不眠症
あべせい
不眠症
不眠症
「眠れないンです。どうにかしてください。とりわけ、いい女と出会ったときなンかは……」
総合病院の内科医として初出勤した女性医師の伊格優未(いかくゆみ)は、医師として初めての目の前の患者に対して、どう接していいのか戸惑い、ことばを探した。
「きょうは眠れそうですか?」
優未はジョークのつもりだったが、
「はい、きょうはまだ、いい出会いがないので、眠れるンじゃないかと……」
目の前の患者にジロジロと見つめられ、そう告げられると、さすがにカチンときた。
優未は、自分ではそれほどの美人とは思っていないが、それほどの不美人とも思っていない。10人並み程度かな、と。
患者は、40代前後の男性。名前は、「仁浦聡志(にうらさとし)」、職業は「自営」となっている。
「お仕事は、何ですか?」
「ニリンの修理をしています」
「ニリン?」
「自転車とバイクのです」
「あア、二輪ですか」
そういえば、通勤に使っている優未のバイクが、最近調子がおかしい。エンジンのかかりが悪いのだ。
この患者の厄介になろうか。優未は、その前に、患者の経済状況を探る必要を感じて、
「お住まいは? マンションですか?」
「マンションですが、小さな部屋です。代々、わたしの家は蕎麦屋をやっていたのですが、亡くなった父が蕎麦屋をやめて、代わりに賃貸マンションを建て、私はその1階で二輪の店を始めました」
なら、そこそこの資産はあるのだろう。
優未はそう推測して、
「寝つきはいいほうですか?」
「寝つきはいいのですが、4時間ほどで目が覚めてしまいます」
「どれくらい、眠れたら、満足しますか?」
「最低7時間。そうでないと、一日中、頭がすっきりしなくて、仕事でもミスをしてしまいます」
「わかりました。では、それ用のお薬をお出しします」
「ありがとうございます」
聡志は立ちあがり、出て行こうとする。
「あのォ……」
と、優未。
「はァ?」
聡志は、不審げに振り返る。
「お店は、どちらですか?」
カルテを見ればわかることだが、アピールしておくほうが得策だ。優未はそう思った。
「赤塚9丁目の交差点に、『赤塚2輪センター』という看板を掲げています。すぐにわかります」
聡志は、優未の意図を見透かしたように、そう返事した。
「先生、これは交換したほうがいいです。セルモーターが焼け焦げています」
聡志が経営する「赤塚2輪センター」の店内。聡志は、優未の愛用する原付バイクのピンク色の座席シートを撫でながら話す。
「まだ、買って3年なンですよ。それでもダメなンですか?」
「機械は当たり外れがありますから。このセルはオーバーホールして使えないことはないですが、それだと却って費用が高くなります。それでも、いいですか?」
ウーン。優未は迷った。バイクは通勤に欠かせない。自宅から勤務する病院までは4キロ弱だが、鉄道がないし、バスは本数が少ない。
「じゃ、お願いしようかしら」
「この機種なら在庫がありますから、すぐに交換できます。どうされますか?」
この男は、なかなか商売がうまい。断りにくいようにもっていく。優未はそう感じたが、
「時間は、どれくらいかかりますか?」
「30分もあれば、充分です」
「そォ、じゃお願いします」
優未はそう言いながら、店内を見渡した。腰かける椅子を探しているのだ。そうと察した聡志は、
「先生、このマンションの同じ1階ですが、隣にシャレた喫茶店があります。そこでお待ちください。できあがったら、ご連絡します」
「そォ、あなた、親切ね……」
優未は初めて、男の親切を肌で感じた。
彼女は優しい男とつきあったことがない。優未に近付いてくる男は、どいつもこいつも自己中心に物事を考え、押し進めた。もっとも、彼女の場合、周りには医師をはじめ、医療関係者しかいないことが、さまざまな性格の男性と出会えない一因かも知れない。
優未は30才を過ぎた。離婚して半年になる。前の夫は、同じ医師で外科医だった。看護師を相手に、絵に描いたような浮気をしたから、結婚3年目だったが、別れた。未練のある男ではなかった。結婚するとき、互いにこどもをつくらないことに決めていたが、それが離婚に幸いした。
40数分後。
2輪ショップの経営主・仁浦聡志は医師の優未と喫茶店の片隅で向き合っている。
「少しは眠れるようになりましたか?」
優未は、コーヒーカップを口に運びながらそう言い、思わず「おいしい!」と叫びたくなるほどの味に、目を細めた。
