サイクロタウンより、親愛なる空へ

鰐人

1.Ad-balloon

 高く。できるだけ高く、飛びたかった。

 この都市を、隅々まで見渡せるように。

 世界の果てを、この目で確かめたくて。


 ***


 そういうわけで、気球試作一号機はようやく浮かび上がったと思ったらたちまちどこかに引火したらしく、実にあっけなく灰になった。だだっ広い田畑から立ち上る一筋の黒煙は、青空を映したこの世界の天井によく映えて、それに気づいてすっ飛んできたフウコに俺はしこたま叱られることになった。

「スイ、あなた未だにそんなことやってたの!?」青筋を浮かべてうちの妻は怒鳴る。「うちの畑が燃えちゃったらどうするつもりだったの!!」

「や、消火の用意はしてたし、枯れてない植物は簡単には燃えないって」

「口答えすんな!!」

 道端に正座した俺の、ちょうど叩きやすい位置にある頭を、どこからか持ってきた紙の束で高らかな音を立て、しかしそこまで痛くはないようにフウコは叩く。愛だなあ。

「私たちが子供の頃からお父さんたちにも先生たちにもきつく釘刺されてたでしょ、飛行機械は禁忌の一つだって! なのにスイときたら、でかい羽付けて崖から飛んだり、でかい凧背負って車に引きずられたり、でかい変な乗り物作ったり、その度に何度も何度も繰り返し繰り返し!!」

「ああ、あのプロペラ機がすごい勢いで回転暴走しだしたときには死んだかと思ったなあ」

「死ぬな!!」

 フウコはもう一度俺を叩く。いやだから死んでないし、それは俺が今ここに正座していることからもわかる。理不尽だ。

「全く、怒られるだけで済んでたのは子供のお遊びだったからだよ。今はもう、中央の人たちにいきなり撃ち落されたっておかしくないんだからね」やっと怒りが収まってきたらしく、心配を滲ませた声色でフウコは言う。「本当に止めてよ、これからのこともあるんだから」

「わかってるって、もう昔とは違うんだ。これは人が空を飛ぶの物じゃない。安全だよ。思い付いたから作りたくなったんだけどさ」俺はひらひらと両手を振る。「空気をあっためて、温度による空気の比重の差を利用して浮かぶだけ。進行方向の操作もできないし、そもそも人が乗れるほど大きくも作ってない」

「……よくわからないけど、それはセーフなの?」

「セーフセーフ」本当は極めてグレーだけど、まあ即死罪になるわけでもなし、そう言い張っておこう。「ただ浮かぶだけだから」

「ただ浮かぶだけ」

「浮かぶだけ浮かぶだけ」

「で、浮かぶだけのものが何の役に立つの」

「そこなんだよ」俺はもっともらしく腕を組んで頷く。「今から考えなくちゃいけないのは」

 三度、紙の束が俺の頭上に振り落とされる。


 ***


 と、紆余曲折があり。

 数か月後、いくつもの試作機の残骸と睡眠不足とフウコからのいびりを乗り越えた先に、俺の気球はとうとう空に浮かんだ。こんな風に書いた垂れ幕を、風にはためかせながら。


『ササクラ家スイ・フウコ夫婦の第一子、来月誕生予定!!』


 俺とフウコは、少し離れた場所に並んで座って、空にふわふわ浮かぶそれを眺めいる。

「あれだけ時間を使って結局、こんなことをお知らせするだけ」と口を尖らせならフウコはお腹を撫でる。大きく膨らんだその場所を。

「おかげで、みんなからたくさん贈り物もらえたじゃん」と俺は言う。宣伝のほかに、荷物運搬や農薬散布に利用するといった案もあるにはあったが、普通に車両を使う方が楽だったため廃案となり、結局こういった使い道しか思いつかなかった。

「それに」俺は重要な情報を追加する。「地区管理のお偉いさんから折り返し連絡あったよ。技術開発としては別に既存だからやっぱりお咎めなし、それに住民への情報周知への活用、実際に試してみることになったってさ」

「ちゃんと買い取ってもらえるんでしょうね?」

「二束三文で」

「二束六文くらいにするよう交渉しなさい」

「倍は厳しいだろうな」と俺は苦笑する。

 フウコは俺の肩に軽く頭突きをする。そしてもたれかかったままでいる。

 ねえ、と珍しく優しい口調でフウコは言う。

「スイはいつ、あれに乗るの?」

 少しだけ言葉を詰まらせて、俺は言う。「乗らないよ」

「嘘ばっかし」とフウコは言う。「大きくして、籠でもつければ、十分人が乗れるようにできるでしょ。それに、周りに見せびらかしたり、管理部の方まで売り込んだりしたのは、気球の数を増やしておいて、実際に自分が飛行するときに目立ちにくくするためかな?」

「いや、さすがにカモフラージュとかまでは考えてなかった」

「ほら」と言われて、俺は自分の失言に気付く。

 俺は頭を掻いて、正直に言う。

「分からないんだ」

 んー、とすぐ隣からフウコの唸り声が聞こえる。言葉を選びながら、俺は言う。

「当分はやらないよ。それは間違いない。俺にはフウコたちがいるから」

「当分は、ね」

「でも、いつか」と俺は続ける。「例えば、俺がすっかり爺さんになって、お前に先立たれたりとかして、もしそんなときが来てしまったとしたら」

「飛ぶんだ」

 俺は頷く。

 その時、俺はきっと飛ぶだろう。何年も、何十年も経って、もう大切なものも守るべきものもなくなって、自分の役目がすっかり済んだことを確信したら。撃ち落されることを覚悟で、自分の命を投げ捨てて、俺は空を飛ぶだろう。

 いや、たぶん、覚悟なんてものは俺にはそもそも必要なくて。単に我慢できなくなるだけだ。空を飛びたいという、ずっと俺の中でくすぶり続けている、この衝動に。

 この衝動に合理的な説明はなく、当然ながら理由もない。なんとなく。俺は何となくずっと、このドームの一番高くへ昇って、この都市をできるだけ遠くまで見て、この世界の全部を知った気になって、そして。

「満足したいんだ、俺は。自分の人生の全てに」と俺は言った。

「分かんないけど、分かった」と不満そうにフウコは言った。「でも、私たちが爺さん婆さんになるまでは駄目だからね」

「約束する」

「私が、行くな、って言ううちは、傍にいてね」

「約束する」

「もし私も行きたくなったら、一緒に連れて行ってね」

「約束する」

 俺とフウコは手を繋ぐ。空を見上げる。

 遠い将来、俺たちの墓標になるかもしれない気球は、今はただ希望を携えて、空に浮かび続けている。

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