海賊のひまつぶし

タイダ メル

海の悪魔と盗まれた真珠

第1話 船出

 ある日、ジョナサンは運命的な出会いをした。

「海に出たいの? じゃあ、私を船に乗せなさい。契約を結びましょう」

 目の前に現れた少女は、自分は海の悪魔デビー・ジョーンズだと名乗った。

 海の底から現れた少女の濡れ髪は黒く艶やかで、瞳は深海を覗き込んでいるような心地になる藍色だ。

「私に従うのなら、海はあなたの思うがままよ。引き換えに魂をもらうけど」

 少女は、幼い背格好には似つかわしくない蠱惑的な笑みを浮かべた。

 海の悪魔。ジョナサンは息を飲んだ。

 船乗りたちの命運を握る、冷酷な女。海で難破した船は、みんな彼女の元に沈んでいく。デビー・ジョーンズといえば、船乗りなら知らない者はいない、海の支配者だ。

「なんで天下のデビー・ジョーンズが、俺みたいな普通の漁師なんか誘うんだよ」

「女の勘よ。盗まれた宝石を探してるの。手伝いなさい」

 ジョナサンは、その誘いに乗った。

 ただその日の糧を得るためだけに船を出す毎日にうんざりしていたのだ。

 俺は餌を追いかけるだけのカモメではない。もっとすごいことがしてみたい。ずっと、胸の内でそんな想いがくすぶっていた。

「いいぜ。俺はずっとそういうのに憧れてたんだ。俺の名前はジョナサン。えー、歳は……」

「いいわよ、別に自己紹介とか。人間にはさほど興味ないの」

 こうして二人での船旅が始まった。

 水平線の向こうには未知の世界が広がっていて、胸躍る冒険が待っているに違いない。そう思っていた。

 そして今、ジョナサンとデビーは陸地から遠く離れた海のど真ん中にいる。

 青い海、白い雲、小さな船は波に揺れ、マストは潮風をはらんでいる。

 仰向けに寝っ転がったジョナサンのひたいに、図々しくカモメが降り立った。淡い茶色の髪に燦々と日が降り注ぎ、熱が溜まっていく。そろそろ日陰に入ったほうが良さそうだ。

「次の島までどれくらいだ?」

 ジョナサンは、寝っ転がったまま聞いた。デビーも寝っ転がって、手慰みに自分の長い髪をいじりながらそれに答える。

「あと十日くらいね。潮も波も万全だし、もうちょっと早いかもだけど」

「そんなにかかるのか……」

 ジョナサンは絶望した。

「備蓄が心配?」

「いいや。いつかは旅に出たかったから準備は万端だ」

 水も食料も酒も、かなり余裕を持って蓄えてある。舵や帆がダメになったとしても、それなりに生き延びることはできるだろう。

「じゃあ、なんでそんなにげんなりしてるのよ」

「それはお前もわかってるんじゃないか?」

「……ええ、そうね」

 二人は声を揃えて呟いた。

「ひまだ……」

 カモメが一声鳴いて、飛び去って行く。

「ひまだー!」

 もう一度、ジョナサンは叫んだ。

 天気は快晴、追い風もバッチリ。潮の流れにもうまく乗れた。ジョナサンが今日まで漁に使っていた小さな漁船は、放っておいても次の島までたどり着くだろう。帆も舵ももう動かさなくても大丈夫だ。

 オールでも漕ぐかと思ったが、そんな必要はないほどに風の力で船は進む。むしろオールにかかる水の抵抗で船が進むのを邪魔しているような気さえする。自然の前で人は無力だ。

 手持ち無沙汰になってしまってひとまず海図を開いてコンパスを見るが、だからと言ってやることが増えるわけでもない。船がまっすぐ次の島に向かっていることがわかるだけだ。

「海ってこんなやることないのか? もっとこう……胸躍る冒険ができると思ったんだけど! もっと海賊が襲いに来たりとか、怪物が出たりとか!」

 やけっぱちで叫んではみるが、その声は海に吸い込まれて消えて行く。

「海はあなたの思うがままって言ったじゃない。なんの危険もなく次の島まで連れてってあげるわよ」

「なんて親切な悪魔! 限度ってもんがあるだろうよ! なんか、こう、もうちょい適度な刺激が欲しい!」

 ゴロゴロと甲板を転がってみる。硬い。肘を強打して、ジョナサンは体を丸めた。

「いてぇ……」

「ちょっと、大丈夫?」

「もーやだ! 遠くに行けばなにか起こると思ったのに! 海はどこまでも広がってっけど! 所詮人は船べりまでしか行けねえんだ! ちくしょー! デビー、ちょっと悪魔パワーでなんかおもしろいこと起こしてくれよ!」