「お薬をいただいてから、6時間ほど眠れるようになりました。でも、そのあと、一時的にはすっきりするのですが、すぐにまたぼんやりしてきて眠気に襲われます。で、すぐにベッドに入ります。でも、それからがまた、なかなか寝つけないンです……」
優未は医師の心に戻って尋ねた。
「おいくつでした、っけ?」
「ことしで、38です」
「ご結婚は?」
「婚約まで行きましたが、相手に好きな男性がいることがわかり、破談にしました」
「そうですか。それは残念でした。結婚すると、不眠症が治る場合もあるンですが……」
聡志も診察を受けている気分になっていた。しかし、目の前の優未はラフなワンピースを着て、とても清楚で魅力的だ。女医を相手に話をしているという緊張感はない。もっともっと、このまま話をしていたい……。聡志はそんな気持ちに包まれている。
「では、こんど病院にいらっしたとき、お薬を変えてみましょう。もう少し、効き目の強いお薬を処方します」
1週間後の金曜日。
カレー専門店のテーブルで、聡志は優未と向き合って腰掛けている。2人は食事を終え、コーヒーを飲んでいる。
「こんどのお薬はどうですか?」
優未は、自信ありげに尋ねた。しかし、
「おかげさまで7時間は眠れるようになったのですが、気になることがあって、以前より寝つきが悪くなったようなンです」
聡志は、顔を曇らせて言った。
「寝つきが悪くなった?」
2人が会うのは、病院での診察を含め、これが4度目になる。交際というほどのものではない。この店は、優未が勤める病院から徒歩で3分ほどの距離にあり、この日優未は緊急対応の夜間勤務の日だったため、勤務につく前に夕食をとりにやってきたに過ぎない。
一方聡志は、病院から修理を依頼された自転車と原付バイクを軽四輪で納めにきたところ、病院の玄関前でカレーの店に行こうとする優未とばったり出くわした。
聡志は、会釈してすれ違おうとしたが、
「お食事、まだでしたら、つきあってくださらない?」
と、優未に誘われた。優未は、何か話したげな表情をしていた。
聡志は、母とOLをしている妹の3人暮らし。食事は母の果乃子が作ってくれる。そこで聡志は、帰りが少し遅くなると母に電話を入れ、優未の誘いに応じた。
優未に恋しているつもりはないが、白衣姿の優未の誘いを断る強い理由はなかった。
母の作る食事は、帰宅後に食べてもいい。妹は帰宅時間がまちまちで、深夜に母が食卓に用意しておいた夕食をひとりでとることがよくある。
それに、聡志も、優未に聞きたいことがあった。ことし還暦を迎える母が最近、妙なことを言うのだ。
「この前、あの人を見かけたのよ。すぐに後を追ったのだけれど……」
とか、
「出かけると、いつもだれかに見られている気がする。あのひとかも……」
とか、
「こんなとき、うちの人がいてくれたら、すぐにやってくれるのに……」
と、水漏れする水道の蛇口を指差して、愚痴をこぼしたりするのだ。
仁浦赤司、すなわち聡志の母果乃子の夫は、10年前、都県境にある標高2000mほどの山に独りで登ったまま、行方がわからなくなった。母は昨年ようやく、裁判所に失踪宣告手続きを行ったうえ、死亡届けを役所に提出した。
このようにして、遺体は出ていないが、父赤司の法律上の死亡は確定した。
赤司は、登山家ではない。当時、それほど山が好きというのでもなかった。ただ、写真を撮る趣味はもっていた。
赤司の写真の趣味は、若い頃からではない。山で行方不明になる半年ほど前、ネットショップでデジタルカメラを買ってから始めたものだ。
撮る対象は、風景をはじめ、人物、イベントなど、さまざまなもののようだった。ようだったというのは、聡志は亡父がカメラを持って出かけるとき、一緒に出かけたことがなかったからだ。亡父もカメラを手にするときは、独りで出かけることを好んだ。
聡志は、亡父が実際にカメラを構えて撮っている姿を見たことがない。自宅でカメラをいじっているようすを見て、知っているだけだ。
ところが、赤司が持って出かけたカメラが半年前、行方不明になった山で見つかった。一般の登山者が、山道から少し離れた草むらで偶然見つけた。
カメラは長年風雨にさらされ、無残な姿だったが、カメラの吊りバンドに取り付けてあった名札から、亡父の物と判明した。亡父が行方不明になった当時は、多くの警察や消防団の人たちが、捜索に加わり、その記録が残っている。新聞の記事にもなった。そのカメラが見つかったことから、母は父の死亡を確信した。
