで、実に愉快そうに泥まみれになった僕を仁王立ちで見下ろしている。

「びっくりした?」ヒメは笑う。

「御覧の通りだよ」と僕は言う。

 ヒメはヒメと違和感なく言われるほど可憐であるので、その笑顔を向けられては僕とて怒るに怒れない。ため息をついて立ち上がり、土に汚れた服をはたいて髪を整える。

「なにしてるの、こんな森ん中で」とヒメは改めて問う。

「森じゃない、ビオトープだよ」つっけんどんに、声色に警戒心をにじませて僕は答える。

 普段、学校では僕とヒメはほとんどしゃべらない。グループの違いというか、いわゆるスクールカーストっていうやつだ。そのトップをひた走るヒメにはいつも数多くの友達が付き従っており、僕にはその輪に入るべくもない。そもそも僕はどのグループにも所属していない。栄誉なき孤立。そんな僕の前にヒメが一人でいきなり現れようもんだから、少しくらい怪しむのも仕方がないってもんだ。

「この中で生態系を完結させて、野生動物を保護してるんだよ。だから下手に影響及ぼさないように、立ち入り禁止の柵が置いてあったろ」ぶっきらぼうに僕は答える。

「サンダくん、立ち入ってんじゃん」

「君もね」

 踵を返して僕は歩き始める。

 置いてくなよと不満げにつぶやいて、ヒメが後ろをついてくる。

「何の用だよ」と僕は言う。「珍しく一人で」

「私にも一人で勝手に行動したい時があるのさ」

「じゃあついてくるなよ」

「一人で勝手に、今日はサンダくんの跡をつけようと決めたの」

「いい迷惑だよ」

 僕はずかずかと歩を進める。目を凝らして辛うじて道だとわかる隘路を行く。たまにさす日光に目を細め、足元の落ち葉をサクサクと小気味よく踏みしめる。転がってる石や枝を蹴り飛ばしてその陰をのぞき込む。時々立ち止まって上を見上げる。音を探す。自分でも風でもない何かが立てる音を。ほかの生き物の気配を。

「なにか探してるの?」ヒメは首をかしげる。

「変な生き物」

「変な生き物?」

「白いカラス、とか」

 振り向いて、僕は続ける。

「黒い白鳥、真っ白のパンダ、ダンゴにならないダンゴムシ、飛ばないトビウオ、毒のないヤドクガエル、トゲのあるトゲナシトゲトゲ」

「なにそれ」

「つまりは、例外的なものを探してるんだよ、僕は」

 例外、とヒメは呟く。「ただ珍しいだけじゃなくて?」

「そう。例外的なものがいてくれたら、安心するだろ」僕にも仲間がいるみたいで、というのは心の中で続ける。それを実際に言葉にすると、なんというか、僕は非常に寂しがりな奴のように思える。

「よくわからない」ヒメはピンと来ていなさそうな顔をしている。

「だろうね」と僕は言う。君はどこからもつまはじきにされてないだろうからね。家族からも、クラスからも、この街からも。「だから静かにしていてもらえると助かる。探索の迷惑だ」

 なんなら帰ってほしい、という僕の言外の要求はヒメにはくみ取れなかったようで、声を潜めてはぁいと答えた後、僕の後ろを黙々とついてきた。

 草木を踏む、二人分の足音が鳴る。


 ***


 真ん中に湖。そこに近づいたり離れたりしながら取り巻く道を僕は歩く。このビオトープはそんなに広い場所じゃない。せいぜい一周30分くらい。僕の歩くペースが速いってこともあるが。歩きながら、僕は傍らに並び立つ樹をにらみつけ、鬱蒼と茂る藪の中に手を伸ばし、湖の淀んだ水面に目を凝らした。好き勝手にどんどん歩いていく僕に、ヒメは息を切らしながらそれでもついてきた。

 この日は何も見つからない。普段はそこら辺を走っているトカゲやカエルや虫さえも。すべてが新たな闖入者に警戒しているようだった。

「またついてきてもいい?」この散歩の何が楽しかったのか、邪魔者が言う。

「勝手にしなよ」と僕は言う。「ここは僕の場所じゃないもの」

 綺麗な服の裾を泥で汚したヒメは、自転車で手を振りながら去っていく。僕も自転車で反対方向に、自分の家へと向かう。

 クラス一の人気者の美少女が急に仲良くしてくれる? とんだご都合展開だ。

 僕は心の中でつぶやく。

 何も期待するな。

 

 ***

 

 退屈だった。

 数学のノートは落書きでいっぱいだった。

 先生の話も聞かずに頭の中で空想したいくつもの世界の終わりは、実に薄っぺらくノートの上で踊っていた。世界は終わっても終わらずに続く。このドームで生き延びている僕らはそれを知っている。

 ノートからはらりと紙切れが落ちた。僕が書いた字じゃない。席を離れているすきに、クラスの誰かが挟み込んだのだろう。

 こう書かれていた。

    「Nigger」

 僕の鼻から笑い声が抜けた。大昔使われていたらしい差別語だ。そのことくらいは知っているが、これに反射的に怒れる感性は僕の中には根付いていない。父だったら別だったろうが。

 紙を丸めて床に捨てる。

 体格で僕に劣るものだから、奴らは面と向かって僕を攻撃できない。だからこうやって陰湿な手段で僕に対する本能的な嫌悪感を表明する。

 改めて僕は鼻で笑う。

 僕は奴らを嫌悪すらしない。同じ舞台になど立ってやるものか。

 