「こんなに恐れを知らない人間は久しぶりだわ……。私は悪魔なのよ? もっと恐れ敬いなさい」

「うんうん、怖い怖い。敬ってるよ。デビーちゃんは偉いな。すごい悪魔様だもんな」

「ナメくさるのもいい加減にしなさいよアンタ」

 暢気なカモメの鳴き声が降って来る。デビーが深いため息をついた。

「ひまつぶしにカモメでも数えてなさい」

「今、一万三千四百二十四匹まで数えたとこだ」

「そこまでしなくていいわよ。あなた頑張り屋さんなのね。えー、じゃあしりとりでもする?」

 これで六回目である。

 前の五戦はいずれも、どの単語がすでに言ったものなのかわからなくなってなあなあで終わったので、決着はついていない。

「やだよ……。田舎モンの語彙力のなさ舐めんなよ。もうなんも出てこねーわ」

 波の音と風の音、カモメの鳴き声が不規則に聞こえる。船の揺れもあいまって、二人を眠気が襲う。

「いかんいかん。寝てる場合じゃない」

 今は穏やかだが、海は危険だ。いつ天気が変わるかわからない。もしかしたら急に嵐が来るかもしれない。

 デビーの言うことが本当なのであれば、そんなことも起こらないのだが。

「もー。トランプくらい持って来なさいよ」

「持ってたところでどうするんだよ。ポーカーしようにも、賭けるものなんかなにもねえ」

 うんざりしたため息とともに、デビーが体を起こした。

「じゃあ、こうしましょう。あなた、おしゃべりは好き? 自己紹介がてらなにか話してよ」

「自己紹介とか別にいいんじゃなかったのか」

 発言の矛盾を指摘されたデビーは、気まずそうに目を泳がせて言い訳をする。

「い、いいじゃない! 暇なんだから、話のネタくらいにはなりなさいよ!」

「うーん、じゃあ、そうだなあ。俺って実は前世が極悪非道の王で、生まれ変わった今はしがらみにとらわれずに海で自由に生きることにしてるって話でもするか?」

「嘘をおっしゃい」

「なんだ、お気に召さないか? じゃあ、漁村では使えないって鼻つまみ者だった俺が海賊船に乗ったら実は超有能ですぐさま船長に抜擢されそうになるけど、断って一介の水夫として海を渡る話とか……」

 デビーはぽかっとジョナサンの頭を叩いた。

「自己紹介だって言ってるでしょ。そういう愉快な与太話じゃなくてさ。あなたは、なんで悪魔に魂を売ってまで海に出たかったの?」

 見下ろされて、ジョナサンも身を起こす。

「別に、そんなおもしろい話でもねえと思うけど」

「口答えする気? これは命令よ。話しなさい」

 その時、さっきまでは暢気に風に乗っていたカモメたちが、一斉にジョナサンめがけて舞い降りて来た。カモメたちはくちばしや爪でジョナサンをべしべしと攻撃し始める。

「ぎゃー! なんだこれ! やめろー!」

「私の命令に逆らうからよ。私は海、海は私。私に魂を売ったってことは、私に逆らえば海からの報復があるってことなの」

「先に言ってくんない!? そういう大事なことはさあ!」

「話す?」

「わかったわかった! 話す話す! 話すからこいつらなんとかしてくれ!」

 デビーが指をパチンと鳴らすと、カモメたちは空へ帰って行った。後には、あっちこっちつつかれて羽だらけになったジョナサンが残される。

 ジョナサンはふうやれやれと一息つくと、ニッと笑った。

 帆がはためく音が空気を叩く。風が気持ちいい。ひどく開放的な気分だ。

「わかったよ。俺はジョナサン。昨日まであの村で漁師をしてた」

 ジョナサンは、遠い目で海の彼方を見ながら、ぽつりぽつりと話を始めるのだった。

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