ただ、カメラは、金属部分が錆び、プラスチック部分は歪み、内部には雨水がたっぷりしみこんでいた。このため、亡父がそのカメラで撮っていた写真を再生することは不可能だった。
また、亡父がその日に、いままで関心のなかった山になぜ登ったのか。なぜ、山登りをしてまで、写真を撮ろうとしたのか。聡志をはじめ家族には、全く見当がつかない。
聡志は連絡を受けて、管轄署までカメラを受け取りに行ったついでに、カメラが見つかった周辺を、ほかに父の遺品はないかと捜し回った。しかし、その日の山登りのために亡父が新調した帽子や靴など、何一つ発見出来なかった。
母がおかしなことを言い始めたのは、その頃からだった。母にとっては、父はまだ生きているのだろうか。
優未は、聡志の話を聞いてから、突拍子もないことを言った。
「お父さまは、ご健在だと思います」
「エッ、どうして、ですか!」
聡志は、目の前の優未を穴が開くほど見つめた。優未はいままでにない、優しい笑みを浮かべている。
いったい、彼女は何を根拠に、そんな根も葉もないことを言うのだろうか。
「優未さんッ、何かご存知なのですか?」
聡志は、気がつかないまま、初めて彼女を優未と名前で呼んでいた。彼の心のなかでは、彼女はいつも、優未だった。
「聡志さん」
優未も聡志に呼応するように、名前で呼びかけた。
「お父さまがご健在だったら、どうされます?」
バカなッ! 聡志は、母を思った。当時、聡志も妹も成人しており、父としての役目は終えていたかもしれない。しかし、母は父に頼り切っていた。母はこの10年、淋しく過ごしてきたに違いない。
父は資産家の家に生まれ、金銭の苦労を知らない。それは聡志も同様だ。父は行方不明になる2年前に、自宅の敷地に30戸が入る賃貸マンションを建てた。30戸の部屋はすぐに埋まった。
その入居者のなかに、若い未亡人がいて、聡志にとっては少し年上の女性だったが、とても気になった。しかし、彼女の部屋には通ってくる男性がいるようすで、聡志は関心をもつことをやめた。
マンションの最上階の7階は仁浦家の住まいだった。聡志が、父が行方不明になって2年後、マンションの1階で好きな二輪店を開業できたのも、父が遺したそのマンションのおかげだった。
しかし、父が生きているというのはどういうことなのか。優未や母は、何かを知っているのか。
母の言動をおかしいと思っているのは、聡志だけなのか。
「もし、お父さまがお元気だったら、聡志さんはどうされます? お会いになりますか?」
当然だ。会って、いままでどうしていたのか。なぜ、もっと早く帰ってこなかったのか。問い質したいことは山ほどある。
「実は、仁浦赤司さん、あなたのお父さまはご健在です。ですが、とても困っておられます」
「エッ!?」
聡志は、わけがわからなくなった。父が行方不明になったのは、聡志が28才、父52才のときだ。生きていれば、62才……。
父には手に職がない。お金になる術を持っていない。食べていくのは、たいへんだろう。
「優未さんは、父に会われたのですか?」
優未は、はっきりと頷いた。
「いつ、どこで、ですッ!」
「待って。そんなに急がないで……」
優未は、コーヒーの最後の一口をゆっくり飲み干すと、
「わたしたちが私的に会うのは、きょうが2度目です。この前、わたしが調子の悪いバイクをあなたのお店に持ち込んで修理していただいた後、隣の喫茶店でコーヒーをご馳走になったでしょう。あなたと喫茶店の外で別れてから、わたしは修理していただいたバイクに乗って自宅に向かいました。2、3分も走ったかしら。交差点の赤信号で止まっていると、目の前にキャップを深く被った男の人が立ちはだかりました。わたしの目の前は横断歩道。信号待ちしている車列の先頭にいたわけだけれど、その方は、
『あなた、聡志のお知り合いですか』
って。さらに、
『もしそうでしたら、少しお聞きしたいことがあります』
とおっしゃって、交差点のすぐそばの、大手のコーヒーショップチェーン店を目で示されました。あなたの名前をご存知なのだし、コーヒーショップの店内だったら、安心だろうと考え、わたしは承知しました」
その男性が聡志の父、赤司だった。62才のはずだが、古稀を過ぎていると思わせるほどのやつれようで、額にも頬にも深い皺が刻まれていたという。
聡志の父赤司は、