 ***



 家の中は、どこからそんなに入手してくるのやら、空の酒瓶だらけだ。

 それに埋もれるように、居間の真ん中で赤ら顔の母が眠っている。大きないびきをたてながら。

 彼女は何もしない。食べて飲んで眠るだけ。全てへの干渉を拒み、全てからの干渉を拒む。×1の数式。それ以下か。生命活動をして消費する分で×0.なにがしだ。自分の親をこうして、ただの現象のように見てしまうのは冷たいだろうか。だけどまあ、愛を返さないものに愛を与えられるほど僕は慈悲深くない。残念ながら十分に与えられずに育った僕の愛は在庫払底中だ。

 僕は冷蔵庫に入っている配給の食糧を適当に温める。


「Sanders家の誇りを忘れるな」

 かつて父は言った。自分も親や祖父母から繰り返し言われたらしい言葉を。外の世界なんて知らないはずの父は、どこにも根付いていない空虚な誇りとやらに、呪縛みたいに雁字搦めになっていた。あるいはそれは反動だったのかもしれない。周りから向けられる奇異の目。黒い肌と彫りの深い顔立ち。一目で違う国のルーツを引いているとわかる容貌。それを正当化するための誇り。なんにせよ、僕にはそれは呪いにしか見えなかった。

「俺たちはサンダじゃない。Sandersだ。祖国を忘れるな」

 なぜSandersの祖先がこの街に入れたのかわからない。金か、コネか。異人種をほとんど切り捨てたはずのこの世界で、僕らSanders家は異端なものとして、僻地にいびつで狭い畑を与えられ、そこで細々と暮らしを繋いでいた。

 僕は父に言った。

 自分の意見と父の意見を切り離せる年齢になると、すぐに。

「どうでもいいんだ、僕は」

 父は目を丸くした。

「祖国もSandersの誇りとやらも、もうとっくにドームの外でズタボロに風化してる。もうないんだよ、そんなもの」

 父は意味をなさない怒号を放ち、僕を思い切りぶん殴った。壁までぶっ飛んで頭を打ち付け、僕はうずくまった。床に伏した僕の耳に、勢いよく扉を開けて出ていく父の足音が気づいた。そのまま僕は気を失った。

 父は帰ってこなかった。

 腫らした顔が熱を持って、僕は三日三晩熱にうかされた。その間、父の不在におろおろしながらも母は看病をしてくれた。回復しかかったころ、父の訃報が届いた。父を心から愛していたらしい母は、まるでブレーカーが落ちたように動かなくなった。

 事故死だったのか自死だったのか、今でもよくわからない。心の拠り所にしていたSandersの誇りが息子によって遺棄されたことに絶望したようにも思えるし、その程度で死を選ぶほど絶望するようなやわな性質でもなかったように思える。

 なんにせよ、いよいよSandersを失ったサンダ家は、非常に空虚なまま、それでも続いている。


 温めた缶詰と米を食べる。

 僕は生きてやる。誇りも何もないけれど、それでも。



 ***


 数日おきに僕はビオトープを散策し、数回に一回くらいのペースでヒメは僕の跡をつけた。結果として月に一回程度、僕らの散歩は開催された。

「サンダ君はよく飽きないね」

「君もね」

「君は生物学者になるといい」

「なれないよ」

「わからないじゃん」

「人事局がそんな進路を認めるかよ」

「それこそわからないじゃん、一応は職業選択の自由は認められてるんだから」

「ドームの運用維持に適切な人員配置の範囲でだけ、一応ね」

「だからなれるかもしれない」

「理論上は可能ってだけでしょ」

「ねえ、白いカラスは見つかった?」

「いや、ちっとも」

「幸福の青い鳥はいつもすぐ隣にいるらしいよ」

「ほざくね」

「捕まえないの」

「捕まえないよ」

「そういやかごも網も持ってないけど、珍しい生き物見つけたらどうやって捕まえるつもりなの」

「捕まえるつもりがそもそもない。僕は見て確認したいだけだから」

「変わってるね」

「今更だよ」

「ねえ、サンダ君はどんな人がタイプ?」

「話が変わりすぎだ」

「教えてよ」

「口うるさく質問しない人かな」

「私はねえ」

「聞いてないよ」

「私のことを好きにならない人かな」

 僕は振り返る。

 ヒメは笑っている。

「私はとても愛らしく、かつ聡明であるので、たいていのものは簡単に手に入ってしまうの」

「自分で言うセリフではないね」

「なので簡単には手に入らないものが好き」

「君も例外を探してるってわけだ」

「苦労しますね」

「お互いにね」

 じゃあ絶対に僕だけは、ヒメのことを好きにはならないでおこう、と内心で僕は決める。

「やっぱ生物学者を目指そうかな」

「あら急に、どういう方針の転換?」

「別に、目指してみるだけだよ。ルールの例外ってやつを」

 僕に誇りはないけれど、それでも例外であることを恥だとは思わない。

 例外のまま、例外として生きていく。

 幸福でなくとも、人間でなくとも。

 僕はここにいる。

「将来が楽しみになったね、サンダ君」

「ああ、楽しみだ」

 僕は歩く。性懲りもなくヒメはついてくる。

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