奥行き百五十センチメートルの箱庭

古根

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 あれ、と思ったときには、僕が操るキャラクターはすでに彼女のキャラクターを場外へ吹き飛ばしていた。互いに残り一つだった残機も彼女のものだけ削り切られ、画面にはいま、僕のキャラクターが勝利のポーズを決めている。


 決まると全く思っていなかった技が入ってしまったことに訝しく思いながら隣を見ると、彼女は呆けたように画面を見つめていた。


「ひかり?」


 その様子が、ブマスラで負けたことに衝撃を受けているというには些かおかしいように思われ(そもそもブマスラの勝ち負けで盛り上がれるような関係性ではない)、僕は我知らず声を掛けていた。


「……ひかり?」

「…………ちゃった……」

「え?」


 よく聞き取れず、思わず聞き返してしまう。彼女の視線はいま、画面へひたと注がれ続けている。


 違う、画面を貫通して、どこか遠いところをみつめている。


 酷く皺の寄った眉間。見ている間にも、彼女の顔からみるみる血の気が引いていく。


 唇がわなないている。


 恐ろしいものを見ているような、それでいて、どこか恍惚としているような……。今さっきまでブマスラをしていたとは思えないような、尋常ではない様子に、僕はコントローラーを取り落としそうになる。


「わし、ちゃった……」

「な、何? どしたの……?」


 彼女の視線の焦点が徐々に手前へと還ってきて、ゆっくりとこちらを向いた。


「壊しちゃった……」

「……は?」


 何を? 思わず抱いた疑問は、我知らず口をついて出てしまっていたようだった。何を? と聞き返す僕に、彼女の唇は大きく引き吊り上がった。


「世界を」


 世界?


「世界、壊しちゃったぁ……、ぁは、はは」

「え、な、なんて?」


 困惑する僕をよそに、彼女は恍惚としたような表情を深め、誰ともなく「私、正しかったんだ……」と零す。それから唇が引きつったまま、彼女の瞳の焦点が僕に合わさり、「えにしちゃん」と告げられる。唐突に自分の名前を呼ばれて面食らっているうちにも、彼女から言葉が続く。


「あ、あのね、ごめん、えにしちゃん、うふふ、ごめんね……私いま、世界、壊しちゃった……」


 世界を壊しちゃった?


 血の気の引いた青白い顔に、反面、どこか興奮したような口調。あぁ、ふふ、とか漏らしながら、深呼吸を始める。体の震えが治まらないようだ。興奮からなのだろうか? 彼女の言葉の意図をはかりかねる僕に、やがて彼女は再び言葉を続けた。


 *


「この世界にはね、今からね、あと十分間の時間しかないんだ」

「十分間……?」

「うん。それからね、見て……」


 彼女がテレビに向き直り、手を中空に差し伸べる。止まった。彼女は彼女の正面、顔からおよそ五十センチメートルほどの空中に、あたかも透明な壁があるかのように手のひらをついている。


 よくわからない。


「パントマイム?」

「違うよ、えにしちゃんもやってみて、ほら」


 彼女は空中から手を離し、僕の右手を取り上げて中空に差し伸べるように促す。言われるままにしてみると、――。


「えっ」


 心臓が嫌な跳ね方をする。


 透明な壁がある。


 俄に動悸が激しくなる。なんだこれは。透明な壁――いや、と思い直す。壁ではない。確かに僕の手のひらが、空中に、目に見えないツルツルとした感触の存在を訴えている。しかし同時に、ブマスラで汗ばんだ手のひらを乾かす風圧の感触があった。


「こ、これ、何……?」


 思わず彼女を見やって尋ねると、彼女はゴクリと喉を嚥下し、「そこから先は何もないの」と答えた。


「世界がそこで終わってるの。いま触ってるそこを境にして、世界は無くて、そこからこっち側に向かって、光と、空気と、すべての物質とが発生してるんだよ。見てて……」


 彼女はソファから身を起こした。――起こす途中で止める。中途半端に屈んだ形。彼女は目の前に手のひらを触れ、そこからだんだんと手を外側に滑らせていった。じきに、三十センチもいかないうちに、彼女の手は外側にも透明の境界があることを訴えた。そして彼女は続けて彼女の頭上にも境界があることを示し、背後も同様にする。


 つまり。


「縦横、高さそれぞれ百五十センチ」


 それがいま、僕らが生きる世界の全て、そうことなんだよ、彼女はそう告げて再び隣に腰を下ろす。


 *


「十分経つとどうなるの?」


 喉が乾いている。彼女の話をなんとか咀嚼しきって、やがて僕はそれだけ絞り出した。


「世界が十分前に戻る」

「それは、つまり――」

「うん」


 空気、物質、光、十分間に、この百五十センチメートル四方の空間の物理現象すべてがなかったことになり、十分前の状態に戻る。


 すべて、すなわち、僕と、彼女の記憶さえも、そういうことか? と尋ねると、彼女は首肯した。


「あのさ」


 僕は壁に掛けた時計――正確には、壁と、壁に時計が掛けてあるように見えるよう、模倣された光が僕の視界に映す虚像――を見ながら、彼女に声をかける。


 あと十秒。


「今って、その……」なんて言えば良いのだろう。「その、つまり、何回目?」

「えへへ、わかんない」

「そっか……」


 僕はソファに深く凭れる。二人の間に沈黙が降りる。


 どちらともなしに、僕らは再びコントローラーを手に取った。互いにいつものキャラクターを選び、カラーを決め、いつものように戦闘開始のボタンを押下する。

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奥行き百五十センチメートルの箱庭 古根 @Hollyhock_H

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