「詳しい事情は話せませんが、わたしは聡志の家族です。10年前、家族には内緒で家を出て、好きな女性のもとに走りました。2年間はうまく過ごせました。その女性は未亡人で、前夫が遺した雑貨屋をやっていて、私も手伝い、2人で同居生活を始めたわけです。しかし、彼女は、年は私よりふた回り近くも若かったのですが、体が弱く、心筋梗塞であっ気なく亡くなりました。幸いというか、彼女は保険に入っていて、受取人になっていた私は、その保険金を支えに、しばらくの間、彼女の雑貨屋を引き継ぐ形で続けながら、淋しい日々を送りました。
しかし、そうしていると、気になってくるのは、元の家族です。賃貸マンションの家賃収入があるため、経済状態に不安はありませんが、妻のことが気がかりで、何度も会いに行こうとしました。しかし、私は死亡したことになっています。家の近くまでは行っても、妻と顔を会わせることはできませんでした」
と言い、そのいきさつを正直に、優未に語ったと言う。
しかし、話を聞き終えた聡志は、
「優未さん、それは父ではありません。父の名前を騙ったアカの他人です。失礼します」
そう言うと、決然と席を立った。
「聡志さん、待って……、まだ、お母さまのお話が……」
しかし、聡志は振り向きもせずにコーヒーショップを出た。
父が同居していた女性というのは、新築当初からマンションに入居していた未亡人に違いない。父は、ふた回りも年下の未亡人に狂い、山に行くと言い、偽装工作をしたうえで失踪したのだ。
聡志は、父が本当に生きているのなら、許せないと思った。
帰宅後、聡志は、四畳半の自室に入った。父が「生前」使っていた部屋だが、いつの間にか、聡志の部屋になっている。
まもなく、ドアがノックされ、外から母が、
「聡志、夕食はどうするの?」
と、言った。
聡志は、
「母さん、ちょっと入って……」
と言い、中からドアを開けた。
聡志は、優未が別れる間際に言った「待って……、まだ、お母さまのお話が……」を、思い出していた。
母の果乃子が、暗い表情で息子の部屋に入って来た。聡志は、自分が腰掛けていたデスク用の椅子に母を座らせ、彼はテレビを少しずらして、テレビ台に腰掛けて、母と向きあった。
「きょう修理品を納品しに行った赤塚病院で、伊格先生に会ってきた。誘われて食事につきあったのだけれど……」
「優未さんね。あなたたち、お似合いじゃないの」
「そンなんじゃなくて、優未さんがとんでもない話をしたンだ」
「なに?」
果乃子には、想像すらできないだろう。
「驚かないで。ぼくは本当だとは信じていないンだから」
「で、なに?」
「実は、父さんが生きている、って……」
「そォ……」
果乃子の表情に一瞬、緊張が走ったが、すぐにふだんの穏やかな顔に戻った。
「その話は、最初私が先生にしたの。私も、あなたが不眠症の治療に通っていると知って、優未先生に診てもらった。そのとき、不眠症の原因を聞かれたから、『亡くなったと思っていた主人を見かけたンです』と打ち明けたの。あれは、絶対にあの人、あなたのお父さんよ」
果乃子は、淡々と話す。
そうか。それで、優未は父から声をかけられても、それほど驚かなかったのか。
聡志は、父は母に会う勇気がなく、代わりに優未に会ったのだと考えた。
「母さんは、どうするつもりなンだ。父さんを許すつもり?」
果乃子は首を強く横に振った。はっきりと。
「あの人は死んだの。もう、この世には戻れない。どうして、一緒に暮らせる?」
そうだ。母の言うことはもっともだ。
聡志は、母の冷静な態度に感服した。しかし、母の本心はどうなのだろうか。
3年後のある日曜日。
聡志は妻の優未と一緒に、生まれて満1才になった娘を連れ、郊外の小さな一軒家を訪れた。
「よォ、来たか。果乃子、初孫が来たゾ!」
玄関ドアを開けた赤司は、奥に向かってどなった。すると、果乃子が洗濯でもしていたのか、割烹着の裾で手を拭きながら、玄関に現れた。
「遅いわよ。もっと早く来ると思って、朝から仕度をして待っていたのに……」
と言いながら、優未の腕から孫娘を受け取り、うれしそうに抱き上げた。
聡志は、両親の笑顔を見ながら、密かに思った。
これでいいンだ。父に戸籍はない。父は亡くなっても、埋葬許可は出ないだろう。そのときはそのときで、考えればいい。
幸い、妻は医師だ。死亡診断書を書くことは出来る。しかし、そんな先のことをいまから考えてどうする。優未と離婚しないという保証はない。
聡志はそう考えながら、父の血を引いたのか、2輪店に足繁くやって来る清楚な未亡人の顔を思い浮かべていた。
(了)
不眠症 あべせい @abesei
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