飛脚屋心太 三の巻 「獺の宿移り」

小花 鹿Q 4

第1話

善右衛門の厄介ごと


飛脚屋である近江屋の奥座敷、隠居所の襖を開け放って坪庭を眺めると、いつのまにか沈丁花の花が膨らみ、福寿草の花が咲いている。

今日のような暖かな陽射しの日が続けば、すぐにでも沈丁花の甘く柔らかな薫りに小さな庭は包まれるだろう。

ついこの間迄、笹にかぶった雪の白さに震えていたというのに。

日が経つのは案外早い。


ドタバタと慌ただしい足音を響かせて、女中頭のおとめが隠居所に顔を出す。

手には桶とはたきを持っている。

「なんだい、機嫌が悪いね。」

御隠居様がそう言って見上げると、おとめは眉を八の字にして

「すみません、お分かりになりますか。」と情けない声を出す。

「長い付き合いだからね。」と言いながら煙管を取り出すと、おとめはさっと膝をついて煙草盆をご隠居様の方へ押し出し、火箸を使って種火を熾す。その間にご隠居様は、煙管に刻み煙草を詰めている。

誰も見てはいないが、流れるような阿吽の呼吸で二人の所作が美しい。


おとめが言うには、四半時ほど前に店先に旅姿のくたびれた五十絡みの男が現れて、横柄な態度で「儂の信書を無くした近江屋だな。どうしてくれよう。」と大見得を切ったのだ。

すかさず、番頭さんが店先まで出て「相済みません。此処ではなんですからどうぞと」と男を店の中へ訪い、「いつ頃、何処へまでご依頼頂いたものでしょうか。」と遜ったが、「言い逃れしようと思ってもそうはいかん」と土間に響く大声で怒鳴った。

荷待ちをしていた気性の荒い飛脚達が、さっと立ち上がりズイと侍の周りを囲むように迫ると、測ったようにその侍の背中に向かって番屋の役人と岡っ引きの弥助が「どうしたんでい」と声を掛ける。

心太が気を利かせて、男と入れ違いに店を飛び出して行って、番屋に町役人を呼びに行っていたのだ。丁度そこに運良く親分も居たので二人を連れて戻ってきた。

分が悪いと悟ったのか大人しく押し黙った男を、床几に座らせ事情を説明する様に促すと、少し落ち着きを取り戻した男が、やはり気が昂る様で鼻息も荒く語り始めた。



善左衛門の話


内藤新宿を青梅街道に入って中野宿より先のところからやってきた楠木善左衛門と名乗る男は、自分は郷士の三男で、昨年の夏に旅の途中に鷹場で使う鷄を所望したいと旗本の田名部隆之進なる人物が在所に立ち寄ったという。その旗本の田名部隆之進を、もう日が暮れるからと家に招き入れ善左衛門達と酒を飲み交わすうちに、意気投合して田名部が冷や飯食いであろう善左衛門に向かって「貴殿を気に入り申した。上様の鷹場だが、士官の口がある。是非貴殿の様な方に上様の鷹場をお守りいただきたい。」と言われた。田名部は、「儂から上役に是非と推挙致す。」と胸を叩いた。

ことが勧めば馬喰町にある「おうみ」という出入りの飛脚屋が必ず信書を届けるから其れを持って鷹場へ直接お訪ね下され。と約束を交わしたと言う。

年が明ける頃には必ずや、お返事致すが、迎えるに当たって当面の支度が必要なので、幾ばくか用立て欲しいと言うのだ。「悲しいかな当方の上役には多少の鼻薬が必要なのだ。」と情け無い顔をする。肩身の狭い三男坊が士官できるならと親兄弟が簡単な書付と引き換えに3両の金を渡した。鷄の代金とひと宿の礼を大層はずんで包んで寄越したので、露とも疑わずに送り出した。


帰り際に、「何かあったら馬喰町で儂の名を言えば何処の者でも分かるゆえ、近くに来た際にはお気兼ねなくお立ち寄りくだされ。」とにこやかに告げて行ったいうから、恐れ入る。


しかし、待てど暮らせど文は届かぬ。

田名部の屋敷は大手門を日本橋に向かって行った金座の側だというだけで、詳しい場所も分からぬ。分かっているのは旗本だと言う田名部の名前と馬喰町のおうみ屋という飛脚屋の名だけだ。

そこで、春めいて来たこの季節に居ても立っても居られぬと、善左衛門は旅立って来たのだ。


善右衛門以外の皆は目の先を天井に向け分からぬように溜息をつく。

騙りにやられたのだ。


番頭さんが、優しげな声で、

「此処は馬喰町ではなく小伝馬町ですよ。」

と言うと、眼を剥いて

「眼と鼻の先ではないか。」

と善左衛門は息巻いた。

馬喰町で、田名部等という旗本は居らず、おうみやという飛脚屋は無いかと散々尋ね歩いて、辿り着いたのがこの小伝馬町の近江屋だったのだ。


カンッと煙管の雁首を煙草盆に打ち付けて、「それで、なんでおとめがぷりぷりしてんだい。」と可笑しそうに問うてきた。

おとめは勢い込んで

「聞いて下さいよ」と右の頬を膨らませながら言い募ったのは、店で使う襷や手拭いを持って店との境の土間のところに立っていたおとめを見つけて、善左衛門が

「やい女、ぼうっと突っ立ていないで水の一杯でも持って来ぬか」

と怒りの矛先をおとめに向けたので、おとめはカッとなって

「店に因縁をつけにきた輩に、何故お愛想しなきゃなんねぇんだ。ふざけるんじゃねぇぞ、このすっとこどっこいが」

とやっちまったと言う。

親分さんや店の者も、ぽかんと口を開けておとめを見ているのに気付いて、慌てて手拭い等を板の間に置いて奥に戻ってきたが、やっちまったと恥じ入るやら、腹が立つやらでドスドスとつい足音響かせてしまったらしい。


「あっはっは。流石神田生まれだ。」

とご隠居様は口に手を当て天を向いて大笑いをする。

おとめは益々眉を下げ、項垂れて「違いますよ、神田の生まれじゃありませんょ。」

と蚊の鳴く様な声で否定した。それは、聞かないふりをして御隠居様は、

「おとめが正しいよ。郷士だかなんだか知らないが、うちの者に無礼な真似をしたら私が許さないさ。」

ときりりとした眼差しを店に向けて、おとめを慰めた。


そしてことの顛末を、後で心太から詳しく聞こうと御隠居様は胸算段をして、嬉しそうに眉尻を下げるのだった。

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